なぜ生まれたのかを知らず、賢いという勿れ

ある方から「ターン・プッタタートのこういう内容の話はありませんか」と問い合わせをいただいて、「仕事はタンマの実践」を紹介したついでに、久しぶりに読んでみました。自分のお寺の弟子に話した菩薩日の説教(戒に関しての)です。そこで瞑想について、「他のお寺の人が瞑想をするのは自由ですが、みなさんはそういうことはしないでください。毎日座って瞑想だけをしているなら、生涯何もしなかったように見えます。生涯の時間を何に使うか、一生をかけて何をするかを考えてください」という意味のことを言っています。

人生をこのように大局的に見ることは、まだ人生の目標を見出していない人には、非常に重要です。人生に目標がなければ、毎日、興味や好き嫌いやその場だけの利益で行動をしています。毎日楽しいことだけをし、楽なことだけをし、得になることだけをし、そうして一日が過ぎ、一か月が過ぎ、あっという間に一年がすぎて、やがて一生が終わります。

面白いことも、得になることも、好きなことも、みんな「自分(自我または煩悩)」が基準になっているので、本人はどんなに愉しく夢中になっても、他人から見れば何の価値もなく、結局何もしていないように見えます。

友人知人の星(占い)を見ていた頃、「(あなたは)こういう性格で」と言うと、「それはあまり当たっていない」と言う人がたくさんいました。総合判断ではなく、いろんな角度からの見方なので、ほかに反対の特徴を示す星があれば、当然該当しない項目もあります。しかし、客観的には否定のしようがない歴然とした事実(性質)でも、それが歓迎できない内容だと、自我(主観)が強い人は思い込みである自分を自分と捉えているので、即座に否定します。

しかし静かに考えてみれば、思い込んでいる自分は、自分の頭(想蘊)の中にしか存在しない幻です。事実があるとすれば、客観的な事実だけです。

だから自分の人生について考える時主観を基準に目標を定めて、それに向かって生きても、客観的には「何もしなかったように見える」人生になります。主観は自我や煩悩が主体の見方です。自我や煩悩は捨てなければならないものなので、自我で生きた人生は、捨てなければならないものだけのような人生です。中島みゆきの「エレーン」という歌に、「死んで行って良かったヤツかもしれない」という歌詞がありますが、生涯自我だけに支配されて生きれば、死んだ後、他人にそう思われるかもしれません。

親や夫や、その他鬼籍に入った身近な人を思い起こす時、その人が無私、あるいは無我で行ったことは、思い出すと温かい気持ちになりますが、その人が煩悩で行ったことを思い出すと、哀れとしか言いようがない感覚が生じます。死後何十年たっても、煩悩は他人まで嫌な思いにします。

それならどのように生きるべきでしょうか。ターン・プッタタートが「人生は二頭立て」で、「大学ではなぜ生まれて来たのかを教えない。なぜ生まれて来たのかを知らないから、大学で学んだ知識を活用して得たお金を、自分の(五感の)望みを満たすために使う」と言い、「なぜ生まれて来たか知らないで、知識者だと己惚れてはいけない」と言っています。なぜ生まれて来たのかを知らなければ、その人の一生は、自然にある本来の生き物の目的、つまり仏教の目的から見れば無意味です。

性質にもよりますが、生きる意味を知らなければほとんどを煩悩に従って行うので、無意味どころか、悪徳製造マシンになります。正しい知識がないから自覚しないだけです。悪以外に、積み上げるものは何もありません。人生は衰退に向かい、死後は次に人間に生まれるまで、海中の生物や肥育される家畜に繰り返し生まれます。

現代人が考える悪人や悪行が破滅や苦を招くのではなく、無明のある普通の人は普通(平均的な)の生活をするだけで、破滅や苦の原因を作っています。自分の住んでいる世界しか知らず、自然や自然の法則、あるいは自然の摂理を知らないからです。

まず、世界は自分の願望で変化するのではなく、厳格な自然の法則で変化していることを知ることです。自然の法則では「私」という感覚は最悪で、すべての悪、すべての苦の根源と知り、「私」「自分」を捨てる目標をもつことです。「悪の多い自分」を「悪の少ない自分」にし、その「自分」という感覚を減らす目標を持つことです。

そうすれば来世は前世より良くなり、人間として生きた意味があります。悪業(自分の利益のための身勝手な行動)ばかりを作っ、て来世が前世より悪くなるなら、(タンマ、つまり自然の摂理を知らずに生きていれば、社会が悪くなっている分だけ、必ず来世は前世より悪くなります)、今回は人間に生まれるべきでなかった人、人間の生をまったく無駄にした人です。


輪廻はあるか否か議論するのは無意味です。ブッダも「議論するな」と言っているようです。しかし、それは、輪廻の存在を否定しているのではありません。議論して結論が出る問題ではないので、無駄なことはするなと言われているだけです。断見のある現代人は自分の都合の良いように引用しますが、「死後は何もない」という虚無論は邪見と断言しています。どうぞ命は一度だけではないと知ってください。

たとえば毎日住む部屋が変われば、部屋への愛着も、改善させる計画もありません。毎日仕事が変われば、熟練も上達も望みません。人生が一度きりなら、他人のことを考えず、周囲のことを考えず、後先のことに配慮せず、自分のしたいことをして生きるのが一番です。「旅の恥はかき捨て」という言葉がありますが、一度だけの場所では、恥になることでも、あえて煩悩を優先してしまいがちな、世俗の人の本音を表しています。

大人になってからしばらくの間は、したいことを自由にできる時間と機会があります。しかしその後は、自然の法則による結果と報いがあることを、周囲の人を観察して見てください。

現代は難病が増えていること、障害者が増えていること、障害の残る病気が増えていること、失業者や貧困が増えていること、殺されるために飼育(養殖)される生き物が増えていることなどを、熟慮して見てください。それらの原因は、すべて人の行動傾向の変化にあります。現代の社会は病んでいます。狂いかけています。これを正常な状態、普通の、当たり前の状態と見ないでください。

命は一度きりではありません。人生は一度きりと見ているから、この世は分からないことばかりなのです。体と言葉と心による行動の結果は、直接の結果だけではありません。

ブッダが説いたタンマを知らないうちは、心はまだ煩悩の奴隷であり、絶えず悪業と苦を作り出していると知ってください。現代人が楽しく夢中になっている行動は、ほとんどすべてアパーヤムッカ(破滅の入り口)です。自然の法則を学んで知ることで煩悩を減らし、自分の悪と苦を減らしていく目的を持ってください。

前述の「人生は二頭立て」に「二番目の水牛(テクノロジーのこと。物質的知識)だけしか知らない現代人の狂気の醜さ、嫌らしさ、哀れさ、悲しさを見てください」とあります。命は体と心で成立しているので、知識もテクノロジーに関わる知識と、精神に関わる知識が必要です。道徳や心の軌道がない社会では、若さや自由や幸福な暮らし、あるいは人間である一生は、物質面の発展と、精神面の退廃のためだけに使われてしまいます。

パーリ語の「マヌッサヤ=人間」という言葉は、高い心を持った生き物という意味です。高い心を持った生き物は、自己中心的な考えを捨て、愚かな人の中で賢く生きようと、悪の多い人の中で悪を減らす努力をしようと、狂った社会の中で、正気を維持したいと望みます。人に生まれて人間になることを目指す人を賢いと言います。


参考までにアパーヤムッカとは、

飲酒をする
夜遅くまで遊びまわる(必要のない外出)
催し(映画・芝居・音楽・試合・祭りなど)を見るのが好き
賭け事(宝くじ類やパチンコやある種のゲームも)をする
悪友(行いの善くない友)と交わる
仕事を怠ける(職務中の私用メールやインターネット、妄想も)

破滅の門と言われるものは、現代人にとって普通の生活です。


「人生は二頭立て」
http://space.geocities.jp/tammashart/housebon/jinseihanitoudate.html