善男善女

昔の仏教徒は、仏教を信仰する家に生まれて、物心が付いた時からタンマ(仏法)の教えの中で育ちました。だからタンマが心に沁みついて、おおむね教えに従った生活信条で生きていました。そういう人を仏教徒と言いいました。

現代の仏教に興味のある多くの人は、葬式仏教の家に生まれ、教えを知らずに育ち、若者や大人になってから世俗の知識の一つとして興味を覚え、世間に溢れている、つまりブームになっている知識を学び、瞑想などをします。そして「宗教は嫌いだが仏教は好き」とか、「仏教は宗教ではない」などと言います。つまり、教えを実践する気持ちがありません。あるいは人間らしく生きるために実践するもの(つまり宗教)と知りません。

ブッダの仏教は、ブッダと契約したり、宣言して仏教徒になるのではありません。仏壇(先祖の位牌を納める厨子であって、本当は仏壇ではないが)のある家に生まれれば仏教徒ではありません。ブッダの教えに則った行動をする人を仏教徒と見なします。

ブッダの教えに則った」というのは、三毒(貪・瞋・痴)を発生させないようにし、「やたらに殺生をしない」「決して盗まない」「努めて嘘を言わない」「絶対に他人が愛好するものを侵犯しない」「滅多に酒類を飲まない」など、他人を苦しめ、その結果自分を苦に追いやらない正しい生活、身勝手や自分の楽しみに陶酔しない、地味で慎ましい生活をすることです。

形式でない五戒、つまり満足して五戒を基本にし、三毒を生じさせない生活をする人を、仏教では善男善女、あるいは清信士、清信女と呼び、意味は仏教徒と同じです。それから外れる生き方をしている人は、すべて悪男悪女です。現代の仏教に関心のある人には、仏教の教え(八正道)に基づいた正しい生活をしようとする人はほとんどいないので、行動の正しさから(戒)生じるサマーディ(心の安定。三昧)がありません。サマーディがないから、いつも不安があり、ストレス(つまり不満)があります。

多数の悪男悪女が作った意業の集合の結果が、大規模災害の頻発、普通になってしまった異常気象、雇用の問題、ひどくなる一方の疾病と体の障害、メンタルな問題、痴呆や介護の問題、市場の混迷など、世界の人が遭遇しているすべての問題です。

社会のほとんどの人が善男善女であった時代、つまり貪・瞋・痴が少なかった時代や地域は、何百年に一度、あるいは何十年に一度しか災害や異常気象が生じず、誰にも仕事があり、個人の心身の問題は単純なもので、景気の変動もそれほど大きくありませんでした。

難しい修行をしなくても、ただ人々が善男善女になるだけで、つまり贅沢な食(貪)と物質への陶酔(貪)、あらゆるものへの怒り、つまりストレスという感覚(瞋)と、性への耽溺(痴)を止めるだけで、苦は激減し、社会は静かになるのに、そうした面に関心を寄せる人はいません。

現代人は、「善男善女でなければ悪男悪女である」という真実を見落としています。だから自分が悪人であることも知らず、誰でもする当たり前のこととして五戒を犯します。つまり殺生(殺虫剤の乱用)や盗み(会社に売り渡した時間を私的に使うことや、コピペによる盗用、著作権侵害など、無意識で行なう不正)や、他人が大切にしている物を犯すことや、嘘言や飲酒を日常的に繰り返しています。

そしてブッダが「悪趣の入り口」と言った「女(異性・同性)に溺れること」「酒(や薬物)に溺れること」「ギャンブル(投資も含める)に溺れること」「悪友(正しい見解でない人)と付き合うこと」を、たくさんの「普通の人」がしているから、先ほどあげた現代社会の状態、つまり悪趣である地獄(怒りやストレス。抗議や訴訟)・餓鬼(贅沢や貪り)・修羅(恐怖、不安)・畜生(欲情への耽溺)の状態に陥り、その集合的な報いである危機に、頻繁に直面しています。

人は、自分の身勝手や我がままに気付き、道徳によって生きる善男善女になって、初めて「人間」と呼ぶことができます。それ以外は、「衆生」と呼ばれるただの「生き物」でしかありません。パーリ語で人間という意味の「マヌッサヤ」は、「高い心を持った生き物」という意味だそうだ。

人間としての基本的な正しさは、世俗的な幸福と宗教的(人間的)な発展のすべての基礎です。「戒」などという形式で掴む必要はありませんが、先ほど述べた「ブッダの教えに沿った」生活を信条にして(つまり正しい見解で)、善男善女にふさわしいの生活をすれば、同じブッダの教えを学んでも、今まで見えなかった部分が見えてくるはずです。

悪以外に心の目を曇らせるものはなく、善(悪がないこと。布施など物質的なものではない)以外に心の目の曇りを拭えるものもありません。
悪以外に心を乱すものはなく、善以外に心を鎮めるものもありません。
社会を乱すもの、静めるものもまた同じです。