異常気象の原因・ブッダの言葉から

最近は日本中、世界中で代わる代わる異常気象が起きています。

ブッダの言葉に、異常気象についての言及があります。
ブッダヴァチャナによる縁起」の中の「人間の弱さの縁起」という文章です。これによると、現代人の多くが、不健康であることの原因は、すべての王と役人とバラモン(司祭)と長者と町の人、田舎の人に、ダンマがないことど分かります。

今異常気象は世界中にありますが、よく見るとほとんど邪見の国、ブッダダンマがない国のように見えます。まだ国民に宗教が生きている国は、まだ異常気象とは無縁のように見えます。


『 比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持していない時代は、すべての役人もダンマを維持していません。
すべての役人がダンマを維持していなければ、すべてのバラモンと長者もダンマを維持していません。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していなければ、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持していません。


 すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していなければ、月と太陽の循環も不安定になります。
月と太陽の循環が不安定になれば、星座とすべての星も循環も不安定になり、
星座とすべての星の循環が不安定になれば、夜と昼も不安定になり、
夜と昼が一定でなければ、月と旬も一定しません。

 月と旬一定でなければ、季節と年も不安定になり、
季節と年が不規則になれば、各種の風も不規則になり、 
各種の風が不規則に吹けば、正常な風の秩序も変わり、
正常な風の規則が変化すれば、すべての天人も四散し、

 すべての天人が混乱すれば、雨も適度に降らず、
雨が適度に降らなければ、すべての穀物も平均して熟しません。

 比丘のみなさん。すべての人間が熟していない穀物を食べると、寿命が短くなり、皮膚の異常、衰弱、そして病気が多くなります。



 比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持している時代は、すべての役人もダンマを維持しています。
すべての役人がダンマを維持していれば、すべてのバラモンと長者もダンマを維持しています。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していれば、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持しています。
すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していれば、月と太陽の循環も安定し、

 月と太陽の循環が安定すれば、星座とすべての星も循環も安定し、
星座とすべての星の循環が安定すれば、夜と昼も安定し、
夜と昼が一定ならば、月と旬も一定で、
月と旬一定ならば、季節と年も一定で、

 季節と年が安定すれば、各種の風も安定し、
各種の風が規則的に吹けば、正常な風の秩序があり、
正しい風の規則があれば、すべての天人も四散せず、
すべての天人が四散しなければ、雨も適度に降り、
雨が適度に降れば、すべての穀物も安定して熟します。

 比丘のみなさん。すべての人間が良く熟した穀物を食べれば、寿命が長くなり、皮膚の色艶があり、丈夫で、そして病気が少なくなります。』


このことから、日本人の道徳が低下し始めてから、異常気象が始まったので、私たち一人ひとりが道徳をもち、道徳のある市民、国民になり、道徳のある首長を選ぶ知恵があれば、異常気象が治まると知ることができます。
現在でも、市民、国民に、まだ道徳がある国や地域では、異常気象が起きてなく、異常気象は、道徳の消滅が著しい物質的先進国に限っているいことでも確認できます。


「違法ではないが不適切」と五戒


舛添氏が自らの疑惑を払拭すべく調査を依頼した弁護士が、疑惑の対象となっている多くの項目について、「違法ではないが、不適切」と発表しました。違法というのは国の法律の話で、不適切というのは倫理や道徳の話です。今回の騒動を通して、法律と道徳と五戒について、考えて見ます。
 
敏腕と言われる弁護士の威信を掛けての発言ですから、家族旅行や旅行先の食事、台湾で買った支那服や落款などの土産や、神田の書店で買った趣味の本や子供の漫画本までの支出を政務費に計上することは、違法ではないようです。違法ではないのに多くの人に非難されるのは、不適切、つまり正しい人の道である道徳や、多数の人の論理である倫理に反すからです。
 
だから、法律は、道徳より低い決まり、最低限これだけ守らなければならないルールで、道徳は、良識のある人、見識のある人が守るルールで、道徳があれば、社会から良識の人と認められると言えると思います。
 
仏教には、在家のために五戒という戒があります。五戒の二番目、不偸盗戒は「盗まない」ことで、舛添氏の疑惑事項は、表面的に浅く見れば盗みではないので、この戒に触れないかもしれません。しかしそれなら、五戒に触れなくても道徳に反し、人に非難されることになります。
 
仏教は、どんな苦も生じさせない道を教えているので、そして誰にも、あるいは智者や善人から非難されない道なので、どの戒のどの項目でも、それを遵守しても道徳に反し、人に非難されるような戒はあり得ません。
 
だからこの一連の出来事を見ると、五戒の「盗まない」と項目を、ごく浅い解釈で遵守しても、道徳以下であり、善人(清信士、清信女)でも何でもない普通の人、一般庶民から非難される悪の多い人でしかないことが分かります。
 
しかしほとんどすべてのお寺のサイトや仏教のブログで、「不殺生戒。不偸盗戒。不妄語戒。不邪淫戒。不飲酒戒」「殺さない。盗まない。嘘を言わない。不倫をしない。お酒を飲まない」と教えています。
 

ターン・プッタタートは、五戒も八戒も、十戒も、二二七戒も、分け方が違うだけで、守るべき範囲はみんな同じと言われています。戒の数が多くなるほど具体的になりますが、五戒は五つしか項目がないので、一つの項目が守備する範囲は非常に広いです。だからそれぞれの項目の要旨を、しっかり把握しなければなりません。
 
ブッダが言われている不殺生戒は、「他人の体と命に危害を加えない」、不偸盗戒は、「所有者が与えていないものを取らない」。他人の財産に危害を加えない」、不妄語戒は、「他人に、言葉による害を加えない」、「他者が愛して護っている物に手を触れない」、「一切の心を酔わせるものを嗜まない」です。
 
このように解釈すれば、不正な支出も、政治活動に使用する費用は与えられていますが、個人が使用する費用ではないので、与えられていない用途になり、不偸盗戒に触れます。
 
舛添氏の答弁は、不妄語戒(嘘を言わない)には触れないかもしれませんが、終わりがない話、綺語なので、ブッダが意図された範囲の五戒には触れます。
 
また、若者のイジメは、初めの四項のどれにも当てはまるので、当然戒に触れますが、浅い解釈の五戒では、イジメは漏れてしまいます。今はやりの○○ハラスメントと言うのは、不妄語戒に触れます。
 
少し仏教の知識がある人、瞑想をしている人などが、時々「在家は五戒を守るだけで良い」と言うのを耳にします。誰もが、文字通りの五項だけと考えているので、無理はないとは思いますが、狭い意味、浅い解釈の五戒を守ったのでは、「違法ではないが不適切」つまり「不道徳」で、悪の多い凡人から一歩も前進しません。
 
まだ善人に非難されるなら、まだ仏教徒と見なせないかも知れません。自分のために戒を持すなら、目的のために戒を持すなら、従来の解釈の干乾びた五戒でなく、善人、つまり清信士、清信女である凡人になるよう、ブッダが意図された広い意味を知り、その戒の要旨を掴まなければ意味がないと思いました。

学問軽視の時代


以前から、「昔、学問のある人はすべて人格者だったが、戦後、学問のある人即人格者ではなくなった」と感じていました。
 
これに関して、最近私の中で明らかになったことがあるので、書きたいと思います。というのは、今まで私は、学校で教えるような知識をすべて総称して学問と言う、というような曖昧な理解をしていました。しかし最近「学問」という言葉の正確な意味を知る機会がありました。
 
学問とは、文学、哲学、歴史学を言い、物理や化学などを科学、農学や工学、医学は技術と言うそうです。学問の本質は「いかに生きるべきか」で、たとえば原子物理学などは科学で、原子爆弾を製造するのは技術で、爆弾を使用するかしないかを判断できるのは学問だけだそうです。つまり学問とは、仏教の「正しい見解」あるいは無明の反対の明に近いもののようです。
 
これで、昔の知識者はすべて学問のある人だったが、現代の高学歴の人は人格者ではない理由が明らかになりました。昔、技術は親や職場の親方から習うもので、学問と言えば、文学や哲学(フィロソフィではない)や歴史がほとんどだったので、社会の重要な地位にいる人は全員、学問のある人で、大学は学問を身に着けて、人の上に立てる人になるためでした。
 
しかし現代教育のほとんどは、何らかの(職業のための)技術か科学なので、現代教育を受けた人の多くは、「人間としていかに生きるべきか。何が善で、何が悪か。何が重要で何が重要でないか。何をするべきで、何をするべきでないか」という知識である学問を身に着けていないということになります。
 
今の大学生の学部別学生数を調べて見ると、良い資料がなく、女子学生の状態しか分かりませんでしたが、それによると、科学と技術の学部の学生数は、人文科学の学生の三倍くらいでした。男子学生の場合は、推測するに、学生全員に対する人文科学の学生数の比率は、当然女子の比率より低くなると思われます。
 
国民の学歴が高くなった現代も、学問のある人の比率は決して増えてなく、昔と変わらないのではないかという気がします。そして昔は、人の上に立つ人は学問のある人と決まっていましたが、今は学問がない人でも、人の上に立つ機会は平等になりました。
 
いかに生きるべきかを知らない学問のない人たちが、政治や経済やいろんな組織を牽引して行く場合が多くなったので、すべてがあるべき方向へ向かわず、あるべきでない方向へ向かってしまうのかもしれない、と思いました。
 
それというのも、学問と科学技術の違いも、目的も価値も知らず、大学で学ぶものは何でも学問と勘違いし、「人の上に立つには、科学や技術の知識ではなく、それにふさわしい学問が必要」と知らないことが原因だと思います。

今の社会を冒頭の説明で例えれば、今の社会は、爆弾の開発(科学)をする人、爆弾を製造する(技術)人ばかりで、爆弾を使うべき時、使うべからざる時を判断する智慧(学問)を忘れています。

だから学問のない人たちに、高い科学技術の産物であるパソコンが普及した結果、コンピュータは、簡単に大きな犯罪を犯せる道具になりました。

これは、科学や技術の偏重による宗教や道徳の軽視と、大いに関わりがあります。文学・哲学と、道徳・宗教は、切っても切れない深い関係だからです。

大焦熱地獄

ブッダヴァチャナによる縁起 第一章の2に、大焦熱という地獄の話があります。

『比丘のみなさん。大焦熱という地獄があります。その地獄で、人物は目で何らかの形を見ることができますが、望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、欲しくない形だけが見え、欲しい形が見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません』。声・臭い・味・触・考えについても、形と同じ様に説明しています。

こんな地獄について熟慮して見ます。ブッダが言われる地獄は、国や地域や大きな施設ではなく、心の中の状態なので、それは人の心の中にあると考えられます。


望ましくない、欲しくない、満足できない形だけが見えると言うのは、目がそのようになってしまうことではなく、見る物すべてが気に入らない状態で、望ましくない、欲しくない、満足できない声だけが見えると言うのは、耳がそのようになってしまうことではなく、聞く事すべてが気に入らない状態で、臭い、味、接触、考えも、みな気に入らない状態です。


極度に蓄積したストレスで劇場型犯罪などに走る人の、事件前の心は、多分、大焦熱地獄ではないかと思います。家庭でも腹が立つことばかり、職場でも腹が立つことばかり、友人と会っても腹が立つことばかり、道を歩いても腹が立つことばかりのような毎日なら、何を見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、何を食べても、何に触れても、何を考えても、すべてはその人が望むものでなく、満足することができません。


見方を変えれば、道理で考えれば得られるはずのないものを望むから、あるいは手に入るものも手に入れる努力をしないから生じる地獄です。望ましい、欲しい、満足できるものに触れられない地獄を、触処(六処で触れる)地獄と言いますが、」鬱病などは、焦熱が現れないだけで同じ状態かもしれません。それは、一瞬も幸福な時間、気が休まる時間が無いので、大変な地獄だと思います。


普通の人は、大焦熱ほどでなくても、職場だけ、家庭だけ、学校だけなどと限定した場所では、望ましい、欲しい、満足できる形・声・香・味・触・考えに触れられない状況になることはあります。

最近テレビで一般庶民の発言を聞くと、ほとんどは批判的な気持ちが生じ、嬉しくない気持ちになっていました。それは、見ている時に、煩悩を焼くサティがないから、触から「嫌い」という感覚、苦受が生じ、その時感じるものは、すべて望ましくない、欲しくない、満足できないものになっていましたが、これも触処地獄ではないかと気づきました。

これは、見ている時だけの一瞬の地獄ですが、地獄であることに違いなく、一日中見ていれば、一日中地獄になります。また他の場面でも同じパターンで、不満ばかりが生じます。だから、気づかずに生じる地獄から出る、自分なりの方法がなければなりません。

そんな時は、「外部のあれが悪い」、あるいは「社会や時代が悪い」と考えずに、「自分の心が焦熱地獄になっているから、満足できるものに触れられない。タンマで考え、タンマて見れば、まったく同じ状況でも、地獄でなくなる」と見れば、世界が変わります。

今あるだけの原因(カンマ)では、現状のよう(タタター)であり、これ以外にはなりません(アヴィタタター)。自分が望む触処に触れる道理があるか熟慮して見れば、当然ないことが分かるので、それでも欲しいなら、正しい方法で正しい原因を作らなければならないと分かります。

あるいは、すべての不満は、「自分は賢い」「自分は尊重されるべきだ」という傲慢から生じるので、「自分はない。あるのは四大種でできた体と心だけ。あるのは自然の法則で変化していくものだけ」、あるいは、「本当に賢い人は、他人の非を見る暇に、自分が苦を消滅させる努力をする」と思い出せば、不満は消滅します。


不満に思うことには、誰にとっても何の利益もないばかりか、自分にも他人にも害があります。今この時を、最も利益のあることに使う方が善いです。

いろんな触に触れる時、しっかりサティを維持して、好き(幸受)、嫌い(苦受)、どちらでもない(不苦不幸受)、の三つの受を生じさせなけ
れば問題は生じません。

不満と火の気は、元から絶たなければいなければいけないと思いました。

般若心経はブッダを否定している

般若心経は、日蓮宗法華宗以外の日本の仏教宗派が採用している経であり、短くて便利なので、良く知られています。私も、「お釈迦様の教えをまとめた最短の経」と言われているままに、そう盲信していました。しかし最近全文を読む機会があったので、気づいたことを書いて見ます。

実はこの経は、三十年くらい前に文庫本か新書本で解説を読んだことがあります。しかし当時は仏教の教えを知らなかったので、「色即是空」「空即是色」や、「捨利子」などの言葉を聞いただけで、お釈迦様の教えに違いないと信じ込んでいました。今思えば、これらの内容に関して、何が何やら分からなかったからです。

幾つかの訳があるようですが、その一つを引用します。

『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無限界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得
以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏  依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  
故知  般若波羅蜜多   是大神呪  是大明呪 是無上呪  是無等等呪  能除一切苦  真実不虚
故説般若波羅蜜多呪  即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝  波羅僧羯帝  菩提 僧莎訶




先ず、ブッダの言葉である経と違って、主人公がブッダではなく、観自在菩薩がサーリプッタに話している形を採っています。

『照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是』

ここは、空は色と異ならず、色は空であり、空は色であり、受・想・行・識も同じだと言っています。

色という言葉を、ルーパの訳語と見なし、空を無我と解釈すれば、ブッダの教えと同じです。しかし、ブッダの言葉の無我は、『無我であるものを「これは自分のもの」「これは自分」と執着してはいけない』という教えに導くためですが、この経は、執着を捨てることに言及せず、ただ空とだけ言っています。


『舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得 』

この部分は、「生も滅もなく、汚れも清浄もなく、増えることも滅すことも無い」と言い、「空の中には色・受・想・行・識は無く、目耳鼻舌体身もなく、形声香味触法もなく、眼識も意識もない。無明も明もなく、無明が尽きることも無い。老死も無く、老死が尽きることもない。苦集滅道つまり四聖諦もない。知る(悟る)ことも得ることもない」と言っています。この「何もかもない」という見解は、ブッダが断見と規定している見解の一つで、虚無論、懐疑論、不可知論などと呼ばれるものだと思います。


知る(悟る)ことが無ければ悟った人(ブッダ)もいないことになり、苦集滅道とは仏教の最重要な教えである四聖諦の項目で、四聖諦が無いと言うのは仏教を否定していることです。苦集滅道が無ければ人は輪廻から解脱できず、永遠に輪廻を回遊し続けなければならないので、ブッダはこのような見解を邪見と規定しています。


ブッダはすべてのものは「ある」とも「ない」とも断定した言い方をせず、「それが生じる原因と縁があるものは生じ、原因と縁がないものは生じない」と、中間(中道)である言い方をしています。 


『以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏  依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知  般若波羅蜜多   是大神呪  是大明呪 是無上呪  是無等等呪  能除一切苦  真実不虚  故説般若波羅蜜多呪  即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝  波羅僧羯帝  菩提 僧莎訶』

最後のこの部分は、「解脱を求める人は、般若波羅蜜多によって妨害がなく、恐怖が無い状態になる。三世諸仏も般若波羅蜜多によって、この上ない最高の悟りを得たので、般若波羅蜜多は神の呪文、大智の呪文、何物にも勝る呪文だ。これはすべての苦を除くことができ、本物であるから、般若波羅蜜多を唱えなさい」と説き、「その呪文は、羯帝羯帝波羅羯帝  波羅僧羯帝  菩提 僧莎訶です」と言っています。

初めの分部は「色即是空」という、ブッダの教えと非常に似ている言葉で関心を持たせ、真ん中の分部でブッダの存在と、ブッダの最高の教えである四聖諦を「そんなものはない」と否定し、最後の分部で、この呪文を唱えれば、(涅槃と同じ)すべての妨害と苦がない世界へ行けますよと誘っています。


全文を読むと、ここで言われている「空」は、無我の状態を表す言葉ではないことが分かります。だから「色即是空、空即是色」という文句は、ブッダの無我を表している言葉ではないと結論できます。

もう一つ、「般若」と「波羅蜜多」という言葉も、仏教の「智慧」と「涅槃への到達を助ける徳」という意味の言葉ではなく、「神の呪文、大智の呪文、比較するものがない最高の呪文」の名前として使われています。これも、仏教と同じ言葉を使って、何もわからない人に呪文を信じさせる技巧の一つと思われます。

実際、この経をブッダ(あるいはお釈迦様)の教えと思っている人が、成立以来の累計では何十億といたでしょうから。


仏教の言葉と舎利子の名を、恣意的に誤解させるために使って「懐疑論論」と「不可知論」を展開し、呪術に誘う経が長い間好まれてきたから、日本人は「死んだらすべてが終わり、何もない」という考えに支配されているのもしれません。


また、呪文を勧めていることは、念仏や題目を唱えること、いろんな祈祷や儀式が支持されること、読経や写経など、本来の仏教にはない呪術的な実践が広まっていることと関わりがあるかもしれません。

いずれにしても、このような趣旨の経が仏教の経と呼ばれ、お釈迦様(多くの人はブッダと同一人物と信じている)の教えを集約したものと言われていることに驚きを感じます。この経を作った人たちの大胆さと狡猾さ、また真実を知らずにお釈迦様の教えと信じ、(ここにある言葉を)何となく有難いもの、神聖なものと感じていた過去の自分の(無知ゆえの)迂闊さと無関心を感じました。

仏教用語の総入れ替え

今日は私が考える「タンマを読んで理解できない理由」を書いてみます。

まず初めに、「タンマを理解できる」という意味ですが、知識として理解でき、理論として説明できることではなく、すべてが「そうだ、そのとおりだ」と納得でき、罪を恐れる気持ち、悪を恥じる気持ちが生じ、ブッダの教えに対して全幅の信頼(信仰心)が生じ、それ以外の教えに興味を失い、ブッダが説いた道を邁進する努力をする決意をしないではいられない心境になることを、私はここで「タンマを理解する」ことの意味とします。本当に理解すれば、当然そのような心境になるからです。

ターン・プッタタートの講義録を読むと、毎回のように、初めにタイトルの説明をし、タイトルに使った語句や関連語句の定義を説明しています。ブッダヴァチャナを読むと、ブッダは、自分が発見した真理を普通の言葉で説いたので、一つ一つ、たとえば貪りとはどういうことか、恨みとはどういうことかと、タンマで意図する意味、タンマの分類や規定を説明しています。なぜなら、普通の言葉で、普通に話せば、普通の話、世俗の話しかできません。すべての用語をブッダの規定や分類で定義しなければ、ローグッタラの話にならないからです。

熟慮して見ると、この手間を惜しんで省けば、あるいは軽んじて見過ごせば、正しい理解は望めないくらい、これは「正しい理解」にとって非常に重要です。なぜなら人は言葉を組み合わせて考え、理解するので、話し手と聞き手の言葉の定義が一致していなければ、正しい理解は望めないばかりか、反対に混乱が増し、その人独自の間違った理解を生じさせるからです。

たとえば「東京は・・・」という話をしても、話し手が東京都をイメージして話し、聞く人が二十三区をイメージして聞けば、話は混乱し、聞く人は話す人が伝えたい内容を理解できません。だから「東京二十三区は」とか、「東京都内」はと、範囲を明確にすれば、それによる混乱は生じません。

タンマの話(この場合は、ブッダの言葉を正確に伝えているもの、つまり正しく理解して実践すれば涅槃に至るタンマ、例えばプッタタート比丘の説くタンマ、あるいはプッタタート師の訳によるブッダヴァチャナ)をする時に使われている仏教用語を、従来の(大乗の)仏教用語の解釈で理解すれば、意味するところが微妙に違うのもあり、あるいはまったく別物の場合もあるので、正しい理解は困難です。

以前にも触れましたが、例えばルーパという言葉を、漢訳では「色」と訳していますが、正しくは「形」で、通常は人の体のことを言っています。色即是空というのは、形つまり体は空であり、実体がないので、自分のもの、自分、自分の実体と捉えることはできない、という意味です。形を色と捉えると、意味が曖昧です。ブッダは、「なぜ形と言うかは、崩壊する性質があるので、形と言う」と言っています。この文は、色では成立しません。だから色即是空という言葉をイメージして理解できる人がいないのだと思います。

四大種の「土」は、漢訳では「地」と訳されています。辞書を引くと、「土」にも「地」にも「土。地」という説明があるので、まったく同じ意味のようです。物質的には同じ物でも、感覚としては、土は地より意味が狭く、一握りでも土ですが、一握りでは地とは呼びません。地は意味が広く、大地、土地、地面など、ある程度の広がりのある(足の下にある)地球の部分を言うと思います。

「地・水・火・風」は、大乗が見ている世界がすべて外部の自然であることから、外部の大自然をイメージした言葉のようです。ブッダが規定した四大種は、五蘊をすべての世界と呼んでいることから、五蘊の形=体、特に自分の体を構成する四つの要素です。土または地とは、例えば軟膏やクリームを作る時、複数の薬剤をまとめる基剤のようなもの、体積のある要素のことなので、地よりは土の方がイメージしやすいです。だから私は従来の「地」ではなく「土」という訳語を当てています。

八正道の「サンマーサマーディ」は、漢訳では「正定」と訳されています。しかし、サマーディと定も、地と土のように意味している状態は同じですが、表している範囲が違います。サマーディは、仕事でも遊びでも、大人も子供も修行者も、心が一つの感情に専心しているすべての状態を現す一般の言葉ですが、定とは、初禅から四禅までの形禅定だけで、無形禅定以上は、定(ジャーナ)ではなくサマーディ、またはサマーパティです。

三学の戒・定・慧は、原語の意味は、戒・心・智慧です。定という言葉は、定を重んじる人によって、必要以上に多用されているように見えます。

慈・悲・喜・捨は、パーリ語も漢語も、他人を幸福にしたいと願うこと、他人の苦を除いてやりたいと願うこと、他人の幸福を喜ぶこと、動じないことと、それぞれの意味は同じです。しかし、ブッダが言ったのは四梵住で、四梵住は実践の結果として到達する境地ですが、大乗では四無量心と呼んで、大きな修行の柱です。

これは今思いついたほんの一例です。私はほとんどすべての用語が、このように違うと見ています。

日本語には、たくさんの仏教用語が混じっていますが、すべては大乗の言葉の意味で、ブッダの言葉のように緻密な規定がありません。大乗は世俗諦なので、涅槃を目指す話ではないので、国語として通用している意味だけで十分だからでしょう。しかし涅槃を目指すタンマを学ぶ時、厳格に規定された言葉で語られた話を、大乗の不鮮明な意味で解釈すれば、正しい理解は不可能です。

何度も書いているように、タイでもビルマでもスリランカでも、中国台湾、チベットや日本などでも、一般に使われている仏教用語は、普通の人が普通に使っているのを見ても分かるように、本当に滅苦ができる話をするブッダの定義ではありません。すべての用語をその類の解釈で読めば、深遠な話ほど意味が理解できません。話の内容と、語句の定義の種類が違うからです。

世俗諦の話には世俗の定義の言葉で、ローグッタラの話は、ローグッタラの意味の定義を使わなければなりません。プッタタート師がヒト語タンマ語と分けているように、同じ語句でも意味するものが全く違うからです。

しかしプッタタート比丘の話を読まれる人のほとんどは、用語の意味の規定に気づかず、従来の用語の智識、つまり「私の理解による仏教用語」でブッダの教えを知ろうとしています。ブッダの教えは、古今東西の誰の教えとも違うので、まったく別世界の話なので、話されている言葉も、世間で話されている一般語とは違う厳密な規定(言葉の定義)があるに違いないと考えて、注意深く言葉の定義に注目する人が、いるでしょうか。

あるいは、ブッダもプッタタート比丘も、しばしば言葉の規定について説明しているので、それを読んで、「これは重要だ」として記憶する努力をする人がいるでしょうか。その部分を注意深く読んで理解して、古い知識を改めて、新たに記憶しなければ、その後の講義を読んでも徒労に近いと言うものです。

疑や戒禁取などのサンヨージャナ(結)を捨てる前の段階で、従来の仏教用語で使われている意味はブッダの教えではないものとしてすべて放棄し、どんなに簡単そうに見える言葉でも、ブッダが規定した意味にすべて入れ替える慎重さが求められます。なぜならブッダの教えと従来の(お釈迦様や仏陀の)教えは、まったく別の体系なので、ブッダの弟子が、お釈迦様の言葉を使うことはあり得ないからです。

あるいは先の二つのサンヨージャナを捨てた場合は、自然にそうしているはずです。また、古い(仏教の)言葉や古い(仏教用語の)感覚を捨てることで、同時に疑や戒禁取は無くなっていきます。

ブッダが規定した言葉ではない、世間一般で使われている意味をそのまま信じているなら、それは古い(本物でない)知識への間違った信頼、広い意味で戒禁取=本当の道でないものを本当の道と執着すること=と言えると思います。

ブッダの規定した言葉の意味に関心を持たず、従来の仏教用語の意味、つまり古い知識を使ってブッダの教えを読むのは、世俗の部屋に座って、窓を開けてローグッタラ(脱世間)の木の実に手を伸ばしているようなものだと思います。

ブッダの教え」と「仏教と呼ばれている宗教」の教えが全く別物であることが、まだ良く理解できないから、ブッダの教えを読むのに、仏教と呼ばれる宗教の用語の智識で理解できると考えているのです。従来の言葉の定義を使っていれば、どんな論理をを熟慮しても、足はローギヤ(世間)に立っているので、ローギヤの域から出られません。

仏教用語の意味を、すべてブッダが規定したように入れ替える努力を続ければ、その度に二つの世界を繋ぐ窓が広がり、それだけで、いつか気づいた時にはローグッタラの世界にいるかも、つまり聖人になっているかもしれません。

仏教を衰退させるもの

前回の日記で、四念処に関して正しい技法が広まっていないのは、『実践して、(ブッダが言われているとおりの)結果を出した人だけは、実践について教えても良い』という教えに誰もが違反して、自ら検証していないことを教えているからだと書きました。これはブッダの教えを不毛にし、仏教を衰退させかねない重要なことなので、もう一度考えてみたいと思います。

どの実践項目でも、自分が実践して結果を出し、正しい結果が出ることが検証済みなら、体験に基づいているので、どんな言葉で話しても正しく教えられ、聞いた人がどんな質問をしても、まともに答えることができます。

しかし聞いただけ、読んだだけの知識は、説明も不十分で、そのまま実践できるかどうかも保証されず、結果など期待すべくもありません。聞いた人が疑問点を質問すると、自分でも理解していなので、国会答弁のようにクネクネした捉えどころのない、意味不明な返答をします。その結果質問者を失望させます。

あるいは聞いた人も何も考えない人で、聞いたまま鵜呑みに信じて、理解できないまま実践し、何の進歩がなくても自分の仕方が悪いからと考え、あるいは静かにしていることから生じる快さを、結果と信じて喜ぶかもしれません。

いずれにしても、教えを検証していない人が、知っているだけで、頭で理解しただけで実践について説くことは、偽物を本物と偽って売るのと同じくらい、本家本元の信頼を失墜させます。



以上は実践についての話ですが、ブッダは一般の教えについて、『私が話したように話す必要はない。自分が(智慧の目で)見えたとおりに話しなさい』と言っています。これは当然、比丘たちに話しています。ブッダが話されたことを記憶して、その通りに話せば、そのダンマを真実のままに知っている人でも、間違って伝わることもあり得ますが、自分の心の目で見えたことは、ブッダが言われている真実と当然一致しているので、見えたとおりに話せば、真実が間違って伝わる心配はありません。

現代は、出家でも一般人でも、実践して結果を出していない人、智慧でダンマが見えていない人がいろんな場所で話をし、そういう人ほど、お金や人気などの目的のために多くの機会を作って話すので、それを聞いても、あるいは読んでも、聞いた人読んだ人が、ブッダが本当に解脱したかどうかも信じられないほど価値のないものになってしまいました。

その結果、ブッダが教えていない一般の瞑想を、涅槃に至る修行と信じて実践したり、新しく考案した手法を良いものと見るので、さまざまなレベル、様々な理解のダンマが交錯します。

初めに未熟なものがあり、次第に発展して完成に向かう世俗の知識とは反対に、ブッダの教えは、初めに完璧完全なものが示されているので、後から出てくる新しいものはブッダのものには及ばないのです。

ブッダダンマについて、あるいは実践するダンマについて話す人が、「実践して結果を出したことだけを教える」「心の目で見えたとおりに話す」という二つの教えを守っていれば、ブッダの教えが信用を無くすことはあり得ません。だから、この二つの教えは非常に重要だと思います。


このように重要な教えについて言及する人がいないのは、なぜでしょうか。ターン・プッタタートが、カーラーマ経を教える比丘が少ないのは、それを教えると、聞いた人が自分の教えを信じなくなって、自分の都合に良くないからだと言っていましたが、同じように、この二つを教えると、どちらにも該当しないアーチャンたちは、何も教えられなくなってしまい、弟子や庶民の尊敬を集められなくなるからではないでしょうか。

人々がブッダの本当の教えを知ろうと知るまいと、そんなことには関心がなく、仏教が信頼を失墜するかどうかなど思いも及ばず、ただ人気と尊敬と貰い物、一般人なら収入やプライドのことばかり考える人たちによって、ブッダの教えは汚され続け、地の色さえ見えないほどになっています。

こうした状況を変えるには、仏教を学ぶ人がもっと賢くなって、ブッダの教えは、「智慧の目で見える人が、智慧の目で見えたことだけを教えるもの」「実践して正しい結果が出ると検証した人が、検証できたことだけを教えるもの」と多くの人が知り、お金を集めるために話をする人や、有名になる目的のために本を出す人たちには、財産を貯める厚い煩悩があるので、ブッダが教えている深遠なダンマが説けるはずはないと知ることだと思います。

ブッダは,『貰い物と称賛は、これに勝るものはない実践から生じた喜ぶべきタンマである涅槃への到達にとって、このように下品で残酷で打ちのめされるような危険です』

『サマナでないのにサマナだと宣言し、梵行をする人でないのに梵行だと宣言し、内部がドロドロに腐って、ゴミ捨て場のように積み重なった本性がある破戒者であり、それでまだ偉大な王、あるいは偉大なバラモン、あるいは偉大な長者が信仰心で献じた飯の塊を食べる(と考える)ことが苦の成り行きにし、永遠に助けないので、体が崩壊して死んだ後、彼は当然破滅、悪趣、殺害、地獄に至ります』と言っています。

私たちがこのような知識で、行いの正しい出家者かどうか、自分で結果を出した実践だけ、心で見えたことだけを話す人かどうか判断することは、仏教を純潔にし、清浄な繁栄を援ける大きな力になると思います。

心の目で見えることを話す人が説くダンマは、実践した人は自分自身で見ることができ(サンディティコ)、時を限定せずに結果が出(アカーリコ)、呼んで来て見せるべきで(エヒパッシコ)、自分に傾けるべき(オパナジコ)で、智者本人だけが知る(パッチャッタン ヴェダヴォ ヴィンニューヒ)ダンマなので、たくさんの人に、ブッダが言われている本当の意味の信仰心を生じさせます。