危機を脱すのは指導者ゆえ

今の日本や世界の状況を考える時、役に立つブッダの言葉が「ブッダヴァチャナの宝箱」にあるので紹介します。

 

指導者ゆえに破滅する

 

 比丘のみなさん。以前にあった話です。生まれつき魯鈍なマガタ(国)の牛飼いが、雨季の最後の月である季節であることを考慮せず、ガンガ(ガンジス川)のこちら岸を調べず、牛を渡らせる場所でない所で牛の群れを追い立てて向こう岸のヴィデーハラッダの北側に渡らせました。比丘のみなさん。その時牛の群れは(どの岸にも上がれなくて)ガンガの流れを泳いで旋回しているうちに、次々と死んでしまいました。

 それは何が原因でしょうか。マガタの牛飼いが生まれつき魯鈍な人で、雨季の終わりの月である季節を考慮せず、ガンガのこちら岸を調べず、牛を渡らせる場所でない所で牛の群れを追い立てて向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせたからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの世界のことに賢くなく、他の世界のことに賢くないサマナ・バラモンたちは誰でも、悪魔の住処である輪廻に賢くなく、悪魔の住処でない非輪廻に賢くない人で、これらのサマナ・バラモンの人たちの言葉を聞くべき、信じるべきと理解する人たちは誰でも苦になり、その人たちの利益になりません。

 

 

危機を脱すのは指導者ゆえ

 

 比丘のみなさん。前にあった話です。生まれつき知恵のあるマガタ国の牛飼いが、雨季の終わりの月であることを考慮してガンガ(ガンジス川)のこちら岸を調べ、牛を渡らせる場所で牛の群れを追い立てて向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせました。

 その牛飼いが、最初に群れのリーダーである雄牛の一群を追い立てて渡らせると、雄牛の群れはガンガの流れを泳いで横切って無事に向こう岸へ渡りました。二番目に力仕事に使う牛と、仕事を覚え始めた牛の群れを追い立てると、その群れもガンガの流れの向こう岸へ無事に泳ぎ着きました。

 三番目に若い雄牛と雌牛の群れを追い立てると、その群れも無事にガンガの流れを横切って泳いで向こう岸へ渡り、それから四番目に子牛と痩せた牛の群れを追い立てると、それも泳いでガンガの流れを横切り、無事に向こう岸へ渡れました。比丘のみなさん。以前にあった話です。

 その日に生まれたばかりの子牛も、母牛の声を追って泳ぎ、ガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ることができました。それはどうしてでしょうか。それはマガタの牛飼いが知識者で、雨季の終わる月であることを考慮し、ガンガのこちら岸を調査し、牛を渡らせる場所から牛の群れを追い立てて、向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせたからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの世界のことに賢く他の世界のことに賢く、悪魔の住処である輪廻に賢く悪魔の住処でない非輪廻に賢く、閻魔の住処である輪廻に賢く閻魔の住処でない非輪廻に賢いサマナやバラモンたちの言葉を、聞くべき信じるべきと理解する人たちは誰でも、幸福のためになり、それらの人々を支援する利益になります。

 比丘のみなさん。群れのリーダーである雄牛の群れ全部が、ガンガの流れを横切って泳いで無事に向こう岸へ渡ったように、漏がなくなり、梵行が終わり、するべき仕事は何もなくなって重荷を下ろすことができた阿羅漢である比丘たちは、

後から到達した自分自身の利益がある人で、有のサンニョージャナ(生き物を輪廻に結ぶ煩悩。十結)が終わり、すべてを正しく知って解脱した人、それらの比丘も悪魔の流れを横切って無事に涅槃の岸へ渡りました。

 比丘のみなさん。力仕事に使う牛たちと仕事を憶え始めた牛たちが泳いでガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ったように、比丘のみなさん。突然出現し、そしてその段階(浄居天)で般涅槃するアナーガミー(不還)である比丘は、初めの五つのサンニョージャナがなくなったので、その世界から戻ってくる必要はありません。それらの比丘も悪魔の流れを横切って無事に涅槃の岸へ渡ります(戻って来ません)。

 比丘のみなさん。若い雄牛と雌牛の群れもガンガの流れを泳いで横切って無事に向こう岸へ渡ったように、比丘のみなさん。サンニョージャナの三つがなくなり、そして貪・瞋・痴を薄くしたサカダーガミー(一来)である比丘は、この世界にもう一度だけ戻り、そして苦を終わらせる行動をし、それらの比丘たちも、悪魔の流れを横切って、無事に涅槃の岸に渡ります。

 比丘のみなさん。子牛と痩せ牛の群れもガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ泳いで渡ったように、比丘のみなさん。サンニョージャナの三つを終わらせたので当然落ちて普通になることはなく、将来悟ることが確実なソターパンナ(預流)である比丘たちも、悪魔の流れを横切って(将来)涅槃の岸へ直行します。

 比丘のみなさん。その日に生まれた子牛が母牛の声を追って泳いで、ガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ることができたように、比丘のみなさん。ダンマの道にそって走る人、信仰の道にそって走る(すべての行を熟慮することで預流向を目指す)人である比丘たち、それらの比丘たちも、悪魔の流れを横切って(将来)無事に涅槃の岸に渡ります。

http://buddhadasa.hahaue.com/takarabako/2-18.html

不邪淫戒の本当の意味

仏教の五戒に不邪淫戒という戒があります。不殺生、不偸盗、不妄語、不飲酒は、文字を見れば大体意味が分かります。しかし不邪淫は、多くの人が「不倫をしてはいけない」と理解していますが、文字の意味と、戒その物の意味は大分違います。

 

ブッダは不邪淫戒について『母が愛護し、父が愛護し、兄弟が愛護し、姉妹が愛護し、親戚が愛護し、ダンマが愛護する女性、夫がある女性、借金のかたの範囲にいる女性、婚約をしている女性に対して、それらの間違った振る舞いをしない』と言われています。だから親が許可した娘なら、あるいは人妻でも夫が許可すれば、そうした人と関係を持つことは禁じてないので「不倫をしてはいけない」という意味はありません。

 

男性に話しているので「それらの女性に対して」と言っていますが、男性にとっても同じで、要旨は「誰かが大切に愛護し、自分の物として愛して惜しむ気持ちがあるもの」何でも、それらの物を犯さないという意味です。

 

この意味を念頭に観察すると、三十年くらい住んでいた家の近所で、旦那が浮気をしたことがあるお宅は、どの家の主婦も綺麗好きで、いつでも家がきちんと片付いているタイプの人でした。家を片付けておくのが好きな人、散らかっているのが嫌いな性分の人は、思い切りよく捨てる術を心得ています。しかし時には、旦那や子供、舅や姑が大切にしている物(大抵は貨幣価値の少ない物)を、無断で捨ててしまうことがあると思われます。

 

実際にそれらのお宅の姑さんが「鍋を嫁に捨てられた」とか、「お櫃を捨てられた」と嘆くのを聞いたことがあります。そうした行為、つまり不邪淫戒に触れる行為(カンマ)が十分蓄積されると、その主婦が大事にしている物や人(旦那)が、他の人に取られるのだと思います。

 

前述の奥さんの一人は、愛用車に塗料で落書きをされ、引っかき傷を付けられたことがありました。今考えると、原因が良く見えます。その奥さんは「他人が大切にしている物を侵害した(捨てた)」ことが原因で、何者かに自分の愛車を傷つけられたのです。

 

我が家でも昔、私が宿根草を植えていた鉢を、草の部分が枯れたので、子どもが勝手に掘り返して、自分が植えたい物を植えてしまったことがあります。その子は子供の時に兄の雑誌の一部を切り取ったこともありました。それから何年もして、大人になってから、婚約者に恋人ができて別れました。こんな小さな仕業も、このように大きな結果を生じさせます。

 

浮気をしたことがある身近な人や有名人の例を観察すると、浮気をしたから浮気をし返されると言う例は滅多になく、夫だけが浮気をするケースが多いです。そして全部片付け好きな奥さんで、家が散らかっているお宅、あるいは普通に片付いているお宅は、旦那が浮気をしたという話は聞きません。大会社の社長などが好く浮気をするのは、そうした人の奥様は綺麗好きな人が多く、家がいつもきちんと片付いているからかも知れません。

 

「不邪淫戒は不倫をしないことだから、貞節な私には関係ない」と思わないで、世の奥様方、あるいは配偶者や恋人のある方は、他人が大切にしている物、特に金銭的価値がない、使い古した他人の愛用品などを捨てる際は、金銭的には無価値に見える品物でも、所有者にとってどれだけ価値があるか分からないので、勝手に処分しないよう、つまり他人の愛惜の思いを尊重するよう、くれぐれも注意が必要です

 

何も考えずに他人が大切にしている物を処分することが原因で、自分が人生で一番大切にしている恋人や配偶者を誰かに奪われる出来事が起こります。そしてそれらの出来事に遭遇した人は、何が本当の原因か知らないので、業の結果を出す縁である人(つまり夫)を恨み、再発を防ぐ方法を知らず、まだ原因を作り続けているかもしれません。

 

このように見ると、不邪淫戒は誰の生活の中にもいつでも犯す機会があり、正しく理解して注意しなければ、恐ろしい落とし穴を自分で掘ることになりかねないと分かります。

コロナウイルスとアパーヤムッカ(破滅の門)

コロナウイルスが最初に日本に入って来た時は、中国人旅行者、あるいは武漢へ帰省後に再来日した中国人、武漢からの帰国者等でしたが、一旦市中に潜在して広まったウイルスは、ナイトクラブやバー、ライブハウス、スポーツクラブなどでクラスターが発生し、急速に市中に広がり、次に欧州旅行から戻った人によって顕在しない感染が広がりました。

これらの業種を見ると、ブッダが「アパーヤムッカ=破滅の門、悪趣への門」と言われた物ばかりと見えます。破滅の門というのは、酒類の常習、夜遊び好き、観劇好き、賭博に耽る、悪友と交わる、仕事を嫌う」の六つです。酒類を飲むことは、心の正常な状態が失われるので五戒で禁じ、ライブハウスや観劇は八戒でも禁じられ、アパーヤムッガにも入っています。世界中が見守った大感染の現場になったクルーズ船は、酒と踊りと賭博と観劇(映画も)と、それらを好む人の全部が揃い、おまけに贅沢三昧まであります。

破滅の門は、財産を失う、信用を失う、健康を損ねるなどを理由としていますが、そして感染する時は家にいても、施設や病院で暮らしていても感染しますが、それでも感染者の多くが破滅の門に関わっているように見えます。

 

緊急事態宣言が出されると、破滅の門の類の店は休業自粛を求められ、まだ営業している店も市民が外出を控えているので、経営に苦慮している様子が毎日テレビで報道されています。今はどんな業種も大変だと思いますが、破滅の門の類の業種は一層厳しいようです。仏教徒が出入りすべきでない店の営業は、仏教徒がすべきでない職業、誤った職業になります。日本にはブッダの教えがなく、お釈迦様は飲酒も遊興も禁じていないようなので、無理もありませんが。

 

自粛生活を見ると、仏教のヴィヴェカ(遠離)生活と同じだと感じます。私はタイの仏教を知り、四禅を体験してから、ほとんどすべての世俗的な人間関係に関心がなくなり、友人と会うことも電話で話すのも億劫になり、当然繁華街を歩く機会もなく、二十年くらい翻訳三昧の引き籠り生活をしています。だから今の自粛要請にほとんど不自由を感じません。

人との接触を断てば、周囲の人はいないも同然で、首都圏に住んでいても森の中にいるのと変わりません。本当は森とまで行かず、あまり目を楽しませない岩山かも知れませんが、ブッダが勧めているヴィヴェカには違いありません。

 

そして外で酒を飲まない、観劇や音楽鑑賞、舞踏鑑賞もしない、ショッピングも外食もパーティーも、観光旅行も、遊びと言う遊びをせず、友人とのお喋りもしない今の自粛生活は、外部の人と隔絶した「遠離」に近いと思います。会って飲んだり食べたりしなければ、人と連絡を取る機会も減るでしょうし、他人との連絡や会話が減れば、その分だけ自分の心を見る時間と機会が増えます。

自粛生活の不満の声ばかりが聞こえてきますが、このような状況に喜びを見つけてしまい、「ずっとこのようでもいいかも」と思っている人はいらっしゃらないでしょうか。

 

「長者さん。あなた方(在家)は、衣と食べ物と住まいと治療薬と八物で比丘を支援するだけで満足するべきではありません。長者さん。『そのようなら、このような場合みなさんは、それなら私たちは然るべき時にパヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)に入ってその中にいよう』と心に留めるべきです。長者さん。あなた方はこのように心に留めるべきです」と、アナータピンディカ長者に話されたブッダバーシタがあります。

庶民のサマーディ

今のテレビを観ると、男性アナウンサーや俳優、政治家などは背筋を立てて、あまり体や顔を揺らしませんが、女性アナウンサー、記者、リポーター、ゲストである専門家、そして一般庶民のほとんどは、話す時に顔を前に突き出し気味で、鹿威しのように頸を振り、上体まで揺れる人もいます。それは自分の話すことを少しでも協調したい気持ちの現われと思いますが、それ以上に、話す人に基礎的なサマーディがないことを表しています。

 

身体が揺れない人は、裁判官、医師、伝統工芸の匠、伝統芸能をする人、書道や茶道、柔道、剣道など、道という字がつくものに関わっている人、アナウンサー、大会社の社長や各種の首長、各界の大物など、集中力や落ち着き必要とする職業の人や、人に上に立つ人は体が揺れない人が多いので、ほとんどは基礎的なサマーディがあります。

 

日常生活の中の平均的なサマーディの深さは、その人の挙措を見れば分かります。日常的サマーディの深い人は、立っても座っても体が揺れず、眠ってもほとんど寝返りをしないので、掛布団はほとんど乱れません。

 

英語教育や西洋文化の普及と共に、身振り手振りをする人が増えています。身振り手振りをする人を見ていると、話の内容には関係なく、喋り始めると自動的に手が決まった動きをするように見えます。自分の発言をアピールしたい自己主張の思いが強く、手振りが癖になっている人は、手を動かさずに話すことはできないように見えます。

 

安倍総理は扇風機のように首を左右に回転させて話しますが、それはオリンピック誘致のスピーチのために外国のスピーチのプロから指南を受けた手法と聞きましたが、好印象かどうかは疑問です。習慣になっている身振り手振りも首振りスピーチも、話す人のサマーディを妨害するだけでなく、聞き手の集中力も妨害され、利益は何もないように見えます。

 

最近、子供から老人までリズムの早いダンスを好む人が多いのも、一般庶民のサマーディの質を落としている原因だと思います。ブッダは、「歌うことは泣くこと、踊ることは狂った症状」と言われていますが、狂人はサティもサマーディありません。

 

日常的に音楽を聴き、ゲームをし、早口で喋り、集団でお喋りを楽しみ、飲酒し、マンガを読み、歌い踊り、絶えず他人と連絡を取り合うなどしていれば心が静まる時間がなく、心が静まらなければ身体も揺れ、手も首も揺れ、常にどこかが揺れていないと何か足りないように感じます。ブッダの時代でも、ブッダは「一般庶民は全員狂った人」と言われていますが、現代人は狂人以上、最重度の狂人、プッタタート師の言葉を借りれば、魑魅魍魎の類かも知れません。

 

体の揺れ、心の揺れは、サマーディをすることで生じられなくなるとブッダが言っていますが、身体が揺れない人を見ると、生まれつきか、あるいはその職業に従事することがサマーディの訓練になっていると推測します。その上心を揺らすような環境と縁がない暮らしをしているか、避ける努力をしているのではないかと思います。サマーディによる幸福を知っている人は、静まっている水が入っているビンも波の上に置けば、外の揺れに吸収して同化してしまうと知っているからです。

 

瞑想をしない人にはサマーディは関係ないと思う人もいるかも知れませんが、十分なサマーディがなければ、仕事や勉強をする時、持っている能力を十分発揮できないので、そして正しい判断ができないので、どんな仕事をするにもサマーディ(心の落ち着き)は必要不可欠です。そしてサマーディ(心の落ち着き)を重視する人は高い能力のある人のように見えます。

私の好きなブッダの言葉

子供の頃も学生時代も、そして大人になってからも(ブッダの仏教に出合うまで)、いろんな場面で誰かに文句や暴言を言われた時、すぐに言い返せない自分に対して、幾度となく歯がゆい思いを繰り返して来ました。後になって、ああいえば良かった、こう言い返せば良かった、次の機会にはこう言ってやろうと考えて眠れない夜もあり、そして再び同じような場面に出合うと、結局言われる一方で、反撃できない自分に失望しました。

プッタタート比丘の「ブッダダンマ」という本の「会話記録2」に、次のようなブッダの言葉があります。

 

『粗暴なことを言うヤクザな人は、

当然それを自分の勝利と見なす。

智者は忍耐を自分の勝利と見なす。

怒った人に怒り返すことは、初めに怒った人より悪い。

怒った人に怒り返さない人は、非常に困難な戦いに勝った人と呼ばれる。

そして双方、つまり自分の側と敵側、双方の利益になる行動をする人でもある。

相手が怒ってしまったと知った人は誰でも、双方、つまり自分と敵側の利益を守るためにサティで静まってしまいなさい。

その当事者である賢くない族だけが、この人は弱虫と考える』。

 

この言葉に出合った時、そうだったのかと深く納得しました。この言葉は、いつ読んでも心がスッキリし、時には「がんばりなさい」と言われているように感じます。言い返せなくて悔しいと感じたことが、非常に困難な闘いに勝ったという名誉であると知ったからです。そして「情けない」「不甲斐ない」と感じていた性質は、過去世でこの教えを実践していた結果かも知れないので、悔しがるべきではなかったと思いました。

これを読んでくださっている方の中にも、文句を言われて言い返せないで悔しい思いをしている人がいらっしゃったら、ブッダのこの言葉を喜び、今まで情けないと思った自分自身を誇りに思ってください。

怒っている人に怒りで返せば、双方の怒りが縄のようになり、波のようになり、多くの人の怒りを巻き込めば、大きな怒りの際限ない流れになるかもしれません。プッタタート師は、「怒りは死」と言われているので、怒りの流れを止めることは、自分に迫る死の流れを止めることです。

洪水も火事も、最初の段階で流れを止めることが肝心ですが、最初に言い返さないことは、船員が小さな穴を見落とさずに塞いで船の浸水を防ぐように、重要で賢い行動だと思います。

仏教の天使

近々掲載予定の「イダッパッチャヤター(因果。縁生)」という本を読んで、仏教にも「デーヴァドゥータ=天使」という言葉があることを知りました。ブッダの仏教には神がいないのに、天使とは何だろうと読み進めて行くと、天使は「老・病・死」でした。老人・病人・死人は、不注意でないよう注意を喚起してくれる天からの使いだそうです。 

支部にある経では、人が死ぬと閻魔に捕まえられて尋問され、閻魔が「天使を知っているか」と質問し、愚かな人が知らないと答えると、次に「老いぼれた老人を見たことがあるか」と聞き、あると答えると、「自分が老人になると考えたことはあるか」と質問します。 

同じように病気と死についても質問し、愚かな人は、同じように「病人も死人も見たことはありますが、自分が病人や死人になると考えたことはありません」と答える外ありません。それで誤った見解で死を迎えたと分かるので、閻魔に捕らえられて銅鍋に放り込まれ、斧で切り刻まれ、刃物で薄切りにされるそうです。

老いも病も死も、自分には関係ないことに思えた若い頃は、私自身も自分が死ぬことは考えられても、老いたり、病んだりすることは考えられませんでした。すべての動物は殺された(捕食された)記憶があるので、死の恐怖は本能と言うくらい強くあります。しかし病気は、数日病んで回復する風邪くらいの経験はあっても、重病になることは想像できず、最も想像できないのが自分の老いでした。

祖母や両親の老死は見ているのに、皮膚や身体に現われた老いだけを見て、それ以上のものとは考えたことも、想像したこともありませんでした。 

生き物は人間として一度生きて死んだら、聖人以外は再び人間に戻るまで他の動物に生まれなければならないので、地獄の動物になれば、何百回も死を繰り返します。だからすべての生物が死を知っているのに、天敵に殺される生き物(それが地獄の生き物)は老いと病をほとんど知りません。自分に老いが訪れる前に、少しでも健康に陰りが見えた途端に、若くても、一瞬でも油断をした途端に、天敵に襲われて死んでしまうので、人間以外の動物に生まれた時は、老いも病も知る機会がないからです。

久しぶりに人間に生まれると、老いや病があるので、天使が注意を喚起してくれますが、現代は、老人や病人は施設に行き、死人も家で死なないので、折角天が遣わしてくれた天使を見る機会がありません。

最近次々に起こる天災や疫病は、新しい時代の天使かもしれません。今回のコロナウィルスは、病と死を見せてくれるので天使かもしれません。病が見え、死が見え、致死率が高いのは老人だけということで、老いも見えます。天使を見たら、人は注意深くなり、誤った見解でないよう、悪いカンマを作らないよう、決意を新たにしなければなりません。

同じ本に「罪を作って地獄へ行く人と、徳を積んで地獄へ行く人、そして罪を作って天国へ行く人と、徳を積んで天国へ行く人がいる」とあります。徳を積めば天国へ行き、罪を成せば地獄へ行くと、普段聞いているのと違います。ブッダは、徳を積んでも、罪を作っても、死ぬ時に正しい見解があれば天国へ行き、徳を積んでも罪を作っても、死ぬ時に正し見解がなければ地獄へ行くと認めているそうです。

人生の一時期に徳を積んでも死ぬ時に正しい見解がなければ地獄へ行き、一時期に罪を成しても、その後正しい見解になり、死ぬ時も正しい見解があれば、その人は天国へ行くということです。

だから大切なことは、常に心に正しい見解があることだと思います。老いでも、病でも、死でも、天使を見たら、今自分には正しい見解があるか、振り返ると良いです。悪いこと、失敗の原因などを他人のせいにしていたら、その時心には邪見があります。物が無くなった時、他人が使った、持って行ったと考えれば、その時心にあるのは邪見で、自分が仕舞い忘れたと考えれば、その時心にあるのは正しい見解です。

心に正しい見解があれば地獄に生まれることはないというのは、まだ生まれなければならない人間にとって希望です。心に正しい見解があれば、もちろん生きる上でも最高に安全で、最高に発展するので、老病死を見る度に、今心に正しい見解があるか、サティで思い出してチェックする機会にしたいです。