心を強靭にする四如意足

大相撲春場所の十四日目に、それまで一敗を守ってきた尊富士がその日勝てば、新入幕の優勝は百十年振りと言うので、久しぶりに相撲を見ました。しかしあっけなく負け、足の靭帯を損傷して歩けなくなり、病院へ救急搬送されました。「今日勝てば何年振りの」という前触れは時々耳にしますが、滅多にないから百十年もの時が経ったのだと、つまり今回も期待外れに終わったと思いました。

 

翌日、当然休場と思った尊富士が出てくると聞いて、まだ希望は残されているので見ていると、多少足を引きずってはいるものの、危なげない相撲で勝利し、百十年振りの優勝を果たしました。

 

会見の言葉で、尊富士の前日からの心の変化を読むことができるので、一部を引用します。

 

『その時は僕も諦めていたが、横綱が自分のところに来て「どうだ」って言って。「ちょっとこの状況じゃきついです。ちょっと歩けないですし」と答えたら。横綱自身の話を聞かせ、「お前ならやれる。記録はいいから、記憶に残せ。勝ち負けじゃない。最後まで出ることがいいんだよ。負けてもいいから。しょうがない。でもこのチャンスは戻って来ないよ。俺もそういう経験がある」横綱に言われた。

 

その瞬間に歩けるようになった。怖いぐらいに。さっきまで歩けなかったが、スイッチが入って第二の自分がいるみたいに、急に歩けるようになった』と話しています。

 

大怪我をした力士が、翌日、信じられないような力強い相撲で勝利し、優勝するのは、以前にもありました。私が観だけでも、膝の半月板を傷めた貴乃花(光司)、左肩を負傷して出場して優勝をした稀勢の里も同様の、あるいはそれ以上に奇跡的な勝利をしています。

 

初めて貴乃花が見せた奇跡を見た時は「信じられない」と感じましたが、今は、それらはブッダが「四如意足」と言われたダンマと分かります。

 

四如意足とは、欲・精進・心・思惟の四つで、パーリ語でイッディパーダと言い、奇跡を起こせるダンマです。

 

欲とは「そうする」ことを愛し望むことで、

精進はそれをするための継続した努力、

心は、そのことを集中して考え、

思惟は、成功の原因と結果を広く調査し熟考すること。

四つ揃えば、奇跡を現すことができます。

 

尊富士の言葉を引用すれば、照ノ富士に励まされて「出たい」欲が生じ、「ここで負けたら15日間みなさんが大阪場所に運んできた意味がないと思った」のは欲を生じさせた考えです。

 

「当日も本当に正直歩けないじゃないですか。実質痛いには変わらないので。でも自分で言った以上、土俵に恥ずかしい姿をあまり見せるものじゃないですけど、見せてもおかしくない状況の中で、俺は気持ちで絶対に負けたくなかったですし、ここまでやってきたことが意味がなくなる。逆に自分の中では出た方が今後の相撲人生に大きく変わってくると思ったので、もう気合いでやりました」この「気合」と言っているものが、ブッダの「如意足」というダンマです。

「本当にいろんなパターンとか、怪我しているので相撲の取り口を考えたが、やっぱり気持ちで負けたら見ている人も残念にと思いますし、(その日の」解説(者)が師匠だったので、変な相撲取ったら自分が師匠に言った「自分から出ます」と言ったのが、僕が嘘になってしまうので。これは負けてもいいから、記憶(に残る相撲を取る)だけで(いいからと言われた)」と言っています。これらは如意足の思惟、つまり熟考です。

 

そして当日、土俵の上で「努力」と「心(集中力)」がありました。

 

 初めての経験なのか、「怖いくらい」という言葉を何度も使っていました。怪我をしていて、激痛があるのに無理をして戦うのは怖いです。しかしその怖さを乗り越えれば、確実に犠牲にしたもの以上の結果があります。成功の原因と結果について熟考済みだからです。そして物質的結果より大きいのは、若者の弱い心が、少しずつ強くなり、次第に、何があっても動じない強い心の人になれることです。

 

仏教では、このような如意足を日常生活で使えば、心が強くなると言います。「今日はだるいから仕事を休もうか」「少し体調が悪いから、予定を変更しようか」などと迷った時、それが職務か、他の何らかの義務なら、その義務を愛し、義務を行いたいと欲し、出て行くことの意義や結果について熟考し、努力と集中力でやり遂げることができます。

 

昔の人には、まったくと言っていいくらい心の病気がなかったのは、今の人より精神が強靭だったからです。昔の人の精神が強靭だったのは、現代人のように便利な生活でなかったので、水汲みを休めば水が飲めず、飯炊きを休めばご飯が食べられないので、余程のことでもない限り、仕事を休むことができなかったからではないでしょうか。

 

私は、祖母や父が床に伏せているのを見たことがありません。友達は祖母さんが寝ているのを見たことがなかったが、お祖母さんは「今日は元気」と感じる日は一日もなかったと述懐したと話してくれました。

 

昔の人も生身の体を持っていたので、時には、あるいはしょっちゅう体調が悪いことはあったでしょう。しかし「気力」で何十年間も、一日も休まず自分の職責を果たし、休まないことを誇りに、弱音を吐くことを恥と思っていたようです。

 

物質的な発展が限界に近付けば、精神的な衰えが始まります。日本でも、社会にいろんな事故や事件、災害がある度に、精神面のケアを必要とする場面が多くなりました。このように軟弱になってしまった心を、どうすれば強靭に鍛えることができるか、折に触れ考えていました。そして尊富士の千秋楽を見て、日常生活で如意足を使えば、心を強靭に訓練できると気づきました。

 

今の人の心が弱くなったのは、日常生活で我慢することが無くなったからかも知れません。団塊世代である私たちの親はまだ頑固親父が多く、我慢することばかりだったので、自分の子供にはそんな思いをさせたくないと、優しすぎる、理解のありすぎる親になったことが、子供と自分自身の心を弱くしたのかもしれません。

 

よく「心を鍛えるには、自分の心に勝つ練習をする」と言われます。この場合の「自分の心」とは煩悩で、煩悩の言い成りにならないことを自分に勝つと言います。煩悩の言い成りにならないと同時に、弱音を吐かない、自分の弱腰を叱る、お腹が空いても騒がない、多少の不満で騒ぎ立てないなど、自分を甘やかさないことは、確実に心を強靭にすると思います。そして心が強くなれば、その分だけ苦が減ります。

 

母の告別

お題「不思議な話」

今から三十年ほど前のことです。ある真夜中、たぶん一時半くらいだっと記憶しますが、ものすごく大きな音がして目が覚めました。誰かが全力で投げたバレーボールかラグビーボールのような物が、トタン張りの雨戸を直撃したような音でした。

 

呆然としていると、二階で寝ていた息子が降りて来て、「今誰かが一階の雨戸を、すごい勢いで叩いた」と言いました。私は、二階の雨戸に猛スピードのボールが当たったように感じましたが、息子は反対に、一階の雨戸を誰かが叩いたと言います。夫と娘も二階に寝ていましたが、起きて来ないところを見ると、何も聞こえていないようでした。とても寝ていられるような音ではありませんでしたが。

 

前日は、近所で懇意にしている人が癌の手術を受け、息子が病人も家族も車で送迎していたので、急変があって呼びに来たのかもしれないと、その家の近くまで見に行きましたが、明りが消えて寝静まっていると言って戻ってきました。

 

翌朝、二階の雨戸を見ても凹みの後はなく、投げ込まれたボールも石も落ちてなく、一階の雨戸にも異変はありませんでした。あんなに凄い音だったので、雨戸が凹んでいるはずだと、息子も納得できない様子でした。

 

夫と娘には何も聞こえず、眠り続けていたというのも不思議でした。聞いたのが一人だけなら夢の中の出来事として片付けられてしまい、全員が聞いたなら、現実の何かである可能性が高いですが、聞いたのが私と息子、二人だけだったので、あの音は実際にあった音でなく、何か不思議な力による音で、かねてから入院中の母からのメッセージではないかと、息子と話しました。

 

息子は幼稚園から小学校が終わるまで、毎年夏休みいっぱい母の家で田舎暮らしを楽しんだので、母は息子を内孫のように可愛がっていたからです。たまたま翌日が祝日だったので、家族で母の見舞いに行きました。

 

母はしばらく前から糖尿病で入院していました、一二か月ほど前から、夜も看病が必要になり、地元に住んでいる子供たち、つまり私の兄弟たちが交代で夜間の看病をしていました。しかし私は遠方に住んでいるので、一度も行っていませんでした。

 

病院に行くと、母はベッドの上に座っていて、テレビがつけたままになっていました。見ている様子はなく、視点の定まらない目をしていました。私たちが行っても表情を変えず、話しかけても一言も答えませんでした。座って首を撫でたり、手を動かすなどしていますが、誰が話しかけても返事をしない、表情も変えないので、私たちは困惑しきって帰ってきました。

 

その二日後の朝、母の意識がなくなったと連絡があり、その夕方に亡くなりました。それで私たち家族は、しばらく会っていなかったから、母が最期に会いたがって、私と息子の雨戸を叩いたのだと結論しました。しかし、無理にそう結論しただけで、不可解な部分は残りました。

 

その二年くらい前から、母に寄食している兄が、母が子供たちに電話をすることも、会うことも禁じていたので、その間母と話をしていませんでした。しかしある時、しばらく振りに母から電話が来て「仕送りが遅れているけど、お金がないんかい? お金がなければ土地でも売りなよ」と言いました。

 

父の死後、年金だけでは生活費が足りないというので、家族会議を開いて、独身だった妹と同居する兄を除いた三人で、仕送りすることにしました。しばらくすると兄の一人が、生活が大変だと言って仕送りを止め、それを聞いたもう一人の兄も「うちも大変だ」と言って止めたので、夫は「仕方がないからうちで三人分送ろう」と言い、毎月送金していました。

 

十年以上が経過すると、我が家も夫の仕事がうまく行かなくなり、公共料金の滞納を繰り返すほどになり、しばらく仕送りを止めようかと夫に相談したことがありました。しかし夫は「生活は休みなしだから、仕送りを休むなんてダメだ。親に貧乏させて、俺たちだけ美味い物を食っても美味くない」と言うので、苦しい中でも仕送りを続けていました。

 

母からそのような電話があった後も仕送りを続けていましたが、母への気持ちは冷めてしまっていました。入院したと聞いても、すぐに見舞いに行く気になれなかったのは、そのせいだったかもしれません。

 

最後の会話になったあの時の電話の言葉は何だったのか、兄から電話するよう強要されて仕方なく言ったのか、あるいは自分でそう思って言ったのか。いつ会っても「仕送りには感謝しているよ」と言っていたのに、数週間遅れただけで、借金取りのように高飛車に催促の電話をして来たのは何故だったのだろうと、思い出す度に考えていました。母らしくなかったからです。

 

その当時と、その後出来事や、同居していた兄の断片的な言葉を紡ぎ合わせると、一つの話として繋がってきました。

 

母の死の前から、同居していた兄が恋愛をし、それを兄弟に知られる、つまり母が子供たちに話すのを警戒して、兄は、母が子に会うこと、電話することを禁じ、恋愛にはお金が必要なので、(母に寄食していた兄は)仕送りが遅れるのが心配になり、母に催促の電話をさせ、母はそれを苦にしていた、あるいは後悔していたのではないか、という筋書きです。

 

母は死ぬ前に私に会って、そのことを言いたかったのかもしれません。あるいは単に、会いたかったのかもしれません。しかし私が見舞いに行った日には、既に心、つまり四蘊(受・想・行・識)は壊れていたようでした。あの大きな音は、母の心が壊れた瞬間だったのかもしれません。

 

死の二日前に、あのように不思議な現象を起こして私と息子を呼んだ母の、最期の思いが、今では分かるような気がしています。

頭が壊れた

昨年の私の運勢は、四柱推命で言うと「比肩」という星回りで、十年に一度の健康に良くない年でした。十年前も長く患って、死ぬかと思うほど苦を味わいましたが、十年後の去年も春先から十一月頃まで、苦しい症状がありました。あるサイトの説明では、比肩の年は「我が強くなり、周囲から浮き上がり、病気、古い病気の再発、生別死別、転職などがある」とあります。昨年は妹が亡くなり、五十年前は父が亡くなりました。

 

去年は、西洋占星学で言うと、天王星海王星が90度(凶座相)になっていて、その星の影響はほぼ一年、今年も入れると一年半から二年くらい続きます。生涯にはいろんな星の座相を経験しますが、天王星海王星の凶座相ほど奇妙な体験は初めてです。一言で言えば、魔法にかけられて眠っていたような印象があります。

 

この座相の影響下に入るとすぐに、朝起きると、そして時々、理由のない恐怖や不安が心を過り、家のリビングにいても、舞台の袖で出番を待っている時のような胸騒ぎを感じました。

 

一つのテキストには、「人が理解しにくい考えを持つ」とあり、もう一つのテキストには、「一体何が起こっているのか分からず混乱狼狽するかもしれません。霊的な経験をするかもしれず、少なくともそのようなものがあると認めざるを得なくなるでしょうが、そのような研究をするべき時ではありません。今のあなたはあまりにも混乱していて、大事なことを処理できないので、大事な決断は頭が冴えるまで待ちましょう」とあります。また心臓が悪くなるともありました。

 

 確かに心臓は悪くなりました。猛暑日が続きましたが、電力不足に配慮して控えめな冷房なので、皮膚の表面は冷えても体の芯に熱が溜まり、内部が熱いと心臓が苦しくなり、夜中に何度も目が覚め、その後朝まで動悸がして一睡もできませんでした。理由のない不安がよぎるのも心臓の症状の一つです。体の症状はたくさんありましたが、それについては、今回は触れません。

 

 痛感したのは、やること成すこと、すべてが裏目に出たことです。例えば、煮物は味がはっきりしていた方が美味しいと考えて濃い味付けをすると濃すぎて失敗し、濃すぎるよりは薄味の方が良いと控えめにすると、薄味すぎて失敗しました。微調整ができません。

 

シャワーの温度の調節もちょうど良いということは珍しく、熱すぎて眠れなかったり、ぬる過ぎて体調を崩したりし、毎日のことなのに、外気温の変化も激しかったので、学習して一定の適度を探すことができませんでした。

 

買い物でも、行動でも、AにしようかBにしようか迷っている時、突然CとかDという考えが降って来て、即座にそっちに決定してしまい、当惑することもしばしばでした。

 

会話なども、普通人は話そうと想っていることを話し、その枠から外れることはありませんが、突然思ってもいないことが口から出ていて、それがどんどん暴走してしまい、話していながら、自分が何を言っているのか分からなくなることもありました。これには閉口しました。

 

一事が万事、日常のほとんどすべてが失敗や当惑の連続でした。すべてが失敗なら、判断力は二三才の幼児と変わりません。物事を判断する時に、今までの経験や知識は無いのと同じです。

 

今までの知識と経験が消えたわけではないのに、必要な時に思い出して役立てることができないのは、サティがないからです。その場面にふさわしい知識を思い出す働きがサティだからです。一日に何回も、何十回もサティが働かなければ「正常な人」ではありません。

 

すっかり自分自身を信頼できなくなり、自分をまったく信用できなければ狂った人と同じで、天王星海王星の座相による一時的なものと知っていても、自分自身をどう扱って良いか戸惑いました。自分の頭は壊れてしまったのか、呆けてしまったのか。いずれにしても、まともな人の状態ではないと分かりました。

 

西洋のおとぎ話にある「魔法にかけられた」というのは、こういう状態を表現したのかも知れないと思いました。渦中にいる間中、洞窟の中にいるような、窓のない部屋に住んでいるような、囚われているような閉塞感がありました。

 

 このような行動を他人が見ると、行動に一貫性がなく「理解できない」と感じるので、占いのテキストにあった「他人に理解できない考えをする」というのが分かります。他人がどう思うかはともかく、何でも裏目に出るのは、結局自分の判断が間違っているからです。この時期は正しい判断ができない、つまり間違った判断しかできない時なのかもしれません。自分は正常の範囲の大人だと思っていたのに、まだ認知症にもなっていないのに、このように判断力を失うとは、本当に思いもよりませんでした。

 

 時を同じくして、使っているパソコンが古くなって動きが悪くなり、その上私の操作ミスで、ホームページの編集ができなくなりましたが、頭が霞に覆われているのと、「重要な決断は後延ばしにする方が良い」という占星学的アドバイスを参考にして、この時期が過ぎるのを待とうと決め、自分の頭と同じくらい狂って使い物にならないパソコンを使っていました。

 

昨年末、頭の中に掛かっていた霧がようやく晴れ、普段の状態に戻ったので、PCを買い替え、ホームページの更新、編集もできるようになり、やっと普通の日常に戻ったように感じます。(まだ今年も、合計六か月くらい、その座相になる時期がありますが)。

 

 ちなみに出生図の天王星と天空の海王星が吉座相(120度)を作った二十四年前は、思いがけず四禅を体験しました。四禅にいた数か月の間は、本当に天国にいるような、夢の中のような幸福(涅槃と同じ味)を味わいました。そして洞窟の中のようでなく、身の回りがガラスのドームで護られているように感じました。

伝記を読むと、プッタタート師も、ルアンポー・チャー(アーチャン・チャー)も、四禅を体験したと思われるのは、この座相の時と推測されます。

 

人生のある時期にめぐってくる(トランジットの)天王星海王星の座相の説明は、冒頭に書いたように一時期だけですが、出生図にある二つの星の座相については、もう少し詳しい解説があります。同じ星なので、本質的には同じと理解して良いと思います。

 

吉座相は『高度の直観力と超意識がある。インスピレーションが内面的な啓発と心の世界の拡大に役立つ。抽象的な物を理解し、理想社会に向かって確信に満ちた足取りで前進する人。一群の天才によって達成された科学、思想、文芸、芸術の分野と関係がある』とあり、(昭和14年頃から昭和22年頃まで)

凶座相は『精神的混乱を招くような奇妙な空想癖と、不鮮明な意識を持つ。不安定な情緒と敏感で落ち着かない性質があり、迷いと不吉な予感によって前進を妨げられやすい。刹那主義的な生き方や、信じられるものを見いだせない精神的不幸と関係がある』とあります。(昭和26年頃から昭和34年頃まで)

 

同じ星が巡ってきても、人それぞれのカンマによって受け取る出来事は違います。しかしこのようにサティが働かない、何かのカンマによって働けない時が来るとは、想像したこともありませんでした。昨年は、災害に遭ったように思いがけなく、そして当惑し、心身共に苦しい歳でした。生きているといろんなことがあると、改めて感じました。

 

 

事実は人物の外にあり、心の中にはない

 ある人と仏教の状況についてやり取りをしている時、相手の人が「あなたが言っていることは事実ですか」と質問してきました。「それは事実です」と言うほど自信過剰ではないし、「事実ではありません」と言えば、五戒の不妄語に触れます。仏教の歴史や、各国の仏の状況など、誰がどう話せば事実と言えるのか、事実とはどういうものか、その人は知らないように見えした。

 

 事実とは、それを正しく把握し、言葉で表現できる人は誰もいない物のように見えます。例えば一組の男女がどこかで出会ってプロポーズしただけの話(双方にとって嬉しい事柄)でも、双方が話す事実が違うことは珍しくありません。それが離婚する話(不満な事柄)になると、ほとんど一致する部分がないほど、双方が捉えている事実には大きな喰い違いがあります。事実は一つであるはずなのに、煩悩がある人が自分の感覚で捉え、自分の言葉で表現する時、人それぞれに「正しさ」があるように、事実はそれぞれ違った物になるので、一致しないのは当たり前です。

 

 だからニュースでも刑事事件でも訴訟でも、人の外部にある物である事実を、正しく言葉で表現できる人は誰もいません。新聞やテレビのニュースでも、厳密に中立という立場はなく、できるだけ中立に近くなるよう努力をするだけで、取材をする人、原稿を書く人、その原稿を選ぶ人の主観による偏りがあり、「それが事実」「それは事実」と言うことはできません。

 

しかし世間には「新聞に書いてあることは事実」、「教科書にあることは事実」、「大学者が言うことは事実」「辞書にあることは事実」、「大勢の人の言うことが一致していることは事実」などと信じている人たちもいます。そういう人は、そのような所から得た情報や知識を「事実」あるいは「真実」と信じ、それを知れば、自分は事実を知ったと見なすのでしょう。

 

 いろいろ考えて見ると、事実は誰かの心の中にある物ではなく、人物と人物の間、人物(観察者)の外側にある物で、観察者は「自分が把握した事実」以上の事実を知ることはできないのではないかという結論に至りました。だから裁判官などは、複数の人が言う「事実」を聞いて、人の心の中にない、本当の成り行きや状況である事実を探し、小説家は複数の登場人物の視点で同じ出来事を観て、一つの真実を描くのだと思います。

王の十聖道

 朝日、毎日、NHK時事通信などの調査によると、岸田総理の支持率が過去最低を記録したとありました。最近、あるいはここ二三十年の総理大臣は、就任時には何らかの好転を期待してか支持率が最高に高く、日を追って、退陣するまで下がる一方です。だから就任時の支持率は、その人への期待というより、それまでの総理への不満度を表しているようにも見えます。それは最初から総理の器でない人が総理になるので、支持している人も「他の人より良さそうだから」という理由が多いのに、何かのはずみで、偶々支持率が上がることがあると、自分の政策が受け入れられたと勘違いして、ますます国民が見えなくなってしまうからかもしれません。

 

「総理は誰でもできる(だから自分でも)」と勘違いしていたのではないかと思える総理大臣もいました。しかし総理大臣は期限付きとは言え国を治める人なので、昔の王とおなじで、王の聖道がなければならないと思います。国民はそういう道(生き方)を求め、そういう人なら、歓喜をもって迎え、支持すると思います。

 

日本では聞かない言葉ですが、インド文化圏には「王の十聖道」という言葉があります。十の聖道とは、

 

1.援助愛護し、

 2.善い規律があり、

3.常に心の中の悪い物を捨て、

4.誠実で、

5.礼儀正しく、

6.自制でき、

7.怒りを知らず、

8.苦しめず、

9.忍耐し、

10.疑わしさ、あるいは非難する物は何もない

 

  この十の美徳のある人が王にふさわしい人、現代で言えば、総理大臣や大統領にふさわしい人です。世界史上の名君と言われる人も、日本史上の幕府や藩の名君も、みなこのような資質が揃っているはずです。

 

 歴代の総理大臣をこの十の項目で見た時、それらの揃っている人が何人いるでしょうか。昭和の総理大臣にはそのような凛とした威厳が感じられる人が多く、昭和天皇上皇様も、十聖道が揃っているように拝見しますが、今の総理大臣や総理大臣経験者には、十聖道の欠片もかけらもないように思えます。

 

「王の十聖道」のような治世者の資質を計る基準が社会にあれば、国民はこの基準で総理大臣を計って見るようになり、総理になる人、総理である人も「これらの項目で国民が自分を見ている」と、自分の資質を意識するようになります。

 

 自分自身の好みや利益に左右されず、その人が総理にふさわしい器かどうか、国民誰もが熟慮して見られる基準として、「王の十聖道」という言葉が、多くの人が知る言葉になってほしいと思います。

自然死を許さない社会

昨日八月二日のプレジデントオンラインに「ピンピンコロリ(PPK)は最悪の死に方」という記事がありました。ピンピンコロリは「最悪な死に方」である…高齢者医療のプロが「PPKを目指してはいけない」と訴えるワケ 「理想的な逝き方」が根付く社会は息苦しい (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

しばらく前から、死ぬまで元気で動いていて、突然、一気に死ぬのが理想の死に方のように言われ、東京巣鴨のとげ抜き地蔵は、一時PPKを願う人の参詣で賑わいました。今も賑わっているかどうかは知りません。

 

しかし今、家で体調が急変した時。その記事は次のように述べています。

 

『その急変の瞬間を目撃、共有した人は100パーセント救急車を呼ぶなり、即座に救命救急処置を開始することになり、これらは通常避けられません。  逆に、現在の日本において、つい先ほどまで元気に話をしていた人の呼吸や心拍が急に止まっているのを確認したにもかかわらず、ベッドに寝かせたまま“平穏に看取る”という選択をした人は、なぜそのような対応をしたのか、なぜ救急車を呼ばなかったのか、厳しく問われるとともに、あらぬ疑いをかけられる危険性すらあるといえるでしょう』。

 

家で家族の急変を目撃した人は、百パーセント救急車を呼び、病院で蘇生処置を施され、付き添いの家族も追い払われた冷たい救急処置室で呼吸器に繋がれ、四肢に点滴やラ何やらの針を刺されて、その挙句に死亡し、それが現代有り得るPPKだと筆者は述べています。

 

この記事を読んで、現代は飛んでもない時代になったと思いました。家で、朝起きて来ないで、ベッドの中で死んでいた、あるいは床やソファーに座って、横になってテレビを見たまま死んでいたような場合も、それが「自然に起きた死」と警察が認めるまでには、非常に厄介な過程を通過しなければならないと、テレビの特集番組で見たことがあります。

 

つまり長患いで掛かり付けのクリニックや病院がある人は、後日掛かりつけ医に、その病気の関連死であることを証明してもらえますが、それ以外の人は、家で静かに死ぬことは、ほとんど望めない社会になってしまったようです。

 

私は日頃から家族に、「私に何かあっても、救急車は呼ばなくても良い。死ぬ時が来たら、そのまま静かに死を迎えたい」と言っていますが、もし家族がその通りにしたら、警察から厳しく取り調べられるかもしれません。そうなれば、死んでも家族に迷惑をかけることになります。大人しく病院へ運ばれ、これ以上どう処置しても生き返らないと言えるまで処置を受けた末に死ぬ方が、家族にとっては楽です。

 

自分がどのような死を迎えるかは選べませんが、病気になった時、どのような処置や治療を受けるか否かは、本人に選ぶ自由はあるはずです。それなのに、前述のような場面に遭遇した人は、百パーセント救急車を呼ばなければ社会から責められ、警察から疑われるために、病人の意思を知っていても、救急車を呼ばざるを得ない家族も気の毒です。助かれば通報者の手柄ですが、治療の甲斐もなく死んでしまえば、親の意思に逆らい、嫌がっていた病院で死なせたことを悔やむかも知れません。

 

「誰もが幸福に生きる権利がある」と謳っている基本的人権には、静かに自然死を迎える自由は無いのかも知れません。

黙食礼讃

 新型コロナウィルスの流行で、学校給食は黙食を強いられていましたが、最近、食事中の会話を解禁したにも拘らず、子供たちは今も黙食を続けていると、テレビのニュースで、好ましくない事のように報じていました。私は「黙食のどこが悪い? できればずっと続けてほしい」と思います。

 

 食べながらお喋りをすれば、食べることに集中できません。集中できなければ不注意になり、事故や粗相も生じやすく、食べ方(行儀)も見苦しくなります。当然衛生面でも良いことはありません。食べることは遊びや娯楽でなく、命を養う重要な行為なので、もっと大切に、静かにしたいと思います。

 

子供の頃、食事中にお喋りをすると、「黙って食べる!」と叱られました。その頃は窮屈に感じましたが、今は、黙って食べるのは快適で良いと感じます。仕事に専念している時に話し掛けたくも、話し掛けられたくもないのと同じです。お喋りしたければ、食事の後、お茶でも飲みながらゆっくり話せば良く、食事中にする必要はありません。相応しい時間までお喋りを待てないことにも、問題があると思います。

 

昨年「日本に黙食という習慣はない」と言った学者の発言が問題になりました。しかし武家の文化は黙食と言えると思います。仏教でもイスラム教でも昔のキリスト教でも、日常の食事は黙食に近く、少なくとも団らんの機会ではないはずです。飲食とお喋りを同時に楽しむ中国の影響か、高度成長期以降、「夕食は親子の会話の場」みたいなことを言う人が現われ、それから食事中にお喋りをするのが普通のこと、行儀悪くないことになったように思います。

 

黙食と同時に、コロナ前は大皿料理を突いて食べていた家も、コロナになると、最初から銘々に分けて、昔のお膳のように、今風に言えば定食屋のように、最初から分けるようになりました。これも続けて欲しいと思います。我が家も昔は、すべての料理を一人前ずつ分けていましたが、少しでも洗い物を減らすために、若い者が料理をすると大皿で出すので、適量を静かに食べるにふさわしくなく、私は不自由に感じます。

 

(取り皿を用意しても、それはたべるだけ一度に分けるのでなく、何度かに分けて自分の皿に取るので、銘々膳のようではありません。

 

定食屋のような膳は、自分が食べる(食べた)量がはっきり分かり、途中から欲望で食べる量が増えてしまう虞れもなく、競争心で急ぐことも、ついたくさん食べてしまう心配も、他人に遠慮する必要もなく、静かで、そして衛生的で、良いことずくめです。

 

私は若い頃から、機会がある毎に世界の映画を観ましたが、観た限りでは、一人前ずつ膳にするのは、インドと日本だけのようです。この二か国以外の国は、庶民の家の食器の数に限りがあるからか、幾つかの大皿と、各自の取り皿だけで食べているようです。

 

衛生面でも、精神面でも、マナーとしても、黙食と銘々膳は素晴らしい習慣です。できればこのまま、日本の伝統的様式として、コロナ後の新しい習慣として、残って欲しいと願っています。