興味のないこと

たとえば家族で旅行に行って、駅からホテルまで繁華街の道を歩いたとします。ホテルに着いて今歩いてきた通りについて話すと、それぞれが見ていたものが違うことが分かります。

若い人は、コンビニやゲームセンターやファッション小物店や模型店などの店を憶えていますが、親や祖父母世代はそんな店があったことも気づいていません。しかし祖父母たちは、呉服屋や和菓子屋や紙屋、陶器屋などがあったのを見ています。

また、家族の誰も見ていない、剥製の店や猟銃店があったことを、猟に興味がある父親だけは気づいています。母親はスーパーマーケットや美容室や洋品店を見ていますが、子供や年寄りが見ているような店はまるで記憶にありません。つまり同じ道を歩いても、興味の方向によって見ている物、気づく物が違います。

昔、町へ出かける兄に、母が4丁目の小間物屋での買い物を頼んだら、兄は3丁目から6丁目まで往復したがそんな店はなかったと言って、用を足せずに帰ってきたことがありました。良く知っている地域でも、注意して探しても、興味のないものはまったく目に入らないと言うことです。もしかしたら、小間物屋というイメージが具体的に分かっていなかったから、その前を二度歩いても気がつかなかったのかもしれません。
 
これはテレビを観たり、本を読むときにも同じことが言えます。同じものを観たり、読んだりしても、人によって注意して見ていることが違います。大人と子供でも、男と女でも、若者と年寄りでも、みんな注目しているところが違います。だからどんなに良い本を読んでも、自分の興味の範囲外のことは頭に入りにくいということ、気づきにくいということです。

人は通常、現在の知識に応じた興味があり、それ以下のもの、それを超えるものには関心がありません。つまり小学生は幼稚園の本や中学、高校の本には興味がありません。しかし小学生向けの本に満足していない小学生は、中学校や高校の本を興味深く読むかもしれません。

だから知的な意味で現状に満足していれば、言い換えれば、今ある自分の知識に執着していれば、読書をしても、話を聞いても、新たに得るものはあまりないかもしれません。

俗人であったサーリープッタがアッサジから、「どんなものにも、それを生じさせる原因がある。教祖はすべてのものの原因について言います。そして原因が消滅したことについても言います。偉大な出家はそのようにおっしゃいます」とだけ聞いて理解し、それこそが死を超越するタンマだと悟ったのは、それまでの知識に満足せず、真理を希求していたからです。つまりサーリープッタの心には、真理が入る場所が用意されて、その時を待っていたのです。

現在の知識や智恵に満足していれば、心には新たな知識が入る場所がありません。しかしこれは、新しい知識を切望していれば、かならず新しい知識が入るという意味ではありません。知性が今の知識に満足せず、より高い、より深い知識を求めるなら、求める知識に出会えば取り入れることができます。

しかし貪欲ゆえに満足せず、煩悩が無節操にただ新しいだけの知識を漁り求めているなら、たとえ、より高いより深い知識や真理を聞いたり読んだりしても、その真価に気づくことなく、ただ耳や頭を通過するでしょう。なぜなら新しい知識を求めているのは煩悩であり、知性ではないから。知性は今ある知識のレベルに満足し、より高いものなど求めていないからです。

だからたくさんの人がブッダの話を聞いても、良い師の薫陶を受けても、伝統工芸や建築などの技術と違って、タンマは師から弟子へそのまま伝授されないのでしょう。

もし、正真正銘ブッダの教えやその説明を読んで、少しも心に響かないならら、自分の興味がそのレベルに達していないのかもしれません。

今あるタンマの知識や智慧が滅苦という観点で最高でないなら、知性でより高い知識を求め、心に新しい知識の居場所を用意することです。いまある知識のどこがどう物足りないのか熟慮することです。熟慮を繰り返すことで、真理を要求する心が高まります。

そうすればより高い知識に触れたとき、既存の知識への執着が新たな知識の侵入を妨害することなく、知性によって歓迎される。そして知識や智慧を、段階的に高めていくことができます。