学問軽視の時代


以前から、「昔、学問のある人はすべて人格者だったが、戦後、学問のある人即人格者ではなくなった」と感じていました。
 
これに関して、最近私の中で明らかになったことがあるので、書きたいと思います。というのは、今まで私は、学校で教えるような知識をすべて総称して学問と言う、というような曖昧な理解をしていました。しかし最近「学問」という言葉の正確な意味を知る機会がありました。
 
学問とは、文学、哲学、歴史学を言い、物理や化学などを科学、農学や工学、医学は技術と言うそうです。学問の本質は「いかに生きるべきか」で、たとえば原子物理学などは科学で、原子爆弾を製造するのは技術で、爆弾を使用するかしないかを判断できるのは学問だけだそうです。つまり学問とは、仏教の「正しい見解」あるいは無明の反対の明に近いもののようです。
 
これで、昔の知識者はすべて学問のある人だったが、現代の高学歴の人は人格者ではない理由が明らかになりました。昔、技術は親や職場の親方から習うもので、学問と言えば、文学や哲学(フィロソフィではない)や歴史がほとんどだったので、社会の重要な地位にいる人は全員、学問のある人で、大学は学問を身に着けて、人の上に立てる人になるためでした。
 
しかし現代教育のほとんどは、何らかの(職業のための)技術か科学なので、現代教育を受けた人の多くは、「人間としていかに生きるべきか。何が善で、何が悪か。何が重要で何が重要でないか。何をするべきで、何をするべきでないか」という知識である学問を身に着けていないということになります。
 
今の大学生の学部別学生数を調べて見ると、良い資料がなく、女子学生の状態しか分かりませんでしたが、それによると、科学と技術の学部の学生数は、人文科学の学生の三倍くらいでした。男子学生の場合は、推測するに、学生全員に対する人文科学の学生数の比率は、当然女子の比率より低くなると思われます。
 
国民の学歴が高くなった現代も、学問のある人の比率は決して増えてなく、昔と変わらないのではないかという気がします。そして昔は、人の上に立つ人は学問のある人と決まっていましたが、今は学問がない人でも、人の上に立つ機会は平等になりました。
 
いかに生きるべきかを知らない学問のない人たちが、政治や経済やいろんな組織を牽引して行く場合が多くなったので、すべてがあるべき方向へ向かわず、あるべきでない方向へ向かってしまうのかもしれない、と思いました。
 
それというのも、学問と科学技術の違いも、目的も価値も知らず、大学で学ぶものは何でも学問と勘違いし、「人の上に立つには、科学や技術の知識ではなく、それにふさわしい学問が必要」と知らないことが原因だと思います。

今の社会を冒頭の説明で例えれば、今の社会は、爆弾の開発(科学)をする人、爆弾を製造する(技術)人ばかりで、爆弾を使うべき時、使うべからざる時を判断する智慧(学問)を忘れています。

だから学問のない人たちに、高い科学技術の産物であるパソコンが普及した結果、コンピュータは、簡単に大きな犯罪を犯せる道具になりました。

これは、科学や技術の偏重による宗教や道徳の軽視と、大いに関わりがあります。文学・哲学と、道徳・宗教は、切っても切れない深い関係だからです。