仏教を衰退させるもの

前回の日記で、四念処に関して正しい技法が広まっていないのは、『実践して、(ブッダが言われているとおりの)結果を出した人だけは、実践について教えても良い』という教えに誰もが違反して、自ら検証していないことを教えているからだと書きました。これはブッダの教えを不毛にし、仏教を衰退させかねない重要なことなので、もう一度考えてみたいと思います。

どの実践項目でも、自分が実践して結果を出し、正しい結果が出ることが検証済みなら、体験に基づいているので、どんな言葉で話しても正しく教えられ、聞いた人がどんな質問をしても、まともに答えることができます。

しかし聞いただけ、読んだだけの知識は、説明も不十分で、そのまま実践できるかどうかも保証されず、結果など期待すべくもありません。聞いた人が疑問点を質問すると、自分でも理解していなので、国会答弁のようにクネクネした捉えどころのない、意味不明な返答をします。その結果質問者を失望させます。

あるいは聞いた人も何も考えない人で、聞いたまま鵜呑みに信じて、理解できないまま実践し、何の進歩がなくても自分の仕方が悪いからと考え、あるいは静かにしていることから生じる快さを、結果と信じて喜ぶかもしれません。

いずれにしても、教えを検証していない人が、知っているだけで、頭で理解しただけで実践について説くことは、偽物を本物と偽って売るのと同じくらい、本家本元の信頼を失墜させます。



以上は実践についての話ですが、ブッダは一般の教えについて、『私が話したように話す必要はない。自分が(智慧の目で)見えたとおりに話しなさい』と言っています。これは当然、比丘たちに話しています。ブッダが話されたことを記憶して、その通りに話せば、そのダンマを真実のままに知っている人でも、間違って伝わることもあり得ますが、自分の心の目で見えたことは、ブッダが言われている真実と当然一致しているので、見えたとおりに話せば、真実が間違って伝わる心配はありません。

現代は、出家でも一般人でも、実践して結果を出していない人、智慧でダンマが見えていない人がいろんな場所で話をし、そういう人ほど、お金や人気などの目的のために多くの機会を作って話すので、それを聞いても、あるいは読んでも、聞いた人読んだ人が、ブッダが本当に解脱したかどうかも信じられないほど価値のないものになってしまいました。

その結果、ブッダが教えていない一般の瞑想を、涅槃に至る修行と信じて実践したり、新しく考案した手法を良いものと見るので、さまざまなレベル、様々な理解のダンマが交錯します。

初めに未熟なものがあり、次第に発展して完成に向かう世俗の知識とは反対に、ブッダの教えは、初めに完璧完全なものが示されているので、後から出てくる新しいものはブッダのものには及ばないのです。

ブッダダンマについて、あるいは実践するダンマについて話す人が、「実践して結果を出したことだけを教える」「心の目で見えたとおりに話す」という二つの教えを守っていれば、ブッダの教えが信用を無くすことはあり得ません。だから、この二つの教えは非常に重要だと思います。


このように重要な教えについて言及する人がいないのは、なぜでしょうか。ターン・プッタタートが、カーラーマ経を教える比丘が少ないのは、それを教えると、聞いた人が自分の教えを信じなくなって、自分の都合に良くないからだと言っていましたが、同じように、この二つを教えると、どちらにも該当しないアーチャンたちは、何も教えられなくなってしまい、弟子や庶民の尊敬を集められなくなるからではないでしょうか。

人々がブッダの本当の教えを知ろうと知るまいと、そんなことには関心がなく、仏教が信頼を失墜するかどうかなど思いも及ばず、ただ人気と尊敬と貰い物、一般人なら収入やプライドのことばかり考える人たちによって、ブッダの教えは汚され続け、地の色さえ見えないほどになっています。

こうした状況を変えるには、仏教を学ぶ人がもっと賢くなって、ブッダの教えは、「智慧の目で見える人が、智慧の目で見えたことだけを教えるもの」「実践して正しい結果が出ると検証した人が、検証できたことだけを教えるもの」と多くの人が知り、お金を集めるために話をする人や、有名になる目的のために本を出す人たちには、財産を貯める厚い煩悩があるので、ブッダが教えている深遠なダンマが説けるはずはないと知ることだと思います。

ブッダは,『貰い物と称賛は、これに勝るものはない実践から生じた喜ぶべきタンマである涅槃への到達にとって、このように下品で残酷で打ちのめされるような危険です』

『サマナでないのにサマナだと宣言し、梵行をする人でないのに梵行だと宣言し、内部がドロドロに腐って、ゴミ捨て場のように積み重なった本性がある破戒者であり、それでまだ偉大な王、あるいは偉大なバラモン、あるいは偉大な長者が信仰心で献じた飯の塊を食べる(と考える)ことが苦の成り行きにし、永遠に助けないので、体が崩壊して死んだ後、彼は当然破滅、悪趣、殺害、地獄に至ります』と言っています。

私たちがこのような知識で、行いの正しい出家者かどうか、自分で結果を出した実践だけ、心で見えたことだけを話す人かどうか判断することは、仏教を純潔にし、清浄な繁栄を援ける大きな力になると思います。

心の目で見えることを話す人が説くダンマは、実践した人は自分自身で見ることができ(サンディティコ)、時を限定せずに結果が出(アカーリコ)、呼んで来て見せるべきで(エヒパッシコ)、自分に傾けるべき(オパナジコ)で、智者本人だけが知る(パッチャッタン ヴェダヴォ ヴィンニューヒ)ダンマなので、たくさんの人に、ブッダが言われている本当の意味の信仰心を生じさせます。