貴乃花親方の破滅

昨年末の日馬富士の暴行事件をめぐる貴乃花親方の行動を、相撲界の不正を正す正義の行動で、角界の隠れている問題が明らかになる流れになるだろうと見ていましたが、理事長選挙や貴公俊の暴力問題など、親方を益々窮地に追い込む成り行きに変わり、結果として相撲協会から圧力があったのか無かったのかも明らかでないまま、貴乃花親方は年寄りを引退し、名門である部屋を消滅させました。
 
 今年の夏以降の親方は、理性で考えると言うより、推測や思い込みなどで自ら曲解して、決断をしたように見えました。私はこの頃になってようやく、これは親方が長年母親を拒絶していることのカンマの威力で、いろんな事件や出来事が連続して起き、親方の人生は次第に破滅に追い込まれているのではないかと思い至りました。
 
カンマが結果を出す場合は不可解な部分(縁)が多々あり、本人も訳が分からない成り行きになります。シリアで武装勢力に拘束されて最近解放されたフリージャーナリストが、案内人でない男に付いて行ったのは「私の判断ミス」と言っていましたが、重要な局面で正しい判断ができないのは、カンマの威力のように見えます。重要であると分かっているのに、その人の普通の注意力や理性が使えないのですから。
 
同じように普段の判断力が使えないことに男女の仲があり、恋は盲目と言うくらい正しい判断ができなくなること、あるいは信じられないほど早い決断をすることもありますが、これもカンマが急かせるからです。
 
ブッダは「恩知らずは破滅する」と教えられています。両親はすべての人にとって最高に恩のある人で、親殺しは阿羅漢を殺すのと同じ無間地獄に落ちます。だから「子にとって親は阿羅漢」です。命を与え、体を与え、食べること、歩くこと、話すこと、何でも人間らしく育ってきたのは、親が根気よくすべてを教えてくれたからです。
 
このような見方に同意しない方もいるかもしれませんが、ブッダの教えのすべてはブッダ個人の考えでなく、自然を観察して見えた自然の法則であり、「恩知らずは破滅する」というのも自然の法則の一つです。
 
疑問がある方は、特に親孝行な人、特に親不孝な人の例を探して、観察して見てください。芸能界には片親で育った人が多いですが、それは、子供のころから何かにつけて「親に楽をさせてやるため」「親に恩返しをするため」という意業を数えきれないほどたくさん作っているので、それらが十分貯まると善いカンマの結果として大成功します。
 
貴乃花が尊敬する双葉山は、幼い時に母を亡くし、一人親であった父が片目を失って仕事ができなくなったので、日常的に親を援け、そしてもっと親を援けたい思いを、長年胸に抱いて生活していたのでしょう。その意業の蓄積が偉業に繋がったと見ます。

反対の親不孝で破滅した人の例を探すのは簡単ではありません。介護していた父の死後、次第に衰退して亡くなった山口美江はその例かもしれません。彼女は後の講演で介護の日々を「地獄」と言っているので、たぶん介護される父にとっても地獄であり、静かな日常ではなかったと推測できます。

介護から解放された後、芸能界復帰もせず、その他の仕事をすることもなく、体調不良が続いた後、五十一歳という若さで孤独死しました。介護の日々で、親に対してたくさんの恩を忘れた言葉や考えという業がなければ、そのように経過する年齢ではありません。

もう一人伝染病で亡くなった野口英世ですが、伝染病による死も不道徳(特に恩知らず)なカンマの結果と言われています。伝記によると野口英世は若い頃から放蕩癖があり、支援者の恩を繰り返し裏切り、婚約者の持参金を使ってアメリカ留学の資本にし、五年後にその金を返済して婚約解消しています。このようなカンマの蓄積が伝染病による死という結果を招いたと私は見ます。
 
忍耐や努力で一度は成功を収めても、恩知らずなカンマが十分なだけあれば、成功は長続きせず破滅します。

だから何をするにも親孝行は基盤です。親を怨んだり悲しませたりする行為は、「恩知らずは破滅する」という教えがあるように、奇妙な成り行きによって破滅します。普通は親が亡くなった後、次第に衰退して死に至りますが、親方の場合親不孝の時間が長く、ここで一度結果を出す十分なカンマが蓄積されたのでしょう。


老いについて知る

四聖諦の苦は十一種類ありますが、基本的な苦として「生老病死」があります。生まれることが苦なのは、すべての苦は生まれたことによって生じるからです。死ねば苦は一旦終わりますが、カンマがある生き物はカンマの威力によって再び生まれてしまうので、生まれることは苦です。


病気をしたことがある人は誰でも「病は苦」と知っています。そして死は、親しい人、愛している人、財産、地位など、今あるすべての物を捨てなければならないので苦です。愛している人も、親しい人も、財産も地位も何もない人でも、何よりも愛している命を捨てなければならないので苦です。


しかし二番目の老だけは、老齢に達していない人は、どのように苦か良く理解できません。私自身も子供の頃、家に祖母がいたので老人を見ていましたが、勤勉で病知らずで、愚痴や嘆きを聞いたことがなかったので、自分が老人になるまで「老いは苦」と知りませんでした。


四十歳代の頃、前を自転車でのろのろ走っている老人がいると、スピードを上げて追い越し、その当時の感覚の言葉で「この爺さん、なんでノロノロ走っているの?」と考えたのを思い出します。つまりその老人がノロノロとしか走れないことを知らず、普通に走れるのに、急がないから、暇だからゆっくり走っていると考えて、イライラしました。


今私は戸外をほとんど歩けないので、歩くのと同じくらいの速度で自転車に乗っています。力を入れて漕ぐと息が苦しいからです。そうなって初めて、あの時の老人は、自転車を漕ぐ力がなかったかもしれないと気づきました。


老いると目がかすみ、耳が遠くなり、指先が思うように動かなくなり、物を落とし、壊すことが多くなり、食べるのに時間が掛かり、食べ物や飲み物をよく零し、食べられない物、食べにくい物が多くなり、脚運びが悪くなり、杖をつかなければならなくなり、物忘れをし、言い間違いをし、勘違いをし、そうした症状は脳や内臓の衰えが原因なので、同類の原因による不具合が数えきれないほどあります。


そしてまだ老いを知らない若い人(子または子の世代)は、そうした老いの症状を理解できないので、若い丈夫な時代よりもすべてにおいて衰えた年寄り(親または親の世代)を見下し、自分より知性が劣る者(小さな子供)を管理するような、指示するような物言いをします。年上の人に指図されるのは当たり前ですから慣れていますが、二十も三十も年下の人に上から目線で物を言われたらどう感じるか、想像して見てください。そして見下される理由は「老い」です。


若い人は運勢が落ちると「最近思うようにならない」と言います。老いると毎日、一年中、思うようにならないことばかりになります。身体だけでなく、考えることも、することも、周りから受け取るもの、つまり環境も、すべてが望まないものが多くなります。そしてその理由は、大きな引越し前の整理、つまり死の前にいろんなカンマの結果を受け取らなければならないからです。


幼少期は過去世のカンマの残りを受け取るので、人によっては問題があり、成年期はカンマの借金がほとんどなくなり、多少無茶をしてもすぐに結果が出ないので、迷っていろんなバカなことを繰り返し、老人期は次の生に移る前に、成人期に積んだカンマの結果を受け取らなければなりません。だから老人には、病気、体の機能の衰え、いじめ、虐待、犯罪被害、事故など、自然の老化以上の様々な問題があります。


そして幼児期は、すべてを黙って受け入れて堪えなければならなかったように、老年期も、黙って堪えるしかありません。七転八倒して闘えるのは成人の時だけです。


死の恐怖は、すべての人が体験するすべての生き物にあるので、人間で死んだ後、海の生物(つまり地獄)に繰り返し生まれて来た人でも、むしろ繰り返し海の動物で生きた人ほど、死は死っています。


病と老いは家の中で飼う家畜や大型の野生動物などと人間しかありません。普通の動物は,病や老いが萌せば、捕食動物に喰われて死ぬからです。過去世で海の動物や小動物、あるいは肥育される動物しか体験したことがない人、つまりタンマで生きていない人は、老いを経験してないので、老いを知りません。


以上の理由で、ほとんどの人は老いを知らない、あるいは思い出せない、あるいは忘れているので、だから若い時楽しく過ごせるのです。老いを知っている人、人生の最後には老いがあると理解している人は、出家前のブッダのように、若くても楽しく感じず、冬支度をする山村の人のように、するべきことだけをします。


若い時にするべきことを知らず、反対にしたいことをして来た人は、その人が今見ている老人より、たぶんもう少し厳しいな老後が待っているかもしれません。今の老人より、育った社会に基本的な道徳が少ないからです。


死の恐怖は知っていても、病と老の恐怖を知らないことは、人間を油断でいっぱいにします。病と老を知れば、若い時からもう少し慎ましく、大人しく生きる気持ちになるかもしれません。

大家族で、家の中に必ず老人がいた時代と違って、老いも学ばなければ知らない時代、老いなどこの世にない、自分の将来にないと勘違いする時代なので、既に老人の方はまだ老人でない人に老いの実体を教え、まだ若い方は老いを学ばれることをお勧めします。老いは、地獄の生き物にはない人間だけのものだからです。


佐藤愛子著「九十歳、何がめでたい」などは、老いを知るためには良いと思います。

現代の日本人にない感覚に「徳」という感覚があります。善いことをすると徳という貯金のようなものになって蓄えられ、自分が困った時に助けてくれるものです。徳は時に高い倍率の利息が加算されることもあります。幸運と呼ばれるものはすべて、本当は本人が過去に積んでおいた徳と言うことができます。だから窮地に陥った人が、助けてくれる徳がないという意味で「不徳の致すところ」と言います。
 
積んである徳が多い人は、預金がたくさんあるように安心で、積んである悪徳が多い人は、借金が多いように心配が多くなります。普通の徳は世俗的な生活を援け、バーラミー(波羅蜜)と呼ぶ高い徳は高度な問題、つまり涅槃に至る援けになるので、徳というものを知っている人は、無駄遣いを嫌い預金を好む人のように、できるだけ徳を積みたいと望みます。
 
テーラワーダ仏教の国では徳という感覚があるので、貧乏人も富裕者も、恵まれた人なれるように、望みが叶うように、誰もが徳を積みたがります。
 
因果の法則を知らない日本人は幸福を望んでも、幸福を生む原因が何かを知らないので、棚ぼたのような幸福を期待するばかりで、徳を積んで溜めておくことを知りません。だから困った状態に陥った時に引き出して使う預金、つまり徳がありません。
 
徳は、見返りを求めず他者のためにする行為から生じるので、徳を生じさせてくれる人がなければなりません。徳を生じさせる人を徳の田(あるいは福田)と言い、貴田、恩田、悲田の三種類があります。貴田はブッダや阿羅漢、聖人、仙人、修行者など人を精神的に導く人、心が闇である人の心を照らす人で、恩田は両親、恩師、その他の恩人で、悲田は貧者や被災者などの困窮者です。三種類の人に布施や奉仕をすると、貴田への布施や奉仕は非常に高い徳になり、恩田への布施や奉仕も高い徳になり、悲田への布施や支援はそれなりの徳になります。

カンマは意図にあるので、貴田である人に、みすぼらしい身なりをしているからと憐れみの意図で布施をすれば、相手が貴人でも悲田への布施にしかならず、あるいは貴人ではない人を貴人と誤解して敬意で布施しても、それは貴田への布施でなく、悲田への布施にしかなりません。
 
こういう知識がある社会では、仏教の布教活動はやり易く、説教者や講演者や仏教書の著者などには、徳を求めている人が進んで協力を申し出ます。支援をする側も受ける側も「一緒に徳を積む(タンブン ドゥアイアカン)」と考えるので、貸し借りと感じないので気の重さもありません。そして一緒に徳を積んだ人は、来世で再び逢えると信じられているので、仲良しや恋人同士、家族などで好んで一緒に布施をします。
 
普通のお寺はみんな、僧を支持する人たちが資本を出し合って土地を買い、あるいは布施された土地に、手作りのことも、業者に請け負わせる場合もありますが、支持者の資金や労力で建物を建てます。
 
人が「徳」という言葉を知っても知らなくても自然界に徳はあるので、徳という物を知って、大きなことを成したい人はたくさんの徳を、普通の幸福を求める人は適度に徳を積んでおくと、人生の危機を乗り越えることができます。一銭も貯金がない人が何かをしようとしても何もできないように、徳がなければ何もできません。
 
徳という感覚がなければ、あるのは「損得」の考えばかりで、運勢的にカンマの報いを受け取る時期が来れば窮地に追い込まれます。銀行預金の種類や金利ばかりでなく、徳の預金や利息の倍率について興味をもって考えて見ませんか。
 

タンマは最高の安全

ここ十年の間に、数えきれないほどたくさんの災害が、九州から北海道まで、日本中順に交代で起きています。紀伊半島や四国、広島・岡山・神戸は大災害があっても、大阪は今年地震があったものの狭い範囲で、広範囲の災害はほとんどないと思っていたら、かつて日本では経験したことがないような強い台風で、頑丈層に見える建物の屋根や窓や看板が、ポスターでも剥がすように簡単に剥がれて空に舞い、自家用車やバスやトラックまで、道路上の紙箱のように転がっている映像を見ました。
 
そして今日は北海道の地震です。北海道は時々地震がありますが地域的な被害で、都市の人にはほとんど影響がなかったので、道内全体の人に、停電や生活の不便さなど、一定の被害を与える災害が起きたようです。
 
何が起きても、そこに居合わせた人間は堪えるしかありません。空港の施設に閉じ込められた人も、孤立した建物にいる人も、家ごと土砂に埋もれてしまっても、あるいは道路が寸断されていて買い物に行けない人も、あるいは持病の薬が切れて病院へ行けなくても、何が起きても、大変な苦労をして対処するか、あるいは耐えるしかありません。
 
お腹が空いても、食べ物が届くまで耐えるしかなく、眠れない夜も耐えるしかなく、悪辣な環境にも耐えるしかなく、急に体調が悪くなれば、運よく救急車で病院へ搬送してもらえても、病院へ行けば苦痛が消える訳ではなく、病苦の原因が消えるまで耐えるしかありませんが、そんなこと言い出し難いと感じれば、尚の事耐えるしかなく、堪えている間に死んでしまうこともあります。
 
災害でない平常時に家で正常に生活していても、毎日降り掛かってくることに、魔法を使う能力がない人は堪えるしかありません。
 
このように日本中で災害が起こるのは、日本中の人が同じ原因を作っているからで、まだ起きていない地域も、まだその時が来ないだけで、あと数時間後かも知れません。
 
身内の人の死に遭遇した人が「守ってやれなかった」と悔やむ言葉をテレビなどで聞くことがありますが、人は他人を守ることはできません。自分自身でさえ守る術がないのですから。安全のためには、高い防波堤や、耐震住宅などを作ることでなく、ブッダが八正道で言われている「正しい業」「正しい生活」をして、原因であるカンマを作らないこと以外にはありません。
 
ブッダは次のように言われています。

大王。善人が大きな消費財(財産)を手に入れると、当然自分を十分幸福にし、両親を十分幸福にし、妻を十分幸福にし、下僕や使用人を十分幸福にし、友人や相談役を十分幸福にし、当然すべてのサマナ・バラモンに捧げる供物、報いとして幸福がある善である側、極楽になる上方に、素晴らしい結果がある布施として供物を供えます。
 
彼がそれらの消費財を、このように正しく使っていれば、国王はその財産を没収することなく、強盗も持ち去れず、火事にも遭わず、水害にも遭わず、嫌っている相続人も奪うことはできません。大王。このように正しく消費しているそれらの消費財は、当然無駄に消えず、消費することができます。
 
 大王。村や街に近い所に、緑陰と、昇り降りに便利な桟橋があり、透明で清潔で、水を飲むことができる池や沼があれば、人が自由に汲んで行って飲んだり浴びたりできるように、大王。善人が大きな消費財を手に入れると、当然自分を十分幸福にし、両親を十分幸福にし、妻を十分幸福にし、下僕や使用人を十分幸福にし、友人や顧問を十分幸福にし、当然すべてのサマナ・バラモンに捧げる供物、報いとして幸福がある善である側、極楽になる上方に、素晴らしい結果がある布施として供物を供えます。
 
彼がそれらの消費財をこのように正しく使っていれば、国王はその財産を没収せず、強盗も持ち去れず、火事にも遭わず、水害にも遭わず、嫌っている相続者も奪うことはできません。大王。このように正しく消費しているそれらの消費財は、当然無駄に失うことなく、消費、使用できます』。
 
昔はお金のある人もない人も、それなりに周りの人に祝いや見舞、中元や歳暮、お土産などの形で周囲の人を喜ばせ(幸福にし)ていましたが、今はそうした伝統も消えそうになり、集落の「池」のように人々に恵みを与える人は、真似事ほどでもいません。そして現代は、国は没収しないし、強盗も全財産を奪わないので、多くの人に一度に結果を出す水害や地震などが、次々に起きています。

昔はこのような災害は何十年に一度でしたが、今年は今までの規模より一段上になりました。これは今回だけでなく、新しい時代の災害の標準規模になると思います。人が東洋の伝統的習慣を捨て、更にアメリカ式の生き方をすれば、災害の規模と頻度は、更に拡大すると見えます。

ブッダブッダの教えは真実だという信仰、あるいは帰依がない人は、「何、寝言を」と思われるかもしれませんが、ブッダの教えは自然を観察して見えた真理なので、自分で良く観察して見てください。

まだ社会保障がない国々では、相互に助け合うことがあるので、アメリカや最近の日本のような災害は少ないです。自分の親や家族や親族まで助けていた昔の日本にも滅多にありませんでした。そのようにお金の使い方の意図と災害の因果関係を見てください。

個人でない会社などでも、社会貢献をする大会社は潰れませんが、急成長して世界に進出した下請け会社などは、大会社の自覚がなく、社会に還元しないので、奇妙な出来事で突然破産します。

自分の安全は自分で正しい生活をすることで守るしか方法はありません。誰も人は人を守ることはできません。「ブッダダンマは最高の安全」「究極の安全」と言われます。政治や行政には個人の安全を守る能力はありません。もしその人が安全の原因を、自分自身で作っていなければ。

これだけ頻繁な災害の連鎖を見て危険や不安を感じたら、ブッダが最高の安全と言われている八正道に興味を持たれてください。少し守れば少し安全になり、非常に守れば非常に安全になります。それは個人を安全にし、安全な人が増えれば社会も安全に、災害も少なくなるか、人に被害のない場所で起きるようになります。

今度収入があった時、収入がある度に周囲の人をちょっとずつでも幸福にして(喜ばせて)みませんか。それはブッダが教えている安全を買う経費です。

四念処についての詳細

ブッダは、八正道の正しいサティ(正念)は四念処と言われています。私は、四念処は正しいサマーディを生じさせる最も良い方法だと感じるので、四念処の仕方を説明するために、ブッダの言葉の、四念処に関わる部分を抜き出して見ました。
 
四念処をする時の注意事項

その比丘が当然静寂な住まいに住み、托鉢から戻った昼食以降は、結跏趺坐し、体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、彼は当然世界の喜びを捨て、喜びのない心があり、絶えず心の喜びを拭おうと待ち構えています。怒りを捨て、怒りのない心があり、すべての生き物を援けたいと望む心がある憐れみの人で、常に心の怒りを拭おうと待ち構えています。

惛沈睡眠(眠気と寂しさ)を捨て、惛沈睡眠のない心があり、心の明るさだけをめざし、サティと自覚があり、常に心の惛沈睡眠を拭う準備があります。掉挙悪作を捨て、散漫でなく内面が静まった心があり、常に心の掉挙悪作を拭おうと待ち構えています。疑法を捨て、疑法を越えてしまうことができ、すべての善を「これは何? これはどう?」と疑念で聞く必要がなく、常に心から疑法を拭おうと待ち構えています。

 その比丘が、心を憂鬱にし、智慧の力を衰えさせる五蓋を捨てれば、彼は普通に体の中の体が見える人であり、普通に受の中の受が見え・・・・・・、普通に心の中の心が見え、普通にダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。
 如来は当然、更に彼に、
「おいでなさい比丘。あなたは普通に体の中の体が見える人におなりなさい。しかし体があるヴィタカ(考え)をしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべての受の中の受が見える人におなりなさい。しかし受があるヴィタカをしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべての心の中の心が見える人におなりなさい。しかし心のあるヴィタカをしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべてのダンマの中のダンマが見える人におなりなさい。しかしダンマのあるヴィタカをしてはいけません」とこのように忠告します。
 その比丘が、ヴィタカ・ヴィチャーラ(考えること)が静まることで、心の内面を明るくするものであり、単独に現れるダンマであるサマーディ(三昧)を生じさせ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
 (ブッダの言葉の至る所で述べられている三禅、四禅空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処についても述べられています)。
 
比丘。あなたがこのようにサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常に体の中の体が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めなさい。
 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んでヴィタカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
ピーティで経過するダンマにするべきで、
ピーティのないダンマにするべきで、
喜びと一緒に行くダンマにするべきで、
ウベカーと一緒に行くダンマにするべきです。

 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常にすべての受の中の受が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めなさい。
 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んでヴィタカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
ピーティで経過するダンマにするべきで、
ピーティのないダンマにするべきで、
喜びと一緒に行くダンマにするべきで、
ウベカーと一緒に行くダンマにするべきです。
 (「心の中の心を見る」と「すべてのダンマの中のダンマを見る」場合も、同じように七段階で話されています)。
 
四念処で維持する方便

アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。比丘や比丘尼の誰でも、心が四念処で安定していれば、その比丘または比丘尼が期待できることは、今到達しているより更に偉大な美徳に到達することです。四念処とはどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は、平素から体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人なら、そのとき彼は体の中の体が見えています。体に生じてくる身体の感情がある焦燥でも、生じてくる心の委縮でも、心が外部に飛散するのでも、アーナンダ。その比丘は、心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておくべきです。彼が心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておけば当然歓喜が生じ、心に歓喜がある人は当然喜悦が生じ、心に喜悦がある人の体は当然静まり、体が静まった人は当然幸福を味わい、幸福のある人の心は当然安定します。

 その比丘は、当然「心を、何らかの自分の利益になるようにできた。それなら今私は、(喜びの基盤であるニミッタで維持されている心を)抜こう」と熟慮して見ます。だからその比丘は抜いた、つまりヴィタカをせず、ヴィチャーラをせず、「今私はヴィタカも無く、ヴィチャーラも無く、内面の幸福であるサティがある」と明らかに知ります。
 (受と心とダンマの場合も、同じように話されています)。
 アーナンダ。こういうのを、バーヴァナーは当然心を維持することによってあると言います。
 

四念処ができない人

人が平素から体の中の体が見えないのは、六つのダンマを捨てないからです。六つのダンマはどのようでしょうか。六つとは、仕事を喜ぶ人であること、無駄話を喜ぶ人であること、秘密を喜ぶ人であること、集団との交際を喜ぶ人であること、すべての根を慎まない人であること、消費する程度を知らない人であることです。比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てないから、人は普段から体の中の体が見えない人です。
 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれない人の場合も、すべて同じように話されています)。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体が見える人になれるのは、その人が六つのダンマを捨てるからです。六つはどのようでしょうか。六つとは、仕事を喜ぶ人であること、無駄話を喜ぶ人であること、秘密を喜ぶ人であること、集団との交際を喜ぶ人であること、すべての根を慎まない人であること、消費する程度を知らない人です。比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てることで、人は普段から体の中の体が見える人になります。
 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれる人の場合も、すべて同じように話されています)。
 

大念処経の意味のチッターヌパッサナー

(1)貪りのある心を「心に貪りがある」とハッキリと知り、
(2)貪りのない心を「心に貪りがない」とハッキリと知り、
(3)怒りのある心を「心に怒りがある」とハッキリと知り、
(4)歓喜のある心を「心に歓喜がある」とハッキリと知り、
(5)愚かさのある心を「心に愚かさがある」とハッキリと知り、
(6)愚かさのない心を「心に愚かさがない」とハッキリと知り、
(7)委縮した心を「委縮した心」とハッキリと知り、
(8)散漫な心を「散漫な心」とハッキリと知り、
(9)偉大さに達した心を「偉大さに達した心」とハッキリと知り、
(10)偉大さに達していない心を「偉大さに達していない心」とハッキリと知り、
(11)極めて良い別の心がある心を「心にもっと良い別の心がある」とハッキリと知り、
(12)極めて良い別の心がない心を「心にもっと良い別の心がない」とハッキリと知り、
(13)安定した心を「安定した心がある」とハッキリと知り、
(14)安定していない心を「心が安定していない」とハッキリと知り、
(15)解脱した心を「解脱した心がある」とハッキリと知り、
(16)解脱していない心を「心は解脱していない」とハッキリと知れば、
 このように、比丘は普通にすべての受の中の受を熟慮して見る人であり、受は内部の受もあり、外部の受もあり、内部と外部の受であることもあります。
 

ダンマーヌパッサナー

(1)当然、常に無常が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に無常が見える人になることを課題にして息を吐き、
(2)当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして息を吐き、当然心を喜ばすことを課題にして息を吐き、
(3)当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吐き、
(4)当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吐く時、比丘のみなさん。その時その比丘は、常に心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。
 
内部にあるカーマチャンダ(愛欲を貪ること)を「ある」とハッキリと知り、
 内部にないカーマチャンダ(愛欲を貪ること)を「ない」とハッキリと知り、
 まだ生じていない愛欲の貪りがどう生じたかをハッキリと知り、
 生じた愛欲の貪りをどう捨てたかをハッキリと知り、
 捨てた愛欲の貪りが二度と生じないのを、どう二度と生じないかハッキリと知り、
 (五蓋の場合、つまり瞋恚、惛沈睡眠、掉悔:興奮と後悔、疑法の場合も欲貪の場合と同じように話されています)。
 
 
初めに、チャヤサロー比丘の「いかに修行するか」「目を閉じて学ぶ」などで、心と心に生じるもの(受や想など)との違いを理解すると、やり易いです。
 
体の中の体を見るというのは、絶えず生じている今の呼吸を見るという意味で、
すべての受の中の受を見るというのは、喜びの受か、苦の受か、あるいは喜びでも苦でもない受かを見るという意味で、
すべての心の中の心を見るというのは、大念処経の意味で引用したように、心に貪りがあるかないか、怒り、愚かさ、歓喜等(16項)があるかないかを、ある、あるいは無いとハッキリと感じます。
すべてのダンマ中のダンマを見るというのは、上の例では、五蓋を見ていますが、すべてのダンマを見ることだと思います。
 
受の時もそうですが、喜びの受、苦の受、あるいは貪・瞋・痴などがあると見たら、すぐにそれを心から捨てる、あるいは止める、消す努力をします。これが、「煩悩を焼く努力があり、サティがあり、自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまう」という言葉だと思います。
 
これは、もちろん結跏趺坐してしても善いですが、絶えず四念処の中にいる習慣にするためには、むしろ生活の中で、電車の中や、歩いている時や、順番を待つ間、手持ち無沙汰な時など、いつでも心の中を見る習慣をつける方が断然良いです。座ってする習慣の人は、座っていな時間は観察できませんが、生活の中でできる人は、それだけのために座って時間を無駄にする必要はありません。時々座りたければ、当然座ってすることもできます。


味噌と癌の因果関係

味噌が幾つかの種類の癌の発症の防止に効果があるという情報があります。その根拠を探すと、味噌汁を毎日三杯以上飲んでいる人と、一二杯飲んでいる人と全く飲まない人には明らかな違いがあると、グラフで説明しているサイトが幾つもあります。仮にこの調査結果が事実としても、味噌と癌の発症の因果として正しいかどうか、私は疑問に思います。
 
味噌汁だけでなく、どんな形でも毎日一定量の味噌を摂取すれば同じ効果があるなら味噌と癌の発症防止を関連付けることができますが、味噌汁には味噌以外にいろんな要素があるからです。
 
味噌汁には複数の野菜や豆腐や大豆製品、海藻やキノコが使われるので、植物繊維が良いのかも知れないし、豆腐や油揚げなどの大豆製品を毎日とり続けることが良いのかもしれないし、あるいはワカメなどの海藻が良いのかもません。いすれにしても味噌汁は健康に良さそうな具材を、毎日繰り返し継続して取ることができます。
 
あるいは味噌汁を飲むと、食事に必ず温かい物があり、食事の度に腹を温めることが良いのかも知れません。味噌汁以外に、毎回温かいものを添えることは難しいからです。
 
あるいは薄い塩分を摂ることは腎や碑胃の働きを助けるので、毎食薄い塩分を摂ることが免疫力を高めるのかもしれません。
 
また、味噌汁を摂るということは、ご飯と味噌汁と肉料理というメニューもありますが、概して「和食」と呼べる、あるいは普通の家庭料理の範囲の場合が多く、和食や家庭料理に使われる食品バランスが良く、反対に和食でない場合は、獣脂や糖類など健康にあまり良くない物が多いのかも知れません。
 
あるいは味噌は発酵食品で、発酵食品は血液がドロドロになる(於血)のを防ぎ、昔は何の症状でも蛭に血を吸わせて治療したように、於血は非常に広範囲の症状が出るので、発酵食品を摂ることが健康維持に良いのかも知れません。発酵食品はいろいろありますが、毎日欠かさず摂るのは、味噌汁が一番簡単です。
 
あるいは味噌汁を一日三杯以上飲む人は三食和食である場合が多く、三食和食の生活をする人は、三食洋食型の生活をする人より煩悩が少なく、病気の原因になる怒りや不満によるカンマの数と度合いが少ないからかもしれません。極端な例で言えば、毎日ギャンブルに通うような生活をする人、あるいは不倫真っ盛りの人などが、三食和食を摂っていることは考え難いからです。
 
高度成長期に肉食の増加に伴って癌患者が増えたのは、肉そのものではなく、肉食を好むと煩悩が増え、煩悩が増えると悪い(道徳に欠ける)カンマが増えたからかもしれません。
 
 
だから味噌汁を毎日飲む人にある種の癌の発症率が少ないという調査結果を、それは味噌の効果だと断定するには、少なくとも六つの疑問を「それではない」と否定する実験結果、あるいは調査結果がなければなりません。それとも私が知らないだけで、そういった要素が理由ではないことが、すべて検証済みなのでしょうか。
 
味噌は一度に極端に取り過ぎない限り害のある食品ではないので、信じて摂取しても害はないと思います。しかし日常的に味噌汁を飲んでいる人が飲んでいない人に比べて癌の発症率が低いのは、味噌が癌の発症を抑えると見るような短絡的な思考は、世界を真実のままに見ること(ヴィパッサナー)に、あるいはブッダが言われる「絶妙に考える」「如理作意」にふさわしくない人間にします。
 
また聞いただけの知識を、「これはこうだ」と断定して他人に伝えることは、八正道の正語の、「真実でないことを言う」項目に反すかもしれず、真実でないことを発言すれば、そのカンマの結果で真実でない情報が入って来るのを避けられません。真実でない情報によって行動すれば、人生は空回りが多くなります。だからテレビや雑誌やネットで得た情報の扱い方にも、八正道の項目に照らして誤りがないか、常に熟慮が必要です。

戦争に巻き込まれないために

日本の戦争が終わって七十年以上になりますが、その間何十年も米ソの戦争の危機が続き、その構図が崩れたと思ったら北朝鮮アメリカの戦争の兆しが現れ、戦争になればロシアや中国も参戦し、日本はアメリカと共に戦えるよう憲法を変え、世界を二分する大戦になりかねません。
 
二度と戦争はしたくないと考える庶民は、戦争体験を話したり、絵画に描いたり、小説や映画などで戦争の悲惨を訴えて、感覚的に「戦争反対」の気持ちを忘れないようにする努力をします。そのような行動や努力が無駄だとは思いませんが、しかし戦争の本当の原因は別の所にあり、国中の人がそうした行動に賛同し、支持しても、個々人のカンマの問題として、国民の多くが戦時の苦しい生活を余儀なくされるカンマを作っていれば、カンマの報いをもたらす縁として戦争が起こります。
 
反対に多くの国民が、戦闘に行かなければならなくさせるカンマ、戦時中の苦しい生活を余儀なくさせるカンマを作らなければ、国同士のいがみ合いは、いつまでたってもいがみ合いのままで、戦争には発展しません。
 
そのような観点で今の社会を見ると、幾つも憂慮される現象が見られます。一つは食べることに関してで、食べ放題やデカ盛りブームで見える必要以上に、煩悩が満足するまで食べること。キャラ弁や創作料理などに見られる食べ物の遊び化、またB級グルメなどは、三食以外の時間にも食べられれば食べるなど食に関して慎みのない放漫な状況が、もうしばらく続いています。
 
着る物が必要をはるかに超えて、煩悩を喜ばせる状態であることは例を挙げる必要はないと思います。今老若男女を問わず「片付けられない人」の住まいの「ゴミ屋敷化」も社会現象になっているのは、不要な衣服や持ち物が多すぎることの現れであり、一般庶民も程度こそ違い、まだ管理できる範囲内にあるだけで、同じような傾向にある人も少なくないと思います。
 
太平洋戦争の戦時下のような生活を余儀なくされた原因であるカンマは何かを考えると、衣食の欠乏は贅沢の類、衣食を無駄にすることなどで、言論統制などは、他人に自由にものを言わせない行動?などで、すべてにおいて自由を制限されたのは、一般庶民の場合は、子や孫などの家族に、身勝手に権力を行使したことの結果でしょうか。
 
日本には国民全体が戦時下の生活を余儀なくされ、戦禍に見舞われた人たちも全国に散在した時代は戦国時代以来なので、それぞれが数百年間に積んできたカンマが累積した結果、あのような時代が現れたのかもしれません。元禄時代や大正時代は庶民が栄華に陶酔した時代と言われていますが、現在と比較して見るのは簡単ではありません。
 
現代の人のお金の使い方を見ると、悲惨な報いを受けなければならない時は、今までより短い間隔で現れるような気がします。過去は今より高い道徳があり、今より良い伝統習慣があり、現在のように慎みがなく身勝手な時代はなかったように見えるからです。今の人たちはあまり権力を行使しないので、権力による締め付けは少ないかもしれませんが、現在のように慎みのない放漫な生活を続ければ、国民のほとんどが衣食住に困窮する時代が来るのは、そう遠くないかもしれません。
 
しかし受け取るカンマの結果が生活の困窮だけなら、今の日本の各地にあるような災害だけで戦争である必要はなく、戦争になるには生活の困窮以外に、いろんな意味で著しく自由を束縛される原因であるカンマがなければなりません。
 
カンマとカンマの報いの関連は見るのは難しいですが、いずれにしても国民が巻き込まれるような戦争の原因は、政治や経済などではなく、本当は私たち国民の一人一人の行動にあると見るべきです。政治や経済は、戦争を引き起こす縁であるだけです。