これがあれば実践できる!

昨日何とかオーサーレッタッバダンマの見直しを終えました。

帰依に関わる実践、布施・寄付に関わる実践、戒の勤めに関わる実践、サマーディの勤めに関わる実践、八正道・七清浄・三学に関わる実践、 四念処・七覚支・解脱に関わる実践、天精舎・梵天精舎・聖精舎・空精舎に関わる実践、涅槃に関わる実践、カンマとカンマの終わりに関わる実践、四聖諦に関わる実践、 縁起の流れを生じさせないことに関わる実践、滅苦・三相に関わる実践、ロークッタラダンマに関わる実践の十三種類の実践法を一挙に説明されています。
 
仏教の本というと「戒はこう、八正道はこう」と、項目を挙げて説明する人ばかりで、具体的にどのように実践するかに言及する本はほとんどありません。それは多分、本を書く人が実践法を知らないから、あるいは実践に関心がないから、実践をしたことがないからだと思います。

だから本を読んだ人はいろんなダンマの項目を知って記憶するだけで、実践することができませんでした。
 
この本は普通は実践できなそうに見える七清浄、三学、七覚支、三相なども、滅苦のために実践できるよう解説されています。だから読者は、ここで述べられているすべての実践の中で、自分の資質や趣味に合った実践を選んで実践することができます。そういう意味で仏教を学ぶ人にとって非常に利益のある画期的な本で、仏教に関心がある多くの人に読んでいただきたい本です。
 
「教えを学び、教えを実践し、実践の結果を得ることの三つが揃えば仏教と言う」とブッダが言われているように、「仏教を学ぶ」ことは、現代の学校の勉強と違って、実践するために知って、理解することであり、実践して結果を得なければ学んだことにならないからです。実践して結果を得なければ、知っているだけなら、得意になって話せる以外に、知ることにはほとんど意味がありません。
 

実践しないで話す人、教える人ばかりなら、仏教は信用されなくなる一方で、信頼されない仏教は堕落するだけですが、正しい仏教の実践をし、実践の結果を体現する人が増えれば、仏教は信頼を回復し、信頼され、尊敬される仏教は更に発展するからです。

ホームページを更新しました

4月に「宗教と社会」を更新した後、次の本を掲載する前に、もう一度読み直しをしようとしたら、このところ毎食後2時間くらい眠ってしまうので、ほとんど仕事をする時間がなく、思うように捗らなくなりました。せっかく素晴らしい本を訳し終えているのに、いつまでも遅らせては仕方ないので、まだ納得できる出来上がりにはなっていませんが、師の27回忌に当たる今日7月8日に、見切り発車の状態で掲載します。今後も読み直しと修正を続けるつもりでいます。しばらくは読みにくい箇所が多いと思いますが、ご容赦ください。


法話のページにも書きましたが、インタビュー形式の自伝で、「翻訳以外の先生の作品の中で、一番好きな本は何ですか」と問われた時、プッタタート師は「オーサーレタッパダンマ」と「サンダッセータッバダンマ」ともう一冊の三冊を名を上げています。双子の本と言われているオーサーレタッパダンマとサンダッセータッバダンマを翻訳して見て、その答えに納得しました。

師の本はどの話も深い納得と感銘を感じますが、この本は仏教の実践のすべてを一望でき、それらが詳細に説明されている点が素晴らしく、しかも理論や理想論でなく、実践者として体験や実感で話されているので、本気で読めば正しく理解でき、正しく実践できると確信します。


感謝を教えるのは仏教ではない

最近はよく「感謝」という言葉を耳にします。しかも「仏教は感謝を教える」と言う人が多いです。食事の前に言う「いただきます」という言葉は、犠牲になった食べ物への感謝、食事を作ってくれた人への感謝、食事ができる境遇にあることへの感謝、今生きていることへの感謝など、もろもろの感謝の意味が含まれていると言います。
 
しかしブッダダンマ(ブッダの教え)を学んで、ブッダの話の中に「感謝」という言葉を見たことがありません。ブッダの話には「感謝」でなく「恩」という言葉が良く出てきます。今の日本では恩という言葉をあまり聞かなくなってしまったので、今日は恩と感謝について熟慮して見ます。
 
感謝は自分に利益をもたらしてくれる行為や行為者に対して「有難い」「嬉しい」「ラッキー」と感じることで、恩は自分が受けた好意を「借り」と感じる感覚です。借りと感じれば借りたものは返さなければならないと考え、返さなければ「人でなし」になるので、するべきことをする努力を伴い、結果として苦を生じさせない正しい見解の一つです。感謝は口で礼を言うだけ、あるいは心で思うだけの単なるマナーです。
 
感謝はマナーにすぎないので教えれば幼児でも理解でき、悪人でも自分の利益になることがあれば、利益を供与した人に感謝します。邪見の(自然の法則と一致しない教えがある)宗教である西洋にも、世界中の言語に感謝という言葉はあり、いろんな新興宗教も教えています。一方恩という言葉は仏教にしかありません。だから「恩」、特に「親の恩」という言葉を西洋人に説明するのは、非常に難しいそうです。今はすっかり西洋文化に染まってしまった日本人も、(西洋人同様に)恩を知ることは簡単ではないと感じます。
 
私は戦後の教育を受けたので「恩返し」という言葉は昔話の中の話、二十四孝などの話で、民主主義や人権などという言葉と比べると、むしろ知的でない人たちが使う言葉のように感じていました。しかしブッダの教えを学ぶと、ブッダが「恩を知りなさい」と言われていることを知りました。
 
ブッダの教えは守っても守らなくてもその人の自由である一般道徳、あるいは社会の秩序を維持するための道徳ではなく、自然の法則と一致しているので、教えに反した行動をすれば、結果は自然の法則であるカンマの法則によって、行為者自身が必ず苦になります。だから「恩知らずは破滅する」と言われているのは、情状酌量や温情のある人間が決めた法律より厳格なカンマの法則の話です。
 
どんなに学力があっても、どんなに高い学歴があっても、才能や機智や商才があっても、親や恩師に対して恩知らずな行動があれば、たとえ一時は成功を引き寄せることができても成功は長く続かず、早晩破滅します。反対に、幼少時に貧しい家庭に育ち、一身に親の手助けをした人は、大人になるとそれなりに成功します。芸能人では古くは森進一、藤圭子山口百恵から、安室奈美恵、星野あき、篠原涼子宮沢りえ、ローラなど、子供時代に苦労した人の例は多すぎて挙げられません。
 
恩知らず、つまり親不孝で破滅した例は、たいていは親の死後でないと結果が出ませんが他人の親の死を知るのは難しいことと、日本はまだ、親不孝が原因で破滅するほどの人は多くなく、いても成功者ほど有名にならないので探し難いですが、います。最近では経営方針の違う父を社長の座から引き下ろして自分が社長になり、大きな赤字を出して中国の会社に身売り状態になった大塚家具の大塚久美子社長などは、親不孝で破滅した(する)例かもしれません。
 
感謝は行動を伴わないので結果がありませんが、恩を知ることと知らないことは行動があるので、確実に正反対の結果があります。
 
だから何をするにも成功の基盤として、親や恩師を始めすべての物の恩を知ることは必要不可欠です。仕事でも趣味でも学業でも、自分が努力していることを成功させたいと望む人は、「恩を知ること」は必要条件と知ってください。そして自分の子が成功を掴んでほしいと願う人は、教育を受けさせるだけでなく、いろんな物の恩、特に両親の恩を知るよう教えてやってください。
 
私自身、我が子に親の恩を教えることは自分に恩返しをしなさいと言うことでもあり、ためらいがありました。しかし親の恩を知らない子に育てば、どんな良い大学を卒業しても、どんなに才能があっても成功者にはなれず、破滅の一途なので、子の人生が発展するよう、子の才能が開花するよう、子の努力が実るよう望むなら、我が子に親の恩を教えるべきです。それも言葉で教えるだけでなく、自らが自分の親に恩返しをする(亡くなっていれば墓参などをする)姿を見せて自分の背中で教えれば、それが一番善い教え方であり、子への最高の遺産でもあります。
 
感謝は仏教ではなく、仏教の正しい見解でもありません。感謝するだけで「私は善いことをしている」「人生は善い方向になる」と安心しないでください。仏教では恩を、受けたら返さなければならない恩を教えます。

「私は正しい」と感じる慢

 ほとんどすべての虐待は「しつけ」という名目で行われ、しつけをする自分は正しいという思いが契機になっています。相撲界の暴行事件、暴行致死事件も、しつけという名目で始まっています。あるいは悪質な煽り運転なども、追い越しや無理な車線変更など何らかの行動でカチンと来た人が、相手が間違っている事を知らしめるため、教えるためにする執拗な嫌がらせです。
 
 駅のコンコースなどで体や傘などがぶつかって喧嘩になるなど、すべての小競り合いも、相手が無礼であると感じて注意をし、その後暴力になる場合が多いです。
 
 このように見て行くと、多くの人間関係の揉め事は、一方もしくは双方が「私は正しい」と感じることから発生しています。「私は正しい」という思いは、怒りや怒りが原因で生じるすべての出来事の共通要素かも知れません。「私は正しい」と感じることは良いことのように見えるのに、なぜこの「私は正しい」という思いが、ほとんどすべての悪を生むのでしょうか。「私は正しい」という感覚をパーリ語でディッティ、あるいはディッティマーナと言い、日本語では傲慢、我慢、漢訳仏典では慢と言い、意地も慢の一つです。
 
(この慢の一種であるアスミマーナ(自己顕示抑。優越感)につて、法話でなく、プッタタート師が書き下ろされた非常に深遠な精神分析があります。関心のある方は是非読まれて見てください)。
 
 プッタタート師はサンダッセタッパダンマという本で、「すべての信仰の頂点である最高に重要な信仰は、自分自身を信じることです。自分自身の信頼は広い意味がありますが、要するに自分は安全だという信頼です。自分は安全だ、自分は正しい、あるいは善いという信頼がなければ、眠れません」と言われています。信仰がなければ眠れないで狂ってしまう他にも、無気力で、何もする気がなく、仕事は衰退し、力が減退すると言い、信仰がない生活は力がないとも言っています。
 
 ここしばらく、私は気力が足りない日々を過ごしていますが、確かに「自分は正しい。自分は善い」という信頼が、以前より減っています。鬱と言われる状態も、自分を信頼できない状態かもしれません。以前、母親が鬱症状で悩んでいる方に、「お母さんと過ごした楽しい思い出、お世話になったこと、有難かったことなど、お母さんに関係ある良い思い出を、できるだけたくさん思い出してください」と提言したら、食事もしない、部屋から出て来ない、顔も洗わない状態だった母親が、途端にケロッとした顔で起きてきて、普通の日常が戻ったとメールを貰ったことがあります、家族が母親の良いことを思い出しただけで、母親は「自分は善い」という正常な信仰を取り戻せたのかもしれません。
 
 ある人から、夫が求に凶暴になったという相談を受けた時、同じように提言したら、それも解決したそうです。良い思い出を思い出すと、楽しかった気持ちや感謝の気持ちが生じるので、それで夫である人は安心して静まり、普段の自分に戻ったと思います。
 
 だから人は自分を元気にするために、いつでも「自分は安全だ。自分は正しい。自分は善い」と信じる信仰があります。安全を求めるのは本能なので、「自分は正しい」という感覚も本能に近いのでしょう。怒られた人、あるいは驚かされた人は、自分の安全を求める気持ちや、自分は正しいと言う信仰が妨害されるので、自分を信じすぎている人は瞬時に怒りが爆発します。
 
本能に近い感覚なら、目や耳が刺激を受け取った時、「私は正しい。だから私を妨害する人、私がしようとすることを妨害する人は一方的に悪い」と考えてしまうのは自動的な成り行きで、習性になっていて瞬時に完結し、考える必要はありません。
 
 同じ本でプッタタート師は、「十分徳がない人物の自分を信じることは邪見になります。両親に対して強情で両親や先生の言うことを聞かない人、この種の自分を信じることは誤った見解になります。その信仰は非常に力がありますが、邪見です。そしてそれは精神面のヤクザで、すべきでないことをし、恥知らずで、厚顔で、何も怖れを知りません。これが狂気の自分を信じることであり、邪見です。少なくとも自慢好きで尊大で、傲慢でほら吹きです」と言っています。
 
 物質主義になった分だけ正しい見解が少なくなるので、これから益々この種の犯罪は増えると思います。しかし一昔前の社会のように、多くの人の心に正しい見解があれば、邪見である「私は正しい」という思いから生じる事件を減らすことができます。道理のない(仏像)信仰である仏教でなく、正しい見解を基本とする仏教の教えに目を向けられる時代が来て欲しいです。

暴言の時代

年前に見たテレビで、70歳近い俳優が一回りくらい年上の大先輩俳優と話す時に、自分を「俺」と呼んでいるのを見て仰天しました。俺というのは、目下、あるいは仲間内の人に対して使う言葉で、その俳優は早稲田大学卒で、まったく知識がないはずはないからです。
 
俺俺詐欺が多発したのは2000年以後らしいですが、昔なら僕僕詐欺であるべきで、親に電話して俺と名乗るなど、よほど構わない家庭でなければあり得ませんでした。1986年にも電話を使った同様の詐欺がありましたが、その時は当然「僕だけど」と言ったとあります。
 
子が親と話す時に俺と名乗ること、これは非常に大きな問題です。例えば上下関係が厳しい江戸時代に、平の武士が目上の武士に、位の低い大名が位の上の大名に、あるいは家臣が主人の前で自分を俺と呼べば、自分は相手より上であると言わんばかりの振舞いで、どんな咎めを受けるか知れません。ほとんど狂気の沙汰ですが、親の前で俺と言うのも、ほとんど同じです。
 
バブルの時代前までは、ほとんどの男子は僕という言葉を使っていたように思います。田舎で日頃は俺と呼んでいる人たちも、余所行きでは、僕や私、自分などという言葉を使い分けていました。親に電話して「俺」と言うのが普通で、違和感がなくなったのは、1980年代、あるいは1990年代でしょうか。
 
「バカヤロー」「そうじゃねえよ」「うるせえ」などという、一昔前なら荒くれ男の世界で使っていた言葉を、今はテレビのバラエティー番組で、男性ばかりでなく女性まで普通に使っています。私は、こうした傾向が切れやすい人、揉めごとの多い社会を生む一因になっていると思います。
 
例えば「○○でございます」、「○○です」、「○○だ」など幾つものレベルの言い方があるとして、同じ人でも最も丁寧な言葉を使っている時は、心に一瞬不満な感情が萌しても、少し心が波立つだけで怒りにまでなりません。普通の言葉を話している時、心に不満な感情が萌せば、その感覚は怒りになりますが、まだ弱いので噴出しません。「そうだよ」「そうじゃねえよ」などという言葉を使っている時心に不満な感情が萌せば、それ以上粗暴な言葉がないので、一瞬で噴出する怒りになります。乱暴な言葉を使うことの結果は、自分がどんどん下品で粗暴な人になり、暴言で満足できない感情は、暴力を生みます。
 
だから男性の多くが「僕」という言葉を使い、女性が「○○なの」「○○だわ」「○○かしら」などという言葉を使っていた時代より、人は切れやすくなり、「ストレス」と呼ばれる怒りが原因の事件も非常に多くなり、職務中でも切れてしまう人まで出現し始めました。
 
乱暴な言葉は祖語と言い、八正道の正語、あるいは十善などで戒められています。丁寧な言葉、正しい言葉は、安全な生活、安全な人生、つまり苦のない生き方の基本だからです。日常の丁寧な物言いは、自分の品位を傷つけないだけでなく、丁寧な言葉を使う度に怒り難い心にし、怒り難い習性にし、反対にぞんざいな物言いは、その度に怒りやすい心、切れやすい習性にすると知っていただきたいと思います。

貴乃花の破滅

昨年末の日馬富士の暴行事件をめぐる貴乃花親方の行動を、相撲界の不正を正す正義の行動で、角界の隠れている問題が明らかになる流れになるだろうと見ていましたが、理事長選挙や貴公俊の暴力問題など、親方を益々窮地に追い込む成り行きに変わり、結果として相撲協会から圧力があったのか無かったのかも明らかでないまま、貴乃花親方は年寄りを引退し、名門である部屋を消滅させました。
 
 今年の夏以降の親方は、理性で考えると言うより、推測や思い込みなどで自ら曲解して、決断をしたように見えました。私はこの頃になってようやく、これは親方が長年母親を拒絶していることのカンマの威力で、いろんな事件や出来事が連続して起き、親方の人生は次第に破滅に追い込まれているのではないかと思い至りました。
 
カンマが結果を出す場合は不可解な部分(縁)が多々あり、本人も訳が分からない成り行きになります。シリアで武装勢力に拘束されて最近解放されたフリージャーナリストが、案内人でない男に付いて行ったのは「私の判断ミス」と言っていましたが、重要な局面で正しい判断ができないのは、カンマの威力のように見えます。重要であると分かっているのに、その人の普通の注意力や理性が使えないのですから。
 
同じように普段の判断力が使えないことに男女の仲があり、恋は盲目と言うくらい正しい判断ができなくなること、あるいは信じられないほど早い決断をすることもありますが、これもカンマが急かせるからです。
 
ブッダは「恩知らずは破滅する」と教えられています。両親はすべての人にとって最高に恩のある人で、親殺しは阿羅漢を殺すのと同じ無間地獄に落ちます。だから「子にとって親は阿羅漢」です。命を与え、体を与え、食べること、歩くこと、話すこと、何でも人間らしく育ってきたのは、親が根気よくすべてを教えてくれたからです。
 
このような見方に同意しない方もいるかもしれませんが、ブッダの教えのすべてはブッダ個人の考えでなく、自然を観察して見えた自然の法則であり、「恩知らずは破滅する」というのも自然の法則の一つです。
 
疑問がある方は、特に親孝行な人、特に親不孝な人の例を探して、観察して見てください。芸能界には片親で育った人が多いですが、それは、子供のころから何かにつけて「親に楽をさせてやるため」「親に恩返しをするため」という意業を数えきれないほどたくさん作っているので、それらが十分貯まると善いカンマの結果として大成功します。
 
貴乃花が尊敬する双葉山は、幼い時に母を亡くし、一人親であった父が片目を失って仕事ができなくなったので、日常的に親を援け、そしてもっと親を援けたい思いを、長年胸に抱いて生活していたのでしょう。その意業の蓄積が偉業に繋がったと見ます。

反対の親不孝で破滅した人の例を探すのは簡単ではありません。介護していた父の死後、次第に衰退して亡くなった山口美江はその例かもしれません。彼女は後の講演で介護の日々を「地獄」と言っているので、たぶん介護される父にとっても地獄であり、静かな日常ではなかったと推測できます。

介護から解放された後、芸能界復帰もせず、その他の仕事をすることもなく、体調不良が続いた後、五十一歳という若さで孤独死しました。介護の日々で、親に対してたくさんの恩を忘れた言葉や考えという業がなければ、そのように経過する年齢ではありません。

もう一人伝染病で亡くなった野口英世ですが、伝染病による死も不道徳(特に恩知らず)なカンマの結果と言われています。伝記によると野口英世は若い頃から放蕩癖があり、支援者の恩を繰り返し裏切り、婚約者の持参金を使ってアメリカ留学の資本にし、五年後にその金を返済して婚約解消しています。このようなカンマの蓄積が伝染病による死という結果を招いたと私は見ます。
 
忍耐や努力で一度は成功を収めても、恩知らずなカンマが十分なだけあれば、成功は長続きせず破滅します。

だから何をするにも親孝行は基盤です。親を怨んだり悲しませたりする行為は、「恩知らずは破滅する」という教えがあるように、奇妙な成り行きによって破滅します。普通は親が亡くなった後、次第に衰退して死に至りますが、親方の場合親不孝の時間が長く、ここで一度結果を出す十分なカンマが蓄積されたのでしょう。


老いについて知る

四聖諦の苦は十一種類ありますが、基本的な苦として「生老病死」があります。生まれることが苦なのは、すべての苦は生まれたことによって生じるからです。死ねば苦は一旦終わりますが、カンマがある生き物はカンマの威力によって再び生まれてしまうので、生まれることは苦です。

 

病気をしたことがある人は誰でも「病は苦」と知っています。そして死は、親しい人、愛している人、財産、地位など、今あるすべての物を捨てなければならないので苦です。愛している人も、親しい人も、財産も地位も何もない人でも、何よりも愛している命を捨てなければならないので苦です。

 

しかし二番目の老だけは、老齢に達していない人は、どのように苦か良く理解できません。私自身も子供の頃、家に祖母がいたので老人を見ていましたが、勤勉で病知らずで、愚痴や嘆きを聞いたことがなかったので、自分が老人になるまで「老いは苦」と知りませんでした。

 

四十歳代の頃、前を自転車でのろのろ走っている老人がいると、スピードを上げて追い越し、その当時の感覚の言葉で「この爺さん、なんでノロノロ走っているの?」と考えたのを思い出します。つまりその老人がノロノロとしか走れないことを知らず、普通に走れるのに、急がないから、暇だからゆっくり走っていると考えて、イライラしました。

 

今私は戸外をほとんど歩けないので、歩くのと同じくらいの速度で自転車に乗っています。力を入れて漕ぐと息が苦しいからです。そうなって初めて、あの時の老人は、自転車を漕ぐ力がなかったかもしれないと気づきました。

 

老いると目がかすみ、耳が遠くなり、指先が思うように動かなくなり、物を落とし、壊すことが多くなり、食べるのに時間が掛かり、食べ物や飲み物をよく零し、食べられない物、食べにくい物が多くなり、脚運びが悪くなり、杖をつかなければならなくなり、物忘れをし、言い間違いをし、勘違いをし、そうした症状は脳や内臓の衰えが原因なので、同類の原因による不具合が数えきれないほどあります。

 

そしてまだ老いを知らない若い人(子または子の世代)は、そうした老いの症状を理解できないので、若い丈夫な時代よりもすべてにおいて衰えた年寄り(親または親の世代)を見下し、自分より知性が劣る者(小さな子供)を管理するような、指示するような物言いをします。年上の人に指図されるのは当たり前ですから慣れていますが、二十も三十も年下の人に上から目線で物を言われたらどう感じるか、想像して見てください。そして見下される理由は「老いている」だけです。

 

若い人は運勢が落ちると「最近思うようにならない」と言います。老いると毎日、一年中、思うようにならないことばかりになります。身体だけでなく、考えることも、することも、周りから受け取るもの、つまり環境も、すべてが望まないものが多くなります。そしてその理由は、大きな引越し前の整理、つまり死の前にいろんなカンマの結果を受け取らなければならないからです。

 

幼少期は過去世のカンマの残りを受け取るので、人によっては問題があり、成年期はカンマの借金がほとんどなくなり、多少無茶をしてもすぐに結果が出ないので、迷っていろんなバカなことを繰り返し、老人期は次の生に移る前に、成人期に積んだカンマの結果を受け取らなければなりません。だから老人には、病気、体の機能の衰え、いじめ、虐待、犯罪被害、事故など、自然の老化以上の様々な問題があります。

 

そして幼児期は、すべてを黙って受け入れて堪えなければならなかったように、老年期も、黙って受け入れて容れて堪えるしかありません。七転八倒して闘えるのは成人の時だけです。

 

死の恐怖は、すべての人が体験するすべての生き物にあるので、人間で死んだ後、海の生物(つまり地獄)に繰り返し生まれて来た人でも、むしろ繰り返し海の動物で生きた人ほど、死は死っています。

 

病と老いは家の中で飼う家畜や大型の野生動物などと人間しかありません。普通の動物は,病や老いが萌せば、捕食動物に喰われて死ぬからです。過去世で海の動物や小動物、あるいは肥育される動物しか体験したことがない人、つまりタンマで生きていない人は、老いを経験してないので、老いを知りません。

 

以上の理由で、ほとんどの人は老いを知らない、あるいは思い出せない、あるいは忘れています。だから若い時楽しく過ごせるのです。老いを知っている人、人生の最後には老いがあると理解している人は、出家前のブッダのように、若くても楽しく感じず、冬支度をする山村の人のように、するべきことだけをします。

 

若い時にするべきことを知らず、反対にしたいことをして来た人は、その人が今見ている老人より、たぶんもう少し厳しいな老後が待っているかもしれません。今の老人より、育った社会に基本的な道徳が少ないからです。

 

死の恐怖は知っていても、病と老の恐怖を知らないことは、人間を油断でいっぱいにします。病と老を知れば、若い時からもう少し慎ましく、大人しく生きる気持ちになるかもしれません。
 
大家族で、家の中に必ず老人がいた時代と違って、老いも学ばなければ知らない時代、老いなどこの世にない、自分の将来にないと勘違いする時代なので、既に老人の方はまだ老人でない人に老いの実体を教え、まだ若い方は老いを学ばれることをお勧めします。老いは、地獄の生き物にはない人間だけのものだからです。

 

佐藤愛子著「九十歳、何がめでたい」などは、老いを知るには良いかもしれません。