お酒を飲むこと

今マスコミは日馬富士の事件の話で持ち切りですが、私は今回の事件でも飲酒の害を思いました。日馬富士は会見で「今回のことは、酒を呑んだからこそのことではない」と言っていましたが、ウィスキーをアイスバケツに注いで回し飲みすると言われるモンゴル人の酒席、それも二次会で、酔っていないはずはなく、その夜の帰路、自転車を借りて漕いで転倒したというので、相当酔っていたと思えるのに、まだ「酔ったからしたわけではない」と酒を庇い、酒が非難されるのを守っていました。
 
つまり事実を冷静に見えないか、あるいは飲酒を非難され、止められたくないと考えたのかもしれません。酒のせいではないと言えば、傷害罪としては不利になるだけなのに。
 
酒は五戒の一つで禁止されています。時々「ブッダは不殺生、不偸盗、不妄語、不姦淫は禁止していたが、飲酒は禁止していない。後の時代に追加された」と言う人がいます。そう言う人は百パーセント愛飲家で、自分の飲酒を正当化したい人のようですが。
 
ブッダが四つについて言及され、不飲酒に触れていないのを、つまり五戒でなく四戒だけのことを何度も読んだことがありますが、それは比丘に話している時は、律を守っていれば酒類は手に入らず、呑むことはできないので省略されているのだと思います。私たちも話をする時、当然分かり切っていることは、省略することは時々あります。
 
戒にあるなしに関係なく飲酒は非常に害のある行動、後に心に苦を生じさせる行動だと思います。酒は神経をマヒせ、サティ(理性)をマヒせるので、心の中は「俺は」「俺が」という感覚でいっぱいになります。つまり心の中は煩悩が言いたい放題、やりたい放題になり、酔っている間中、言葉で、あるいは心で悪いカンマを作り続けます。
 
だから日常的に飲酒をしている人は、どれほど多くの悪業を積んでいるでしょうか。仕事中はあまり考えず、無駄なお喋りもしないので、仕事以外の時間に積んだすべてのカンマのうち、酒を呑んで積んだ口業、意業と、素面で積んだ口業、意業の数は、どちらが多いでしょうか。私は毎日飲んでいる人なら、悪である口業、意業の方がはるかに多いと思います。
 
国立循環器センターのページの飲酒と死亡率の関係のグラフを見ると、酒量が増えるにしたがって全死亡率が高くなり、例えば日本酒三合以上飲む人の死因のトップは事故死、次が癌、三番目が脳血管障害による死になっています。この数字は、酒が心臓に悪い、あるいはどの臓器に悪いというのでなく、飲酒は悪死の原因である悪のカンマを作ることを表していると思います。
 
事故死を言い換えれば非業の死、不遇の死、無残な死で、著しい道徳の欠如、つまり不道徳なカンマの積み重ねによって生じ、タンマのある人には生じないとプッタタート比丘は言われています。誰でも酒に酔っている時は心にタンマがないので、タンマのない心、つまり煩悩で限りなく考え続けると、無残な死を招くほどの量になるのだと思います。
 
酔っている時は煩悩に支配されているので平気で悪事ができ、悪事をすれば嘘をつく必要が生じ、酒を飲めば性的間違いも多く、怒りを止める理性がマヒしているので、意図せずに今回の日馬富士のような傷害事件や殺人事件を起こしてしまうこともあります。そして仕事を失い、社会的地位を失うので、飲酒はすべての悪を簡単に行わせるものと言うことができます。酒にはどんな戒も簡単に破らせる力があるので、不飲酒戒は普通の人が考えるより重要な戒だと思います。飲酒をしなければ、多くの間違いが防げるからです。
 
多くの人は「事件や事故を起こす人は、その人の性質の問題で、私はそうならない」と考えていると思います。しかしブッダは個人の問題と見ず、まだ煩悩がある人はみな同じと言われ、聖人になれば段階的に危機から脱すと言われています。だから「私は大丈夫」と見る人は、煩悩の危険が何も見えない人です。
 
悪死に至るほどでなければ、酔っている時に積んだ無数の「酔っていたい。ぼやけていたい」と望んだカンマの報いは、長期間になら痴呆症になり、不鮮明な意識になり、知性や理性のない人になります。

また酔って口にすることは、どんな話題であれ無駄話、綺語の類なので、綺語等のカンマの結果は、必要な正しい知識、上質の知識が届かず、それらの知識に触れる機会があっても関心がなく、理解する知性もたりません。身近にいるお酒を呑む習慣のある人は、それほどの年齢でなくても意味不明な(理路整然としていない)ことばかり言います。
 
どんなに才能があり、社会的に重要な仕事をした人でも、親しく付き合うのは呑み友達だけ、話すのは酒が旨くなる話題だけで、何を話しても酔っ払いの戯言(妄語、綺語)の類で、まじめで建設的な考えや発言をしないので、その人は生涯飲み友達しかなく、日常的に飲酒以上の楽しみがなく、病気で酒が飲めない状態になると一斉に友人が去り、家族にも見放され、気が付くと、自分が軽蔑していた心が低い人の一人になっています。そして人生の問題を解決する力は大分前からありません。だから占星学では、酒を呑む人(親も酒を飲む人)は無目的な人生を送ると言います。
 
大乗やキリスト教の社会では飲酒は普通のことと見られていますが、私は一般の人でも日常は慎むべきものと考えます。一昔前までは食べることに精一杯で、酒は年に何度か、冠婚葬祭、あるいは晴れの日にしか飲めなかったので、その害も多めに見られていましたが、豊かになり、毎日でも飲めるようになると、自制のない人は呑みたいだけ飲んで、せっかく人間に生まれた機会を、溝川の川面に浮いている塵芥のように無目的な人生を送る人が増えました。
 
白鵬との対立で注目されている貴乃花親方はお酒を呑まないそうです。そう聞いただけで、毎晩大酒を飲んでいる人たちより、あるいは一般の酒を愛している人より信頼できると感じます。

健康寿命


平均寿命、つまり命の寿命に対して健康で働けなくなる年齢を意味する健康寿命という言葉が使われ始めました。命の寿命と健康寿命の差は平均で10年だそうです。言い換えれば、人は死の10年くらい前から病気がちな生活を強いられるということです。平均10年ということは、元気に生活していて突然ポックリ亡くなる人もいるので、長い人は二倍以上の人もいるかもしれません。
 
人は誰でも死ぬまで元気でいたいと思います。東京巣鴨とげぬき地蔵は、寝込まずにポックリ死にたいと願うお年寄りの参詣が絶えません。私自身も、いつ死んでもいいから死ぬまで元気でいたいと思っていました。
 
非常に自他に厳しかった祖母は死の一週間くらい前まで病気で伏せている姿を見たことがなく、老衰で数日寝て亡くなり、父は脳内出血を発症した日に亡くなったので、悪行が多い人は病気が多く、悪業が少ない人は死ぬまで元気でポックリ逝くような気がしていました。

しかし観察して見ると、凶悪な罪を犯した人でも無病息災で静かになくなる人もいるし、悪業があって病苦に苦しんで亡くなる人もいるし、善人に見える人で長い間病気と道連れの人もいるし、善人でほとんど病気がない人もいます。だから善悪の業と病気、あるいは病弱の関係は、非常に複雑で良く見えないということができます。
 
プッタタート師のインタビュー自伝を読むと、86歳で亡くなる20年くらい前から病弱な状態が続いていたようです。二十歳で出家し、生涯律による制約と厳しい戒のある生活をなさり、本当のダンマが見えていた人が、悪いカンマを一般人より多く作るはずはないように思います。
 
その理由を考えていると、次のような考えが生まれました。一般人のほとんどすべては海の生物になるとブッダが言われているので、中程度の悪の人は、次に海の生物(つまり地獄)に生まれればこの世でカンマの清算する必要がないから、晩年に病苦を受け取る時期がなく、悪が少なく海の動物に生まれない人は、現世で小さな悪業を清算しなければならないので、病弱な時期が長いのではないかと思いました。

そして八正道を歩んでいる人は海棲動物に生まれないとブッダが言われているので、晩年に清算しきれなかったカンマが残っている場合は、次の子供時代に病弱になるのだと思います。あるいは小さな事故に遭ったりケガをしたりします。プッタタート師も子供の頃は病弱だったと話しています。
 
現世では非常に悪の少ない善人で、大悟してブッダになってからは当然、まったく悪のカンマを作っていないブッダでさえ、晩年は「サンカーラ(行。この場合は身体)の変化による苦受を受け取り、如意足で凌いでいる」とアーナンダに話されているので、老年期の体の変化から受け取る苦受は避けられないものと知るべきではないか思いました。
 
本当にタンマを理解するまで戒がなかった私は、当然大小様々な悪のカンマを作って来たので、もし次に海の生物に生まれるのを免れ、陸の生物に生まれるなら、現世でカンマの報いを清算しなければなりません。

だから八正道を実践してない人で、人並に悪のカンマがあるのに現世で結果を受け取らないことは、海の生物(地獄の生き物)に生まれることを意味します。このように熟慮してくると、死ぬまで元気でいたいと望むのは無理なことと分かり、「賢い牛は、鞭で打たれる度に借りを返している喜びを感じる」と言われたブッダの言葉を思い出し、賢い牛のような老人でいようと思いました。


 

歌って踊ることの害


最近のテレビを見ていると、コマーシャルなどにダンスを取り入れることが多くなっていると感じます。今は歌だけではアピールする力が弱く、踊りを加えないと視聴者が関心をももたないと聞いたことがあります。つまり大衆の求めに応えて踊りをつけているようです。
 
「歌って踊れるアーティスト」に人気が集まるようになったのはいつの頃からでしょうか。昔は、歌手は直立で歌うものでしたが、テレビの普及に伴って「振り」をつけるのが普通になり、今NHK紅白歌合戦では、演歌を歌っているすぐ傍で、歌を引き立てるためとはとても思えない、別のソロダンサーが踊っている映像が映ります。踊りがあれば演歌でも厭きないからだそうです。ヤマハでは高齢者のために歌って踊る教室を始めました。
 
これはアフリカ移民の多いアメリカから入ってきた文化で、多くの人は「格好いい」「楽しい」、あるいは「目を楽しませる」と感じていると思いますが、ブッダの教えから見ると非常に憂慮すべき傾向だと思います。
 
というのは、ブッダは「歌を歌うのは泣くこと、踊りを踊るのは狂った行動」と言われ、サティに欠ける行動で、見て楽しんでいるだけでも心は(泣くのと、狂ったのと)同じレベルに陥っているからです。歌って踊ることはアフリカや中・南米の人たちの生活に欠かせませんが、踊りに陶酔した心は陶酔から生じた煩悩に占拠されるので、何かで追い払われるまで心には誤った見解があり、心に誤った見解があれば誤った考え、誤った言葉、誤った業、つまり八邪道になるので、歌と踊りを好む人の社会は、治安の悪い社会になるからです。
 
日本人の文化は人口比一割前後の武士階級が社会を牽引していたので、武士がいない外国より精神性の高い文化があります。しかし日常生活に歌と踊りが浸透し始め、やがて加速すれば、心の落ち着きや道徳や煩悩のレベルは急激に低下します。プッタタート比丘は「悪死の原因は道徳がないこと」と言っています。
 
ひと昔前までは日本にあまりなかった職務中の不注意による事故や、災害や事件事故による死者の増加と、日常的サマーディ(落ち着き)の低下、つまり歌って踊る機会、あるいは踊りを好む人の増加と深い関係があるように見えます。踊る人の割合が非常に高いアフリカや中南米の国々や、そうした国からの移民が多い町は治安が悪く、危険度が高いからです。

老年期と幼少年期

 団塊の世代が年金を受給する年齢になってから、いろんな異変が見られるようになりました。若い時から堅実で、子供を育て上げた後も浪費をせず子育て時代と同じように質素に暮らしていたAさんは、年金生活になると夫婦で一月おきに海外旅行へ行くようになり、「お金は(あの世に)持って行けないから、(今までの蓄えを)早く使い尽くそうと思ってもなかなか減らない」などと発言するようになりました。
 
同じように堅実で切り詰めた生活をしていたBさんは、年金生活に変わった途端に趣味に狂い始め、豪華な衣装や外食した話やら何やら自慢ばかりします。この二つの例は、まるで別人になったような変わりようです。
 
給料でも自営でもまだ自分で稼いでいる間は、いつ収入がなくなる事態が起こるかもしれないので、心配で使えず慎ましく生活して蓄えて来た人も、年金生活になると死ぬまで生活費の心配がないので、多すぎる蓄えを急いで消費しようと努力します。
 
戦前に育った人は年金生活になっても普通に節度のある生活を維持して、使い急ぐ人はあまりいませんでしたが、これは団塊世代の特徴かも知れないし、今後ずっと続く傾向の始まりかも知れません。
 
私もブッダの教えに出合うまでは欲深い人だったので、持っているお金は全部自分で使って死にたいと考えていました。生涯節制して少しでも多く子孫に残そうとした先祖の世代と正反対でした。
 
ブッダの教えを勉強すると世界のありようが見えてきました。若い時お金を使いすぎた人は老いて、あるいは老いる前から困窮し、老いてお金を使いすぎた人は使い得ではなく、次に人間に生まれて来た時に貧しい家に生まれ、あるいは貧しい子供時代を余儀なくされるという真実が見えました。
 
初めに例にした二人の子供の頃の家庭は貧しく、Aさんは極貧だったそうです。結婚してからのAさんは勤勉で財産を作り、収入の割に質素で堅実なのを見ると、なぜ貧しい家に生まれたのか納得できませんでしたが、最近の生活を見てなるほどと思いました。たぶん前世でも老いてからお金を使いすぎたので、現世に生まれる時貧困家庭に生まれたのでしょう。
 
老年期は普通過去のカンマの清算をする時期なのに、老年期に新たにカンマを作った人は、その報いを受ける間もなく死んでしまうので、次に生まれたら初めのうちにその結果を受け取らなければなりません。
 
幼少年期は前世で結果を受け取れなかったカンマの清算をする時なので、老年期と同様、虐待や育児放棄や病弱や貧困など問題が多いです。つまり人の人生は、前世の老年期と現世の幼年期が繋がっています。
 
子供の時に親から虐待や育児放棄をされた人が親になって加害者になるケース、親の離婚で苦労した子が親になると自分が離婚して同じ境遇を子に与えているケース、家庭を顧みない親を嫌っていた子が親になると自分も親と同じように家庭を顧みなくなるケースなど、子が親と同じ行動をしている例は非常にたくさん見ることができます。
 
そのような状況を見て自然の真実を知らない人はそれを遺伝と言いますが、自然の真実は人生の頭と尻尾はほとんどの場合繋がっていて、子供時代は前世のカンマの結果を受け取り、大人になると習性で新たに同じカンマを作り、またその結果を来世で受け取らなければならないだけです。
 
中には、子供時代に報いを受け取ったのと同じカンマを、大人になって作らない人もいますが、そのような人は死と生の間で、あるいは子供自時代から成人になるまでの間に学んだ人だと思います。

如来と如行


ブッダは自身を呼ぶ時『タターガタ』という言葉を使っていました。この世界から向うの世界に行ったような人という意味です。漢訳では如来、つまり「来たような人」と訳されているので、意味は正反対です。大乗の仏陀は向うの世界の人で、衆生を救うためにこの世界に現れたので、原語とは反対に「来たような」という意味の如来と訳したのだと推測します。

というより、ブッダが「如行」と呼んでいた言葉を如来に変化させて、超人的人物を創り上げたと言う方が正しいかもしれません。

私もつい最近までは何の疑いもなく、辞書にあるままに「タターガタ」を「如来」と訳して来ました。しかし最近「ガタ」は「行った」であり、「タターガタ」は「行ったような人」で「来たような人ではない」と気付きました。
 
ブッダは自身を呼ぶ時にそれまであった「私」という意味のどんな言葉も使われず、『この世界から向うに世界へ行った人』という明らかな意味のある「タターガタ」という言葉を使われているので、「行ったような人」を「来たような人」と訳してはいけないという考えに至りました。その名を読む度、呼ぶ度に「ブッダはこの世界から苦のない世界へ行った人というイメージが作られず、反対に「この世界に来た人」というイメージに染められてしまうからです。
 
私は、ロークッタラ(脱世間)の世界の話しをするには、すべての語句をブッダの意図と一致する訳語にしなければならないと考えています。
 
五蘊や六処の「色」の原語は「ルーパ」で「形」という意味ですが、漢訳では「色」と訳されています。これも初めは辞書にあるまま「色」と訳していましたが、本当の意味は形であり、「形」を「色」と訳す自分自身で納得できる理由がないので、気付いた時から「形」という言葉に訳しています。
 
中には「永年『色』という訳語が定着しているので混乱する」と忠告して下さる方もいますが、五戒の不妄語でも十善業の不妄語、不綺語でも真実でないことを言うのを避けなければならず、あるいは他のどの経の何を見ても、「事実はどうあれ、従来どおり色にしておきましょう」と言う根拠にする教えがありません。千年も二千年も、どんなに長く使用されてきても、誤りと気付いたら気づいた時に正しく改めるべきだと思います。
 
何かの誤りでも、意図して別の訳語にした場合でも、テーラワーダ、あるいは南伝仏教で使う時は「如行」、あるいは「行ったような人」という意味のもっと良い訳語にするべきだと思います。でなければ滅苦に至る実践であるブッダの教えと一致しません。
 
そんな訳で、過去の大部分の作品の「如来」を「如行」に修正しました。慣れるまで違和感があるかもしれませんがお許しいただきたいと思います。パーリ語の翻訳の問題で先生と意見が合わず(従来の訳に疑問を感じ)、バンコクでのパーリ語の勉強を止めて帰郷し、自分で納得のいく翻訳をする決意をされ、スワンモーク寺を作られたプッタタート師なら支持してくださると信じます。

 追記: 最近スアンモーク・バンコクから、現在タイで使われている何種類ものパーリ語辞典を頂戴しました。それを見ると「タターガタ」は、「そのように行った人」という意味だそうです。

日本の文化

 日本の文化は、世界中のどの国とも違う独特なものがあります。アジアの文化はインドや中国の影響がありますが、日本は同じ中国文化圏のどの国にも似ていません。災害や大参事などが起きた時の被災者、被害者の態度の冷静さ、穏やかさに、中国や韓国の人は驚きを口にします。2014年のサッカーワールドカップで、日本人サポーターがゴミを拾っている情景は、世界中から称賛されました。

 日本では普通に善良な人にとって当たり前のことであり、日常的にしていて身についていることで、つまり文化です。どの国にも当然そのような習性の人は居ますが、一部の人であり、文化と言えるほど幅広くありません。少数の善人だけでなく、普通の人にそのような良い習性があることが日本文化の特徴だと思います。


 外国では災害や暴動時には、周辺店舗での略奪などがありますが、日本では聞いたことがありません。


このように秩序があり、暴動や騒乱がなく、我先にと自分の利益を掻き寄せず、平常心を維持できるのはなぜかと、ネット上にあるのを読んで、私も興味もって熟慮観察して見ました。


 まず宗教に注目して見ると、儒教は中国も韓国もあり、仏教も儒教道教ほどでなくても、中国にも韓国にもあります。しかし日本の仏教は、天皇や政事に関わる人、文化人たちに支持され、知識者の間に広まり、江戸時代には国教にされ、僧侶が教えを説くことは禁止されてはいても、国中に(大乗)仏教の文化が広まった、これは大きいと思います。


 「仏教と言う名のヒンドゥー教」で書いたように、中世以降の日本の仏教は、内容的にはヒンドゥー教ですが、世俗諦と第一義諦が違うだけで、道徳面では仏教もヒンドゥー教もまったく同じなので、ターン・プッタタートが「仏教徒文化」と言っているものが、日本文化にもたくさんあります。


 それでは、日本の文化は、仏教文化の影響なのかと言えば、タイ人と日本人の考え方や文化はまったく違い、タイとビルマスリランカは同じテーラワーダでも、文化はみな違うので、宗教に由る物でもないと見えます。


他のアジアの国々と比較した時、社会にある道徳的な教えには、それ程差はないように見え、教えの量で言えば、テーラワーダ仏教の地域の方が多いように感じます。


 そこで、どの国とも違う決定的な違いはサマーディではないかと思い至りました。そして、日本人に他国民より深いサマーディを与えているのは、「日本語」ではないかと思い至りました。日本語は、中国、韓国、インドなどの言語との共通点も多くありますが、日本語だけの特徴は謙譲語があることだと思います。敬語は、アジアの国王、大王が存在した国には、庶民の言葉と違う特別の王語があり、複雑で厳格な敬語があります。


しかし、同じ庶民間で使われる敬語は非常に少なく、使っても丁寧語で、謙譲語があるのは、日本語だけのように思います。


敬語は、相手を持ち上げる言葉で、謙譲語は、相手より自分を低めて、間接的に相手を持ち上げる言葉で相乗効果があり、持ち上げられた相手と低めた自分の差は更に大きくなります。


敬語の使い方は非常に難しく、子供はほとんど使うことはできず、中高生くらいから少しずつ知識を得て、大人になってやっと使うことを知ります。初めに相手との身分の違いを認識し、それにふさわしい敬語や謙譲語、丁寧語を選ばなければならず、丁寧過ぎても失礼、あるいは失笑を買うので、その使用には高い知性を必要とし、すべての敬語と謙譲語と丁寧語を完璧に使いこなせる人は滅多にいないくらい、難しいです。


日本では立場や身分は同じでも、ほとんど違いは無くても、あるいは身分や立場の低い相手に対してさえ、敬意を表すために敬語や謙譲語を使う人がたくさんいます。


敬語や謙譲語を使う時は頭が冴えて心も静まっていなければ正しく使うことができないので、日常的に敬語や謙譲語や丁寧語を使っていれば、その時は常自覚があります。敬語を使っている時心に傲慢は減り、謙譲語を使う時は更に傲慢が減っています。


 言葉は心を支配し、心は人を支配するので、日常的に「貴様」「てめえ」などの言葉を使っていれば、次第に心が荒んで、自我が強くなり、いつでも怒りが生じる状態にあるのと反対に、日常的に敬語や謙譲を使っていれば、傲慢さが減り、心が穏やかになり、サマーディがあり、そして自我が減ります。

身分制度があった江戸時代には、敬語の使用は必須で、与太郎レベルの人以外は身分が上の人や目上の人に対して敬語を使っていたので、一般人の平均的サマーディが、他の文化の人より深く、その結果職人の技術の高さ、すべての職業人の道徳の高さなど、日本の独特の文化として開花したと推測します。




明晰な言葉を使う


 ブッダヴァチャナ・シリーズを読んで感じたのは、ブッダは何かの話をする前に、必ずその言葉の定義を、例えば「苦とは、こういう意味です」と明瞭に説明していることです。
 
それまでなかったロークッタラ(脱世間)の世界を説明するのに、世俗の言葉以外に使う言葉がないので、生活で使っている言葉に、新たな意味を定義したからです。すべての言葉を新たにキッチリ定義することで、ロークッタラの概念の説明を、弟子たちに理解させることができました。
 
 ターン・プッタタートも、講義あるいは法話をする時、初めにタイトルの言葉を、世間で使っている意味と、ブッダが言われている意味の両方を説明をして理解させ、途中でも新たな語句が現れる度に、必ず言葉の説明をしています。
 
 これは、ターン・プッタタートがブッダを真似ている訳ではなく、正確に話して伝えようとすれば、必ずそのように、語句の定義を明瞭にしなければならないということに気づきました。翻訳者が訳文を書く時、極力、意味を辞書で確認しなければならず、「それは、その、そのような意味だ」と言う程度の理解では使わないよう心掛けるべきなのと同じです。
 
 すべての言葉の定義が正確ならば、文章全体、あるいは考えは、江戸組子のようにしっかり組み合わさりますが、すべての言葉の定義が曖昧なら、小学生の工作のようにどの部分も歪んでぐらぐらします。
 
スーパーへ行く家族に、納豆を頼んだ時、私は欲しい物が決まっているので、できるだけ正確に伝わるように、「国産中粒納豆」と言ったら、欲しかったのと違うメーカーにも同じ名前のものがあり、そちらを買って来ました。別のメーカーにも同じ名前があることを知らなかったので、メーカーまで指定しなかったことによる失敗です。つまり、その時私が伝えた「納豆」という言葉の定義が、曖昧だったからです。
 
言葉は話したり書いたりする時に使うだけでなく、何かを感じる時も考える時も概念を自分の言葉に変え、その言葉を使って考えています。記憶も、映像で記憶する部分と言葉で記憶する部分がありますが、思い出して話す時は言葉にします。だから人は朝目覚めてから夜眠るまで、一日中一生、ほとんど休みなく言葉に関わっています。声のない人も心の中では言葉で考えています。
 
だから曖昧な言葉を使っていれば、すべての考えや認識は小学生の木工のように圧すだけで壊れてしまうかもしれません。そのような曖昧さいい加減さを回避するために、ブッダやターン・プッタタートはいつも語句の説明をしているのだと気づきました。そして明瞭な言葉で認識し考えている人の頭の中には曖昧さがなく、すっきり整然としていると信じます。
 
血は体のすべての部分と関わりがあり、綺麗な血、汚れた血、足りない血、血液型の違い、血は体のすべての部分の状態を左右します。同じように言葉はすべての考えを支配して人間のすべての行動に関わり、知らぬ間にそれの有り様を左右しています。

  ターン・プッタタートのように言葉を正確に使えば頭脳は冴えて行き、心の内部すべてが見通せますが、曖昧な言葉を使っている人の頭脳は混沌としていて、片づけられない人の散らかった部屋のように、何があるか、本人も知らない状態のように見えます。

国語以外の知識がないことは、その人がそれらに関心がないことを示すだけですが、有名人が「私のお母さんが」などと言うのを聞くとがっかりするように、国語、特に話す言葉に関した知識がないと、知性そのものが疑われてしまうことがあるのは、言葉はすべての知識の基盤である以上に、頭脳の明晰さを表すものだからかも知れません。

多分高校の時だったと思いますが、国語の教科書に、嫁いでいく娘の嫁入り道具を揃えられない貧しい母親が、娘に正しい国語(フランス語)を習わせる話がありました。その時はその話にどんな意味があるのか分かりませんでしたが、最近それは非常に正しい考えだと感じます。
 
考えるため、伝えるために、一日中一生使い続ける言葉をいい加減に扱うか、厳格に厳密に扱うかは、その人の心や頭脳の明晰さと深い関係があり、正しい言葉使いを知っていることは、他の知識があることや美しい衣服や装身具で飾ることより、その人を立派に見せ、その人の生涯の幸福に寄与すると思うからです。