英語を話すことの害

昔外国語と言えば、西洋ならラテン語、東アジアの国々では中国語、南アジアではパーリ語でした。つまり、外国語は宗教を学ぶためのものでした。交易をする商人も当然外国語を使ったでしょうが、商人は学ぶというより倣い憶えるだけで、学問的な勉強ではありませんでした。

近代になって工業や医学が進歩すると、世界の国々は、ドイツ語や英語を学ぶようになり、語学を学ぶ目的が、精神的なものから物質的なものに変わりました。そして戦後は、アメリカの国力の増大に比例して、英米語を学ぶ人が増え、中東や東アフリカを除く世界のほとんどの国の「第一外国語」になりました。

英米語を学ぶことの利益は、アメリカ・カナダ・オーストラリア以外にも、英国連邦の人や、その他英米語を学んだ多くの人と直接会話ができるので、取引に便利で有利なことです。しかし英語を学ぶこと、英語を話すことの害について考える人は誰一人いません。

私は世界の言語を幾つも知りませんが、英語は世界一「自我の強い言語」のように見えます。文章には主語が不可欠であり、「私」は何より特別で、文中のどこにあっても大文字を使います。主語以外にも、「私の」「私に」という言葉を、執拗に使用します。これほど「私」にこだわり、「私」を主張する言語が他にあるでしょうか。


日本語で「昨日会社に行った」と言えば、特に断らない限り主語は自分に決まっているので、わざわざ「私は」とは言いません。特に断らなければ、普通行くのは自分の会社に決まっているので、「私の会社」とは言いません。

言葉で「私」「私の」「私に」と言うとき、心が「私」があると感じるので、一日にこの言葉を使う回数だけ、自我が意識されます。話したり書いたりする時以外にも、考えるにも言葉や文章を使って考えるので、一日で何百回も「私」という感覚を心に叩きこんでいます。まるで「自我」を心に植え付けているようなものです。そのうちに「私」という感覚が強くなって心と体を支配し、本来の心(自然のままの心)を覆い隠します。

こういう言語を日常的に使っていると、非常に自我が強くなるので、トラブルに遭遇したとき、「自分から最初に詫びてはいけない」と言われる文化になります。初めに詫びないで、自分で決定的な誤りを認めらたら、その時詫びればいいと言います。日本やアジアでこのようにしたら、非常に常識のない人と思われ、第一印象で損をし、話し合いは拗れるばかりです。話し合いと言うより、闘争に近い形で進行し、決着するでしょう。

東洋の多くの国では、先ず「申し訳ない」と詫びて、それから言い分があれば後で言いいます。初めに詫びる方が、礼儀正しい話の分かる人だという印象になり、その後の話し合いが上手く行きます。闘争ではなく、理解し合う方向で解決します。

東洋人も英米語を学べば自己主張することを知り、相手より有利になる技法を憶えるし、他人の前で脚を組むのも平気になります。反対に日本語を学んだ西洋人は、日本語を使う時は「よろしくお願いします」、「済みません」などとと言う習慣も学びます。

これらをただ「文化の違い」と言ってしまえばそれまでですが、その「文化の違い」は、道徳のレベルの違い、心のレベルの違いです。どちらの文化が高いか、どちらの文化が礼儀正しく上品(つまりタンマがある)かは、社会の安定、犯罪や病気や事故の質と規模と深刻さなどを比較して見れば、明らかです。


言葉はただ意志を疎通させる道具だけではありません。言葉と文化は切り離せない、つまり文化を作る一人一の心や意識を支配します。例えば文化的に日本人と呼べるのは、日本文化の中で、日本語を使って生活していれば、血筋は何でも日本人とみなすことができ、反対に、外国文化の中で外国語を使って生活していれば、日本人らしさは、減少していきます。だから外国語を使うことは、その言葉を使う人たちの思考の仕方や、その言葉が持っている文化に染まることです。

精神が陰で、物質は陽である陰陽の原理で世界を陰陽に分けると、東洋は陰、西洋を陽と見ることができます。さらに陰中に陽あり、陽中に陰ありという原則で見ると、陰中の陽は中国であり、陽中の陰はイタリアではないでしょうか。中国はアジアの国でありながら、不老長寿思想など、物質文化の国です。

中国は、一般には英国やスペインのような帝国主義だった国と見なされていませんが、時代によっていずれかの民族が、周辺の民族を支配してできた、帝国主義の結果の多民族国家ではないでしょうか。中国語も英語と同じで、主語の「私」がなければ成立しないし、他人に対して、先に自分の非を認めてはいけないと言われ、文化全体に「中華思想」と呼ばれる傲慢、強烈な自我があります。

現在世界で学ばれている言語は、英米語が最も多く、その次が中国語です。すべての外国語を学ぶ人の目的が「個人の物質的利益」である上に、更に物質的欲望を強くする言語を学ぶから、世界の物質主義はますます著しくなります。

仏教のタンマを学んで、心の苦を絶滅させたいと望む人、あるいは穏やかで安定した生涯を送りたいと望む人は、使う度に自我を強くする言語を使うのは必要最低限にし、英語や中国語使わずに済む生活環境にすることをお勧めします。