明晰な言葉を使う


 ブッダヴァチャナ・シリーズを読んで感じたのは、ブッダは何かの話をする前に、必ずその言葉の定義を、例えば「苦とは、こういう意味です」と明瞭に説明していることです。
 
それまでなかったロークッタラ(脱世間)の世界を説明するのに、世俗の言葉以外に使う言葉がないので、生活で使っている言葉に、新たな意味を定義したからです。すべての言葉を新たにキッチリ定義することで、ロークッタラの概念の説明を、弟子たちに理解させることができました。
 
 ターン・プッタタートも、講義あるいは法話をする時、初めにタイトルの言葉を、世間で使っている意味と、ブッダが言われている意味の両方を説明をして理解させ、途中でも新たな語句が現れる度に、必ず言葉の説明をしています。
 
 これは、ターン・プッタタートがブッダを真似ている訳ではなく、正確に話して伝えようとすれば、必ずそのように、語句の定義を明瞭にしなければならないということに気づきました。翻訳者が訳文を書く時、極力、意味を辞書で確認しなければならず、「それは、その、そのような意味だ」と言う程度の理解では使わないよう心掛けるべきなのと同じです。
 
 すべての言葉の定義が正確ならば、文章全体、あるいは考えは、江戸組子のようにしっかり組み合わさりますが、すべての言葉の定義が曖昧なら、小学生の工作のようにどの部分も歪んでぐらぐらします。
 
スーパーへ行く家族に、納豆を頼んだ時、私は欲しい物が決まっているので、できるだけ正確に伝わるように、「国産中粒納豆」と言ったら、欲しかったのと違うメーカーにも同じ名前のものがあり、そちらを買って来ました。別のメーカーにも同じ名前があることを知らなかったので、メーカーまで指定しなかったことによる失敗です。つまり、その時私が伝えた「納豆」という言葉の定義が、曖昧だったからです。
 
言葉は話したり書いたりする時に使うだけでなく、何かを感じる時も考える時も概念を自分の言葉に変え、その言葉を使って考えています。記憶も、映像で記憶する部分と言葉で記憶する部分がありますが、思い出して話す時は言葉にします。だから人は朝目覚めてから夜眠るまで、一日中一生、ほとんど休みなく言葉に関わっています。声のない人も心の中では言葉で考えています。
 
だから曖昧な言葉を使っていれば、すべての考えや認識は小学生の木工のように圧すだけで壊れてしまうかもしれません。そのような曖昧さいい加減さを回避するために、ブッダやターン・プッタタートはいつも語句の説明をしているのだと気づきました。そして明瞭な言葉で認識し考えている人の頭の中には曖昧さがなく、すっきり整然としていると信じます。
 
血は体のすべての部分と関わりがあり、綺麗な血、汚れた血、足りない血、血液型の違い、血は体のすべての部分の状態を左右します。同じように言葉はすべての考えを支配して人間のすべての行動に関わり、知らぬ間にそれの有り様を左右しています。

  ターン・プッタタートのように言葉を正確に使えば頭脳は冴えて行き、心の内部すべてが見通せますが、曖昧な言葉を使っている人の頭脳は混沌としていて、片づけられない人の散らかった部屋のように、何があるか、本人も知らない状態のように見えます。

国語以外の知識がないことは、その人がそれらに関心がないことを示すだけですが、有名人が「私のお母さんが」などと言うのを聞くとがっかりするように、国語、特に話す言葉に関した知識がないと、知性そのものが疑われてしまうことがあるのは、言葉はすべての知識の基盤である以上に、頭脳の明晰さを表すものだからかも知れません。

多分高校の時だったと思いますが、国語の教科書に、嫁いでいく娘の嫁入り道具を揃えられない貧しい母親が、娘に正しい国語(フランス語)を習わせる話がありました。その時はその話にどんな意味があるのか分かりませんでしたが、最近それは非常に正しい考えだと感じます。
 
考えるため、伝えるために、一日中一生使い続ける言葉をいい加減に扱うか、厳格に厳密に扱うかは、その人の心や頭脳の明晰さと深い関係があり、正しい言葉使いを知っていることは、他の知識があることや美しい衣服や装身具で飾ることより、その人を立派に見せ、その人の生涯の幸福に寄与すると思うからです。