タンマサラナ

私は「帰依」という言葉があまり好きではありませんでした。「信仰すること」「信じて従うこと」というイメージが強く、キリスト教イスラム教や大乗仏教などの信仰を基本とする宗教の、信仰誓約の言葉のように感じていたからです。

そんなわけで、「明るく目覚めた人」という「ブッダ」の意味を目指す宗教のはずなのに、なぜ帰依という言葉を使うのだろうと違和感がありました。

先日プッタタート比丘の「本当の命に出合う」という講義を読んでいたら、「帰依」と言う言葉に関する説明がありました。パーリ語サンスクリット語も同じ「サラナ」ですが、サラとは「駆けて行く」という意味で、「サラナ」とは「駆けて行く所」という意味だそうです。

この説明を読んで、歩き始めた赤ん坊が十歩歩いては母親の許に戻り、ニ十歩歩いては母親の許に戻る光景を思い浮かべました。あるいはもう少し大きくなった子どもは、何もなければ一人で遊んでいますが、何かある度に母親の許へ駆けて行って、助けや指示や慰撫を求めます。つまりそこへ駆けて行けば、最終的な安心が得られます。

幼い子どもにとって母親は「駆けて行く所」です。帰依という言葉をこうイメージすると、愚かしくも、従属的にも感じません。

それに、その講義で引用されているブッダの言葉は、「帰依する自分(アッターサラナ)」、あるいは「帰依するタンマ(タンマサラナ)」であり、よく言われているような「ブッダや僧に帰依する」という言葉ではありませんでした。

何か困ったことがあった時、幼子が母親のところに駆けて行くように、何があっても心が駆けて行く所がタンマ、つまりブッダの教えという意味なら、私は大分前からタンマに帰依しています。

生活の中の、物質面の技術的な知識は世俗の知識に頼りにしますが、心や考えに関しては、ブッダのタンマに出合ってから、どんな人の哲学や考えや知識や論理や名言などにも、あまり関心がありません。

それらもそれなりに良いには違いありませんが、ブッダの教えのように、完璧な滅苦まで系統立てられていないので、気休め程度でしかなく、本当の解決にはならないからです。

生活の中でいろんな問題が起きると、私はいつでも、それに関わるブッダの教えを探して熟慮します。


最近ある人から苦情が来ました。県外の問題なので、それを解決するには、他人の協力を求めるか業者に頼むか、いずれにしても費用や迷惑や手間や時間が掛かるので、いろいろ考えると苦を感じました。

苦を滅すにはブッダの教えが一番です。そこでなぜ苦なのか、自分の心を観察して見ると、費用がたくさん掛かるからだと分かりました。一度だけでなく、今後定期的に掛かります。年間何万円も、もしかしたらそれ以上かもしれません。

その人が苦と感じなければその出費は防げるのに、その人が苦と感じるために、私のお金が出て行きます。それで「そうだ、『私のお金』という考えが苦の原因なのだ」と気づきました。私のお金でなければ、例えば公的なお金などなら、必要な事には幾らでも簡単に支出できます。「私のお金」と思うから、「私」が喜ぶ使い方以外にできなくなると気づきました。

『最近読んだ本で、ブッダは「比丘は他人を困らせてはいけない」と言っている。私は比丘ではないが、他人を困らせてはいけないことに、出家も在家もないだろう。

「私」に関係あるものが原因で苦を感じる人がいて、私が費用を出せば解決できるのに、「私のお金」と執着して惜しんで何も対処しないことは、ブッダの教えに反すのではないか。

またブッダは「収入の四分の一で他人を助けなさい」と言っている。現在私には収入は無い。しかしブッダは、「収入の四分の一で生活し、四分の一は仕事のために使い、四分の一は他人を援け、残りの四分の一はもしものために蓄えなさい」と言っているので、生活と仕事に使う分を「自分のための費用」と捉えれば、自分のために使う費用の半分くらいは、他人を援けるために使いなさい、と解釈することができる。

その費用は、自分のために使う額より多くなってしまうかも知れないが、それは自分のために使う額が少なすぎるからで、金額の問題ではない。他人の苦情処理のために使うのは、他人の苦を取り除くこと、つまり他人を援けることに他ならないのだから、ブッダの弟子を自認するなら、喜んで支出しなければならない』。

とこのように熟慮しても、まだ「収入がないのに定期的な大きな支出を決めて大丈夫か」という心配が過ります。反対に「他人に迷惑を掛けながらその費用を惜しんで、後で自分のために使えば幸福か」という問いが生じます。

『人間の幸福の最低の条件は、誰にも危害を加えないことから生じるとブッダは言っている。迷惑も、苦情を無視し続ければ危害になるでだろう。

心の中の自問自答は、「タンマの自分」と「煩悩の自分」の討論だ。そんな時は、必ずタンマの自分の考えを採用すれば間違いない。それが「タンマサラナ」であり、「アッターサラナ」だ』。

このように熟慮した結果、業者に苦情処理である作業を依頼しました。「仕方なく」ではなく、ブッダの弟子でありつづけるために、満足して出費する気持ちになったからです。「自分のお金」と考えなければ、「自分のお金が減る」こともないので、「自分のお金が減る心配」もありません。

世俗の法律家が、何があっても六法全書に依存するように、私は何があっても、その度に、心は、知っているだけのタンマに駆けて行って、解決になる教えを探します。だから私は「タンマサラナ」、タンマに帰依しています。