愛子様の美しさの理由

成人になられた愛子様をテレビやネットで拝見して、実に美しくなられた姿に感動しました。建物のガラスに映り込んだ山茶花の清楚な影が、意図したように完璧な背景として、気品に溢れた愛子様の姿を引き立てていました。

 

どんなに美しくても女優さんにはない、そんじょそこらにはない高貴な香り高い美しさ。年配の方なら記憶にあると思いますが、ご成婚当時の美智子様を思い浮かべました。あの時も、世間の穢れを知らない清純な美しさに感動しました。

 

古い記憶を手繰り寄せると、私は過去に二度、同じように心を打たれる美しさを、直接見たことがあります。

 

一度はたぶん私が中学生の時、友達の家に遊びに行くと、友達の家の手前で、友達の家の隣家の娘さんが外出姿で出て来て、バス停の方へ歩いて行くのとすれ違いました。その人は高校生か、もう少し上だったかは定かではありませんが、大人ではなかったと思います。非常に美しく、この世の物とも思えないような清純で清浄な雰囲気に包まれていました。すれ違った一瞬のことなので、天女か仙女を見たのかと、目を疑うほど驚きました。

 

もう一度は、三十年くらい前、当時住んでいた同じ自治会内の家の娘さんをバスの中で見ました。その娘さんも非常に美しく、全身から溢れるように清純なオーラを放っていました。バスに座っていても、その周囲だけ輝いているように感じました。その年か翌年、その娘さんは、市が主催する「ミスコンテスト」で代表に選ばれました。市報に載ったその時の写真からは、普通の(目鼻立ちなどの形の)美しさで、輝くような香気は感じられませんでした。

 

どちらも近所での体験なので、日本中には、たくさんいると考えなければなりません。滅多にない稀なものなら、二度も近所で見ることは不自然だからです。しかしその話をしても、友人知人の誰も、そのように美しい人を見たと言う人がいないのは不思議です。近所で「あの家の娘さんはずば抜けて美しい」という噂を聞いたこともありませんでした。

 

それらに共通する美しさは、何より透き通ったような美しい白い肌をしていました。ブッダの言葉を読んでいると、美しい娘の形容では、必ず「美しい肌」という言葉が使われ、目鼻立ちに言及しているのは見たことがありません。間接的に(報道で)見た二例と、実際に見た二例のどれも、印象に残っているのは美しい眼でも唇でも鼻でもなく、美しい肌です。

 

だからインドやタイでは、美しいことを「ワンナ(ヴァルナ)がある」、つまり「美しい艶のある肌をしている」と言うのだと思います。美しい目鼻口元があっても、肌が皮膚病で汚かったら、美しいと感じません。反対に目鼻立ちは十人並みでも、肌が美しければ全体に美しい雰囲気があります。だから美しさは肌次第かもしれません。女性が手間暇掛け、お金を掛けて肌の手入れをするのは、美しさは肌次第と知っているからかもしれません。

 

ブッダは、心に自我がない時は肌が白く、透き通ったようになる、というような意味のことを、サーリプッタに話されています。だから阿羅漢でなくても、人は一時期だけでも、自我が非常に薄く、無我の時間が続いている時は、非常に肌が白くなり、天女のように透き通ると推測します。

 

愛子様の二十歳の感想を拝見すると、眞子様佳子様の感想と比べると、実に視点が高く、視野が広く、自分という考えが少ないのが分かります。述べられているのは天皇皇后、上皇上皇后への感謝と、周辺の人々から国民までへの感謝の言葉と、今後の自分自身の義務についてです。感謝は正しい見解から生じる物で、義務はダンマの意味そのものです。そのようなことを考えていれば、その時心にダンマしかなく、心に本当にダンマしかない時、あのように美しい肌になると観察します。

 

【全文】愛子さま成年皇族に 感想文書(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース   

お人柄が行間から溢れる「愛子さま」のお言葉 小室眞子さんと佳子さまの20歳の感想は?(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

 

若い日の美智子様も、先日の愛子様も、私が見た二人の娘さんも、その時、非常に自我が少なかったと推測します。どの例も二十歳前後であるのも、その年齢は、一部の人は大人の世界の汚れを知らない、人生で最も純粋な時代、自我が薄い時期であるからです。そしてそのように肌が輝くのは、普通は長い時間ではないので、私が見た二例のように、近くにいても、近所の人もあまり目撃していないのだと思います。

 

一人の女性でも、清純な美しさで言えば、最も美しいのは二十歳前後で、女性として魅力的な美しさになるは、30歳前後のように思います。その後、一時、脂ぎった汚い小母さんになっても、老いて欲がなくなると、再び自我が減って、清楚で美しくなる人もいます。良い目鼻立ちがあるのに美しさが輝かない人、磨いても磨いても思ったような結果が出ない時は、煩悩が自然にある智慧が現れるのを妨害するように、自我が、最高の美が現れるのを妨害しているのかもしれません。

 

多くの人が愛子様の映像に感動しているのを見ると、自我の少ないことは、多くの人を幸福な気持ちにさせると分かります。

 

最後に、自分自身が、あるいは自分の娘が、美しい肌になるようにするにはどうするか。それは自我を薄くすること。自我を薄くするにはどうしたら良いか。それは、したいことを考えず、するべきことを考え、したいことをせず、するべきことをすることです。そうすれば、考えている時間も自我や煩悩がなく、している時も自我や煩悩がないので、一日中するべきことを考えて、していれば、自我は非常に薄くなり、美しい肌になると思います。

 

職場にいる時は、誰でも、暇な時間ができても、何かするべきこと、できることを考えるように、家にいても、自室にいても、したいことより、その時するべきことを考えれば、自我はどんどん減って行きます。極言すれば、美しい人と普通の人の違いは、自我の厚さの違いと言えると思いました。

服の模様は心の模様

補色、あるいは反対色を四色使った、非常に煩い模様の服を着た人がいたので、よく見ると、早口で喧しいほど多弁な人でした。どこの国の皇室や王室の人たちも、お召し物はほとんどは無地で、(プリント)模様の服を見たことがありません。一般人でも、上層の人、ハイレベルの人は、概して無地の物を着用し、一般庶民でも(文化的に見て)中以下の人がプリント模様を好むように観察します。

 

趣味、好みと言ってしまえばそれまでですが、それらを選ぶのは心なので、当然心の在り様が反映されています。心にサマーディがあれば、プリント模様は煩わしく感じ、無地を選びますが、心に感情(心の概念。イメージ)があれば、そのイメージに合った模様を好ましく感じます。簡単な例えは、恋愛が始まったばかりなら、楽しいそうな、美しい花模様や、明るい色彩の模様を、楽しくないことを考えていれば、暗い色彩の模様を、というように。本当はもっと複雑な影響があると思います。

 

しかしサマーディがある心は、必ず無地を好み、無地を選ぶと思います。東洋では男性は女性より地味なのは、男子は宗教の教育があり、女性よりサマーディがあるからでしょう。西洋では、服装の派手さにおいて、男女の差はないように見えます。

江戸時代の町人は派手な柄物の着物を着ましたが、武士は一見無地に見える江戸小紋をという布を着ました。僧は普段は墨染の衣ですが、儀式の時は金襴緞子の装束を使います。

 

他の国の状況は良く知らないので、タイを例にすると、タイの女性は、日本人女性より派手な模様の服を着ています。Tシャツを着ている人が多いですが、ブラウスなどを着る人は、色彩も模様も派手な物を着ています。初めてタイへ行って、派手な服装の女性を見た時、自然の動物も派手な原色が多いので、人も派手な原色を好むのだろうと考えました。

しかし、仏教の真実で見ると、サマーディのない人、つまり「自我。私」の強い人は派手な模様を好み、派手な服装を好む人が、派手な色の動物に生まれると分かります。地味な服を好む人が多い地域では、自然の動物も地味な姿のはずです。

 

人の一生を見ても、心に煩悩が少ない子供時代は服装に興味はなく、異性の獲得を目指す時代、同性との競争を意識する時代は派手になり、社会的欲望がなくなると地味になります。昔の老人は本当に地味で、男性のようでした。幼いころ祖母に「おばあちゃんは、女なの?」と質問して笑われたことがあります。煩悩があればサマーディがないので、煩悩があるのと、サマーディがないのは同じです。

 

昔の老人は地味好みでしたが、今の老人が西洋文化を受け入れて、明るい色の美しい物を好むのは、老いても、サマーディがないことの現れと見ることができます。服装が派手か地味かという問題は、好みだけの浅い問題のように見えますが、よく見ると、着る人の心の状態を表しているようです。

多くの動物が解脱する時代

プッタタートサイトの「短文」の頁にある「涅槃は人生の目標」という話で、プッタタート師が占星学を認めているような発言があるのを見つけました。師は折に触れ、占星学も含めて「占いは根拠がない」と言われているので、占星学愛好者である私にとしては、師が、そのような類の占星学しかご存知なかったことを残念に思っていました。

 

しかし「涅槃は人生の目標」という文章を読むと、単純で低レベルの、庶民の星占い、素人の占いでなく、本当の占星学をご理解いただけたと感じ、嬉しく感じました。その一部を引用します。

 

『生物学の進化の法則、特にダーウィンの論理でも、あるいは仏教の系統である二十四縁と縁起でも、世界は物質面か心の面の、どちらかのレベルが少しずつ高くなっていると、どこででも簡単に観察して見えるように、じっと止まっている物、あるいは低くなる物はありません』。中略
『揃って物質を重視する時代には、現代の科学が目覚ましく進歩しているように物質の目標を達成し、そして心を重視する時代には、過去の阿羅漢の時代のように心の面の目的に到達します。世界は物質面に頑固でも、思い切り懲りれば、自然に心の面に振り向きます。そしてその時代です。地球がこの星座に入る度に、一定数のたくさんの動物が世界から解脱するのは』。

 

占星学では、すべての惑星は十二の星座を巡っているので、十二の周期で繰り返していると見ます。分かり易いのは太陽で、春分の日から牡羊座が始まり、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、秋分の日からは天秤座で、蠍座、射手座、山羊座水瓶座魚座と一年で一周します。つまり太陽の一周を一年と規定しています。

 

星座と、惑星にはそれぞれ意味があり、牡羊座は創始で、学校や役所の年度初めにふさわしく、獅子座は遊び好きなので夏祭りはこの時期に集中し、山羊座は伝統を重んじるので、正月やクリスマスなどの行事があります。

 

占星学では、太陽の軌道である黄道自体にも周期があり、およそ二万四千年かけて12星座を一巡しているそうです。西暦紀元からの二千年間は魚座にあり、魚座は信仰を表すので、この二千年は信仰の要素が強い宗教がたくさん生まれ、その時代を支配していました。(大乗やキリスト教イスラム教などは、魚座の時代に生まれました)。

 

その前(紀元前二千年まで)の二千年は牡羊座にあり、牡羊座は戦いと創始の意味があり、規律を尊重します。この時代の世界は戦いと、幾つもの王朝の生滅に満ちていました。法と律を重んじる仏教はこの時代に生まれました。

 

紀元前二千年よりもっと前は牡牛座で、牡牛座は美しい物、美味しい物が大好きなので、この時代と思われる美しい宝飾品が発見されています。

 

西暦二千年を越えた今は水瓶座に入ったばかりです。これからの二千年は、水瓶座や、守護星である天王星の意味を解釈することで、時代を読むことができます。一般には洪水や電波などの意味があり、どちらも、ここ二十年で、非常に増えていると見えます。

 

本論に戻ると、プッタタート師が言われている「この星座に入る」というのが、何を意味しているか知りませんが、それは、三年後に来る、冥王星水瓶座に入る時代ではないかと思います。冥王星の周期は約247年なので、二十年くらい一つの星座に滞在します。

 

冥王星山羊座にあります。山羊座は伝統という意味があるので、冥王星が入ると「伝統の破壊」と読めます。この二十年間は、世界中の王族、皇族に、前代未聞の「伝統の破壊」と見られる出来事が相次ぎました。大相撲の世界でも伝統が踏みにじられ、ジェンダーなどの言葉が注目されるのも「伝統の破壊」の一つの形です。

 

音楽や芸能、文化全般にも、伝統や基礎は姿を消し、そうした物を無視した物が主流になっているように見えます。食べ物も、伝統の味でなく、悪趣味とも言えるアレンジが幅を利かせています。

 

それでは冥王星水瓶座に移動すると、どんな時代が来るのか、冥王星は発見されて百年たっていないので、まだ良く知られていません。水瓶座は理想や目的、博愛、福祉などの意味があり、それらに破壊と再生が現れると読めます。洪水も意味するので、豪雨による災害は、ますます激化するかもしれません。

 

ところで、冥王星水瓶座に入ると、上昇宮蟹座の人のホロスコープの9室に、順次冥王星が移動するので、それらの人々が宗教に関心を持ち始めます。今(までの19年間くらい)は上昇宮双子座の人が宗教に関心を持っているので、興味が上辺だけで、写経や御朱印集め、パワースポットなど、非常に軽薄な興味でした。その前の20年(1984年から2003年くらい)は上昇宮牡牛座の人が宗教に関心を持ったので、体を使う瞑想が流行りました。

 

1964年から1984年くらいの間は、上昇宮牡羊座の人が宗教に関心があったので、新宗教の勃興、あるいは宗教の改革があったと推測できます。1944年から1964年くらいまでの間は、上昇宮魚座の人が宗教に関心があったので、信仰面が強調されたと思います。プッタタート師の若い頃の説教師は、信仰面の教えを説くだけだったと言うのは、古い伝統の他に、この影響も重なっていたかもしれません。

 

2024年からの20年間は、信仰でも、信仰の物質でも、瞑想でもない、教えの実践である仏教に関心を持つ人が現れると希望的観測をします。教えの実践に関心が集まれば、プッタタート師が言われているように、「一定数のたくさんの動物が世界から解脱」するかもしれません。(冥王星がそれぞれの星座に滞在する年号は、おおよそです)。

 

私は、その時代を見ることができるかどうか分かりませんが、その後は二百五十年後を待たなければならないので、できればこの生で、この目で、世界の変化を見たいと願っています。

「現世、来世」は世界ではない

プッタタート比丘のサイトを読んでいたら、「現世、来世」という言葉と、「後世」という言葉に、同じ「世」という文字を使っていて「おかしい」という考えが生じました。後世は後の世なので、意味として正しいですが、「現世、来世」は「この世界、未来の世界」という意味で、今生きている「この生」、次に生まれる「次の生」という意味ではありません。(ちなみに現世は「うつしよ」と読み、この世界のことです)。しかし今使われている「現世」の意味は、生きている間(今生)を意味し、「来世」は、次にどこかで生きる生を意味するので、文字と意味が一致しません。

 

元のパーリ語は「現在のジャーティ(現生)、次のジャーティ(来生)」と言い、「ジャーティ=生」という言葉を使っています。文字通り「現在の生、未来の生」です。パーリ語でもサンスクリット語でも、この「生」という言葉が、いつどこで「世」という文字になったのか知りませんが、何千年も前から使われているように見えます。

 

来生を次の世界と理解するので、ほとんどの人は、人が死んだ後に行く別の世界があり、死後はそこに生まれるとイメージします。前世は現世と違う世界で、来世も現世と違う世界で、宇宙には数えきれない世界があって、そこを巡っているように感じます。それは、事実でないので、聞いた人は信じる価値のない、バカらしい話と考えます。

前世も現世もこの地球で生き、来世も再びこの世界(地球)へ生まれ戻って来なければならず、ただ生物の種類と、生きる場所、生活する地球の一部分が同じとは限らないだけと知りません。

 

これは大した問題ではないように見えますが、世界の真実を知る上で、非常に大きな間違いがあります。

 

死んだ後「死後の世界」へ行くなら、極楽浄土や地獄の話になり、この世界で輪廻をする話ではありません。浄土思想の人たちが「現世、来世」という字を使い始めたのでしょうか。国語辞典には、「今生、来生」という言葉もあるので、初めは「生」という文字が使われていたということもあり得ます。

 

 日本語で「この世、あの世」と言えば、現世と来世を意味しますが、パーリ語、あるいはブッダの仏教では、この世はこの世界、有為である世界、無明の人の心の中に広がる世界のことを意味し、「あの世、あっちの世界、向こうの世界」と言えば、無為である涅槃を意味し、明の世界です。同じ「この世、あの世」でも、これほど意味するものが違います。

 

だから日本の仏教と違う教えを説明するには、ブッダが話された原語の意味を、できる限り正しく伝えなければなりません。似て非なる語句が至る所にある日本では、特に注意と配慮が必要不可欠と感じます。

 

テーラワーダの話を翻訳しながら、辞書にあるという理由だけで、ジャーティという言葉の訳として、よく考えもせず「世」という文字を使った自分自身のうかつさ、いい加減さに驚愕しました。そして「現世、来世」などの言葉が使われていると思われる講義の文字を、気づいただけ「世」から「生」に修正しました。

 

「ルーパ」を形でなく色と、「タターガタ」を如来と、「土」を「地」と、天国を極楽と、「お釈迦様」を「ブッダ」と変えたのは、小さな違いのようですが、ブッダが説かれた真実を理解することにおいて、決して小さな問題ではありません。言葉や文字が違えば、イメージするものが微妙に違い、真実を理解できないからです。

 

何年も前から、既存の仏教用語の間違いに気づいていながら、今もまだ、新しい仏教用語の間違いに気づいている自分自身に驚きました。しかし気づいたことを「遅い」と驚くより、気づいて修正する機会に巡り会えて良かったと喜ぶことにします。今は気づかない間違った訳語がまだあるなら、一つでも多く気づいて、正しくしたいと願っています。辞書にある言葉を尊重して使われる先生たちにはできない、荒業だからです。

 

新しい訳語を使うのは、好みの問題でなく、事実なので、多くの人々が新奇な訳語に慣れて、従来の訳語に対する我語取が薄れれば、あるいはパーリ語ブッダダンマを勉強する人が増えれば、遠くない将来、いずれ正しい訳語に替わると確信しています。

カンマより怖い随眠

随眠という言葉を聞いたことがあると思います。煩悩の一種で、普段は本性の中で眠っていて、時々起きて来て働くと言われています。プッタタート師は「怒りを倉庫に閉じ込める」という話の中で、次のように話しています。

 

『一度怒ると怒りの随眠、パティカーヌサヤという美しい名前の捨て難い物を作ります。一度怒ると、一度パティカーヌサヤが増え、しょっちゅう怒れば、怒る癖が増えるという意味です。その癖をアヌサヤ(随眠)と言い、漏れる用意ができます。アーサヴァ(漏)と言います。一度怒ればそれで終わりと理解しないでください。それは非常に愚かです。怒る度に怒りの随眠が増え、怒る癖はどんどん濃くなるので、益々怒りっぽくなります。

 だから怒らないように注意すれば、煩悩に餌をやらないで餓死させるのと同じなので、それが一番良いです。よく怒れば、あるいは毎日毎日、しょっちゅう理由もなく簡単に怒るのを放置していれば、抜き取れないほど厚くなり、抜き取るのが難しくなるので、「怒りは怒る習性を作り、自分に困難をもたらす」と、怒りを恐れます。

 この機会に話してしまうと、愛や何やらの話も同じで、一度すると、ラーガーヌサヤ(貪随眠)という随眠が増え、あるいは一度愚かになると、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)と呼ぶ愚かさの随眠が増えます。だからアヌサヤ(随眠)と呼ぶ物は自分を困難にする物で、自分は怒りたくなくても、それが電光のように怒ってしまい、自分は愛したくなくても、それが電光のように愛してしまいます。これは随眠と呼ぶ物のせいです』。

 

私は前々から、人は若い時には怒りっぽかった人でも、歳を取るにつれて丸くなる人と、歳を取る毎に酷くなる人がいるのを観察して、なぜこのように二種類に分かれるのか不思議に思っていました。上記の文章を読んで、「それは随眠を増やした人と、増やさない努力をした人の違いではないか」と思うに至りました。

 

怒りっぽい習性をそのままにして、日ごろ怒り散らしていれば、その度に随眠が増えて大きくなり、ある時、自分では怒りたくなくても、随眠が突然漏れて怒ってしまう、自分で支配できない巨大な物に成長してしまいます。そうなると、怒る理由は必要なくなり、何かちょっと切掛けがあれば、それだけで怒りの随眠が怒らせます。それが、年寄りの怒り性だと思います。

 

貪随眠も同じで、欲しい、欲しい、あるいは自分の財産や所有物を失いたくないと、ケチな考えをする度、行動をする度に貪随眠が増え、何十年もすると抜き取れないほど随眠が増え、年を取ったころにはコントロール不能の段階まで随眠が成長し、盗みたくなくても、一瞬で万引きをしてしまうのではないでしょうか。高齢者で、生活に不自由していないのに、少額の万引きをする老人がいると報道で聞きますが、それは増えすぎた随眠のせいではないかと思います。

 

生活に不自由していないのに万引きをすると、孤独や寂しさが原因と言う専門家がいますが、それなら、もっと良い他人との関り方はたくさんあり、敢えて犯罪を選ばないと思います。

 

有名な元女子マラソン選手で、病的な万引きで何度も警察に捕まり、何度止めようと決意しても、更生期間中に万引きをしてしまう人の生活を、テレビで見たことがあります。野菜の皮など、普通は捨てる部分も捨てずに利用するような地道な生活でした。「そのような人がなぜ」と、その時は解せませんでしたが、随眠の話を読んで、納得がいきました。

 

彼女は物を大切にする倹約家ですが、正しい見解の倹約でなく、誤った見解の倹約、つまり「ケチ」によるものなので、倹約をする度に「自分の財産を減らしたくない」「自分の所有物がもったいない」という貪随眠を増やし、コントロール不能の規模まで大きくなってしまったのではないかと思いました。

 

嘘をつくのが習性になっている人、詭弁を弄すのが習性になっている人は、繰り返す度に随眠が増え、随眠が一定の水準に達すと、本人は嘘を言いたくなくても、詭弁を言いたくなくても、自然に口から出てしまう状態になっているのではないかと見えるような人(政治家など)が時々います。

 

カンマは必ず結果があり、意図に比例して何百倍、何万倍にもなる所が恐ろしいです。しかし日常生活の行動のほとんどは、気づかずに繰り返している習性で行い、考えて決意してする行動も、熟慮してする行動も、結局は習性で考えて決意するので、ほとんどすべての行動、ほとんどすべてのカンマは随眠と関わっていると見えます。

 

そして繰り返すことで増やされた随眠は、ある日突然、コントロール不能になる点で、カンマより恐ろしいと感じます。人は「無くて七癖」と言います。自分の習性が恐ろしい随眠モンスターを育てないよう、サティで心を管理する習性をつけるよう、心したいと思います。

コロナの波

 

四月二十日過ぎから胃が重く感じられ、痰や溜飲や、他にも嫌な症状が出てきて、一向に良くなりません。家族も最近は食欲がないと言うので、つまり私一人でないので、縁は何かと現在の天体を見たら、四月二十三日から火星が蟹座に入っていました。胃を表す蟹座に火星が入ったので、胃が悪く感じられたのでしょう。

 

火星はケガや病気、事故やトラブルなどを表す星なので、個人のホロスコープで火星が蟹座に入ると、原因を作っている人は、病気や事故に遭う機会になります。だから今、コロナの波が高いのかも知れないと思い、今までの火星の動きを調べて見ました。(現在の蟹座だけ天体運行表を見て、他の星座は日数で計算したので、一日くらいの差はあるかもしれません)。

 

2020年

1/29~3/19   天秤座     

3/20~5/    8   蠍座       ◎ 第一波

5/9 ~6/27      射手座     

6/28~8/16   山羊座         ▽

8/17~10/03  水瓶座      △  第二波

10/04~11/22   魚座

11/23~1/11   牡羊座             ◎ 第三波

2021年

1/12~3/3       牡牛座     

3/4~4/22       双子座             第四波

4/23~6/11   蟹座        

 

火星の運行はこのようで、人間も、ある家へ行くと元気に行動でき、別の家に行くと委縮して活動できないなどの相性があるように、星にも星座との相性があり、火星は、牡羊座蠍座は自宅にいるように力を発揮し、天秤座や牡牛座にある時は欠点が出て、力を発揮できません。相性が良く、火星が力を発揮できる星座には◎を、委縮する星座には▽をつけて見ました。蟹座は緊張や混乱です。

 

すると火星が威力を増す◎の時期と、コロナの波が一致していると見えます。今年の三月初めから四月下旬までは◎でないのに第四波が生じたのは、双子座は、人体では肺の位置にあるので、火星が双子座に入って肺炎が増えた(重症が多くなった)からと見ることができます。

 

そして対策が適切でない国は、火星が弱まる時期になっても、ほとんど減っていないので、物理的な面が大きいように見えます。

 

今後を見ると、

6/12~8/31     獅子座

9/18~10/19    乙女座   

10/20~12/8    天秤座   

12/9~1/27     蠍座     ◎

2022年

1/28~3/18     射手座   

3/19~5/7      山羊座         ▽

5/8~6/26      水瓶座    △

 

このようになっています。

コロナは多くの物理的原因と、個人のカンマと、社会の対策、といろんな要因が絡んでいるので、一面だけで見ることはできません。占星学でも火星だけでなく、他の星の影響も見なければなりませんが、火星だけを見ると、六月以降は多少落ち着き、今年の暮れに、もう一度高い波があるかもしれないと見えます。

 

 

これは、「星がこのようだから、こうなります」という予言ではありません。予言と見て信じれば、中世の人のような暗さに陥ります。「人は普通では常見です」とプッタタート師が言われているように、人は何かが悪くなると「この先ずっと悪くなる」と考えて悲観し、ちょっと良くなると「今後は良くなるだけ」と楽観します。「この世界のすべての物は無常です」と言っても、すぐに忘れてしまいますが、星はこのように、常に運行していると知ると、ずっと悪くなるとか、ずっと良くなると思わないで済みます。

 

どんなに常見に陥りやすい人でも、昼と夜が繰り返していることは忘れないし、四季が繰り返していることも知っているので、星も常に回っていて、いろんな季節を作り出していると知ることには意味があります。

 

星は原因ではなく、結果をもたらす縁を見る計測器のようなものです。冬が来たから寒くなり氷が張るように、この星がここに来たら、そういう意味の結果が出るにふさわしい、そこへ行ったらまた別の結果が出るにふさわしいと、常に変化していること知るには、とても良い道具です。

恩返しと恩送り

先日テレビを見ていたら、「いろんな人から恩を受けて来たので、恩返しでなく、これからは若い人たちに恩送りをしたいと思っています」と話している人(一般人)がいました。これは若い日の自分と同じ考えで、苦々しく感じました。

 

私自身も若い頃、多くの人の恩を受けて今の自分があるので、恩を受けた人に「恩返しをしたい」気持ちはありました。しかし、まだ若かった私は生活に精いっぱいで、恩のある人たちはお金持ちで、遠い故郷にいる人ばかりなので、詰まらない物品を贈ったところで失笑を買うだけと考え、それなら自分より後から来る人たちを援助しようと考えました。

 

恩を受けた人に恩を返せば、二人の間で完結してしまうけれど、恩を受けた人が、バケツリレーのように次々に人を助ければ、支援は永遠に続くので、大きな支援の輪になり、恩返しより社会にとって良いと考えていました。そして誰かを支援する時は、恩ある人の恩を思いました。

 

しかしブッダの仏教を学んで、その考えは完璧に誤っていたと知りました。自然の法則では、受けた恩は借りなのです。

 

お金持ちからお金を借りて、そのお金持ちは返してほしくて貸したのでなく、与えると決めて与えたのでも、自然の真実では精神面の借りができ、返さなければ、踏み倒しになります。他人の恩を踏み倒しておいて、他の人に貸し、「あなたへの恩を、こちらへ回させていただきます」と最初の恩人を思うなど、盗人猛々しい厚顔無恥な人間です。

 

私は「受けた恩は借り」と知らなかったので、自分の頭で考えて、そのような間違った考えをしていました。現世で、助けてくれる温情のある人に多数出会ったのは、たぶん過去世でも、小さな人助けしていたのだと思います。しかし、恩ある人に恩返しをして来なかったので、現世ではあまり発展しませんでした。

 

今では、恩を知ることは、非常に大切なこと分かります。ブッダが「恩知らずは破滅する」と言われているからです。恩は一種の借金、借金以上の借金で、踏み倒せば、世俗的にも、タンマの面でも、発展は期待できないと見えるからです。

 

団塊世代の私が子供の頃は、親も先生方も「忠孝」の考え方に自信を失っていたので、「孝・恩・忠」を口にする人はなく、教えられたことも、考えたこともありませんでした。大人たちは、そういった話題を避けているようにも見えました。生まれた時代を考えれば仕方なかったとは言え、老人になってから知ったのは、非常に不幸なことと思います。それは今でも変わりありませんが。

 

ブッダの教えを学んだ今なら、自分より偉大な人、世の成功者である恩人に恩を返すことは、無理して大きな金額の品物を贈って返すのではなく、近くへ行った時は、その度に敬意を表す品物(手土産)を持って顔を出し、いつでも恩に感じていると、言動で表すべきだったと分かります。

 

私は「尊敬も恩も、日頃心で思っていれば通じる」と、勝手に思い込んでいました。しかしブッダは「尊敬する人には敬意を表しなさい」と言われています。ということは、思っていても通じないということでしょう。

 

だからアジアには表敬という礼儀があり、友達の家へ行ったら、着いた時と、辞去する時、両親や祖父母に挨拶しなければなりません。有名人などは今でも、地方へ行くと、知事や市長などを表敬訪問します。子や孫にそのような昔式の礼儀を教えることは、子や孫の努力を実らせる肥料や日光になります。勉強だけさせて、勉強だけできる子になっても、恩を知らず、恩の返し方を知らなければ、親や、その子が望むような幸福な人にはなれません。

 

恩送り、つまり他人を支援することは良いことですが、恩返しの代わりにはなりません。恩は借なので、返せる状態になったら先に借りを返し、それから他人の支援をするべきです。いくら他人に貸しても、貸主に返さなければ、借金は消えないからです。

 

そして、恩を受けた金銭的価値だけを返しても、例えば百万円支援してもらって、後で百万円返しても、そこには恩が残ります。恩の部分は、繰り返し尊敬と感謝を、体と言葉と心で表す以外に、返しようがありません。