四念処の仕方

「四念処」で検索すると、Wikipediaも、他のどのサイトも、「体と、受と、心と、法を観る」と言っていますが、見てどうするか、何のために見るのか四念処の実践の仕方を終わりまで説明しているサイトもブログもありません。
しかしブッダが言われている四念処は、
身=呼吸、受=幸福、苦、どちらでもない三つ感情、心=貪・瞋・痴である心の状態、法=無常・苦・無我、これらの四つのものを見る時、ブッダは必ず「この場合の比丘は、平素から体の中の体を見、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です」と言われているのに、私が見た限りすべてのサイトは「観る」としか説明してなく、見ることの目的を知る智慧がないからです。

何を見ても、見るだけではほとんど利益はありません。いつも繰り返す例えですが、「お風呂の水を見て来ておくれ」と言われて、「溢れてた」とか「水が出てた」と見て来るだけでは「与太郎のお使い」と言われます。まともな人は水量がちょうど良いかどうかを確認し、適度か過剰ならすぐに水を止め、まだ足りなければ、しばらくして(水を止めるために)もう一度見に行きます。この場合の「見る」目的は、ちょうど良い水位まで水を張ることだからです。
瞑想や四念処の説明をする時に、サティという言葉を使っている人もいます。しかし、「見るだけ」と教えている人が言っているサティを上の例で言えば、水の状態を観察するだけのサティです。何のために見るのか気づくサティ、思い出すサティ、あるいは目的を知る智慧がなければ、適宜に水を張る目的は果たせません。
四念処で体・受・心・ダンマを見る目的は、平素から体の中の体(すべての受・心の中の心・すべてのダンマ)を見て、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまうためで、四つの物を見ることは四念処の目的ではなく、四念処は見ることだけで完結しません。

四念処を体・受・心・ダンマを見ることと理解している人は、見る目的を知らないのです。何のために見るのかも知らず、ただ見るだけで「何かになる」と信じて実践し、教えています。だから、本気で実践しても、与太郎に用事を言いつけるのと同じで、何の利益も効果もありません。これが四念処の本当の価値が分からず、実践する人も、教える人もいない理由の一つではないかと思います。
 
ブッダは『その比丘は体の中の体を見、いつでも煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です』と言われ、『世界の喜びと憂いを出してしまえる人なら、その時その人は体の中の体が見えています』と言われているので、それらを見る目的は「いつでも煩悩を焼く努力をし、サティと自覚があり、世俗の喜びと悲しみを捨てる」ことです。
体や受などを見るだけで、その都度煩悩を焼く努力をしないで、サティと自覚を維持しないで、世界の喜びと憂いを出してしまわない人は、体や受や心やダンマを見ても何も見ないのと同じで、煩悩を焼く努力をせず、サティと常自覚がなく、世俗の喜びと悲しみを捨てない人です。

朝起きてから夜寝に就くまで、四念処を正しく実践すれば、生じたいろんな感覚が捨てられてしまっているので、心に喜びも悲しみ(つまり妄想)もないことで正しいサティがあり、正しいサティから正しいサマーディが生じます。

つまり、体を見るのも、三種類の受を見るのも、心を見るのも、無常・苦・無我を見るのも、目的は「世俗の喜びと憂いを捨てること」と知らなければなりません。目的を知って実践すれば、初禅、二禅は普通にいつでも、三禅も時々しょっちゅう到達し、その感覚の中にいられます。


ブッダヴァチャナによる四聖諦」の「正しい努力」や「正しいサティ」「正しいサマーディ」の部分を読むと、語られているのは四念処かアーナーパーナサティ、あるいはアーナーパーナサティサマーディだけで、当然「瞑想」という言葉が意味する範囲の技法はありません。

そしてアーナーパーナサティについても、「アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧になる」と言われている言葉から、アーナーパーナサティは四念処の援けになるもので、四念処の方が重要であることが分かります。


このように素晴らしくサマーディを生じさせる効果がある四念処を実践する人がどうして少ないのだろう、と考えました。サマーディを生じさせようとする人のほとんどすべては、瞑想と呼ぶ範囲の技法に依存しています。瞑想を好んでする人のほとんどはブッダダンマに本当に関心がなく、あっても話すための知識としてだけで、ブッダに帰依する信仰がありません。


だから瞑想を好んで、瞑想に依存する人たちは、過去世でブッダの仏教を学んだことがない人ではないかということは、以前の日記に書きました。


しかし、四念処というダンマを知りながら正しく理解していないのは、ブッダは「実践については、自分で実践して、実際に(ブッダが言っているのと同じ)結果を出したことだけは教えて良い」と言われているそうですが(ターン・プッタタートが話しています)、ダンマを教える人たちが、その教えに背いて、聞いて知っているだけで、自分で結果を出していない方法を、仕入れた商品を転売する商人のように、(知ったふりや、自分が信じる実践法をブッダの手法と主張するためなど)自分の何らかの利益を求めて、次々に教え継いでいるからです。


つまり、実践原則を教える人が、自ら滅苦を目指す実践者(心が僧である人)でなく、世俗的な利益を追求する情報中継者(俗物)でしかないこと、これが四念処が見向きされない最も重要な理由だと思います。


滅苦の実践者は、説法を売り物(有料)にしたり、出稼ぎ説法をすることはあり得ないはずです。インターネットの時代になったことと物欲を捨て難い社会なので、ますますこの傾向(結果を検証しないで教える)は強くなると思います。

ブッダの教え通り、実践してブッダが言っている結果を出した人だけが教えれば、「観るだけ」の四念処が流布することはありません。そして方法もあいまいで言葉を濁す説明ではなく、具体的で、体験的で、コツや秘訣まで教えられるので、聞いた人がそれに従って実践すれば、ブッダが教えていることと同じ結果、その人が言っていることと同じ結果が得られます。

実践して検証したことだけを教えれば、教えられることはすべて、ブッダが教えたダンマと同じ威力があり、サンディティコ(実践者が自分で見えるもの)であり、アガリコ(時に左右されないもの)であり、エヒパッシコ(来て見てと言えるもの)であり、パッチャッタン(実践者だけが見ることができ、誰も妨害できないもの)になります。
何百年もの間、ほとんどすべての人が聞いてい知っているだけ(実践して結果を出していない)のダンマを教えているから、ブッダのダンマを学んでも、心が俗人の域から脱せないものになっているのだと思います。
実践して結果を出してから教えないから、珍しいと言うだけでいろんな瞑想法が流行り、仏教はますます失墜します。