三相の苦=ドゥッカター

四聖諦の苦と三相の苦は違うのですかという質問があったので、「耐えがたい状態」である苦、煩悩が原因である苦、つまり四聖諦の苦と、三相の苦の違いについて説明します。

三相とは、「万物の無常・苦・無我である状態」であることはご存じだと思います。パーリ語を調べて見たら、堪え難い状態という意味である四聖諦の苦は「ドゥッカ」ですが、三相の苦は「ドゥッカター」で、「ター」がついています

ヴィパッサナーをする時には必ずこの、「無常・苦・無我」の形で見なければならないので、これを理解することは、ブッダのタンマを実践するためには不可欠です。ヴィパッサナーとは「真実を見ること」と説明されていますが、現象である事実を見ることではなく、普遍的真実を見ることです。しかし真実を見ると言っても漠然とし過ぎて、何をどう見るのか分りません。ターン・プッタタートは、「何らかのものを無常・苦・無我で見ること」と言っています。

無常・苦・無我について「人間マニュアル」では、次のように説明されています。
『無常とは不確実なこと、すべてのものは常に変化している状態であり、変わらないものは何もないという意味です。苦とは、すべてのものは苦の状態であり、明らかな見解のない人の心を苦しくするという意味です。無我とは自分でないこと、すべてのものには実体がないので、これが自分、これが自分のものと捉えられる状態は何もないという意味です』。

無常は、たくさん説明する必要はないと思います。お茶やコーヒーが冷めるのを見ても、朝昼晩の変化や一年の季節の変化を見ても、人の一生や死を見ても、すべては変化していると、誰でも見ることができます。無常とは「既に見えている変化」だからです。

苦(ドゥッカター)は、「すべてのものは無常なので、それらに執着するべきではない」という無我に導く橋渡しをするタンマです。「明らかな見解のない人の心を苦しくする」という感覚は、中世の「あはれ」、現代語では「切ない」に近い感覚です。

中世の「あはれ」という感覚はそこで止まってしまって無我へ導かなかったので、「世を儚む」という感覚になりました。天皇や皇族や貴族など当時の知識人の多くは、無常であり苦である世間に厭きて隠遁生活をしました。(当時の仏教に無常と苦までしかないことは、実体はヒンドゥー教であることを表しています。ヒンドゥーには無常と苦まであるとターン・プッタタートが言っています。)

三相の苦は、たとえば桜の美しさは、どんなにもっても数日であることを、誰でも知っています。「一夜の嵐」ということも知っています。「想定外」などと言うバカな人はいません。すぐに散ると誰でも知っているので、その美しさと儚さを思うと切なく感じます。「私の桜」と執着できないと感じるからです。だから、さくらに執着する人はいません。さくらに無常と苦が見えるので、無我に近づきます。「無常」が「既に見えている変化」に対して、「苦・ドッカター」は、「未然の変化、まだ生じていない変化」です。

たとえばお祭りなどで売っている水素風船は、見ると綺麗なので幼い子は欲しがります。しかし大人は、翌朝には凋んでいる姿が見えるので、もったいない、詰まらない、もっと良い物を買って与えようと思います。大人は風船の翌朝の変化、つまり「苦」が見えるので、溺れて執着しません。だから大抵の大人は、水素風船に無常・苦・無我が見えます。

しかしその人も、綺麗な洋服や、格好いい時計などには未然の変化、「苦・ドゥッカター」が見えなければ、素晴らしさはずっと続くと勘違いして、欲しがり、所有し、溺れて執着します。この人には洋服や装身具等の「無常・苦・無我」が見えません。そういう物は詰らないと考える人は、詰らないと見ている物に「無常・苦・無我」が見えています。しかし、車や家には「無常・苦・無我」が見えないで、欲しがるかもしれません。


いろんな物質に「無常・苦・無我」が見える人も、名声や名誉や社会的地位などに「無常・苦・無我」が見えなくて、それらを渇望するかもしれません。

今自分の心を惹きつけているもの、自分が関心のあるものをよく見て、それは変化しないか、永遠に魅力的かどうかをあらゆる角度から見て、「変化しないものは何もない」と見、物質なら「一瞬後に燃えて無くなることもある」と見、抽象的なものなら「名誉や地位は、突然降りかかる火の子のような出来事で、すべてを失うこともある」とヴィパッサナー(自然法の)して見て、それらに対する執着を止めます。

カギカッコで囲った部分は、まだ生じていない変化、つまり「苦・ドゥッカター」を見ることです。既に見えている変化である無常は、常に意識しているかいないかの違いはありますが、誰にでも見えます。子供にも見えます。無常を、いま無常が見えている物だけの性質と見ないで、すべてに共通の性質と知れば、どんなものにも苦・ドゥッカターが見えます。

今自分の心を捕えるものを、一つ一つこのように「無常・苦・無我」でヴィパッサナーして、執着を捨てて行くと、一つずつ執着が減り、ある程度消えた時点で、ある時同じレベルの執着が一斉になくなります。そして一つ上のレベルのものを同じように「無常、苦・無我」でヴィパッサナーして、一つずつ減らして行くと、またある時同じレベルの残りの執着が一斉に消える、という繰り返しで滅苦に至ります。ターン・プッタタートはブッダの言葉に従って、このように「無常・苦・無我」で見ることが、ブッダが言われているヴィパッサナーと説明しています。

一番低いレベルは、体、つまり性欲や性欲に関わる人や物、生活すべてへの執着で、中間のレベルは、趣味や道楽のようなものへの執着で、最後のレベルは名誉や名声など、抽象的なものへの執着です。これらを段階的に捨てて行って、完璧に捨てれば滅苦は終わります。

このようにすれば滅苦ができそうかどうか、考えて見てください。これ以外の手法のヴィパッサナーで、本当に滅苦ができるか、考えて見てください。できると考えるなら、滅苦に至る過程に納得できる理由があるかどうか考えて見てください。

滅苦のためのヴィパッサナーに不可欠な「無常・苦、無我」、特にまだ知らない「苦」と「無我」をよく理解して、日常生活で心を捕えるものに出合ったら、そのものの「苦」と「無我」が見えるように、ヴィパッサナーする練習をして見てください。