如来と如行


ブッダは自身を呼ぶ時『タターガタ』という言葉を使っていました。この世界から向うの世界に行ったような人という意味です。漢訳では如来、つまり「来たような人」と訳されているので、意味は正反対です。大乗の仏陀は向うの世界の人で、衆生を救うためにこの世界に現れたので、原語とは反対に「来たような」という意味の如来と訳したのだと推測します。

というより、ブッダが「如行」と呼んでいた言葉を如来に変化させて、超人的人物を創り上げたと言う方が正しいかもしれません。

私もつい最近までは何の疑いもなく、辞書にあるままに「タターガタ」を「如来」と訳して来ました。しかし最近「ガタ」は「行った」であり、「タターガタ」は「行ったような人」で「来たような人ではない」と気付きました。
 
ブッダは自身を呼ぶ時にそれまであった「私」という意味のどんな言葉も使われず、『この世界から向うに世界へ行った人』という明らかな意味のある「タターガタ」という言葉を使われているので、「行ったような人」を「来たような人」と訳してはいけないという考えに至りました。その名を読む度、呼ぶ度に「ブッダはこの世界から苦のない世界へ行った人というイメージが作られず、反対に「この世界に来た人」というイメージに染められてしまうからです。
 
私は、ロークッタラ(脱世間)の世界の話しをするには、すべての語句をブッダの意図と一致する訳語にしなければならないと考えています。
 
五蘊や六処の「色」の原語は「ルーパ」で「形」という意味ですが、漢訳では「色」と訳されています。これも初めは辞書にあるまま「色」と訳していましたが、本当の意味は形であり、「形」を「色」と訳す自分自身で納得できる理由がないので、気付いた時から「形」という言葉に訳しています。
 
中には「永年『色』という訳語が定着しているので混乱する」と忠告して下さる方もいますが、五戒の不妄語でも十善業の不妄語、不綺語でも真実でないことを言うのを避けなければならず、あるいは他のどの経の何を見ても、「事実はどうあれ、従来どおり色にしておきましょう」と言う根拠にする教えがありません。千年も二千年も、どんなに長く使用されてきても、誤りと気付いたら気づいた時に正しく改めるべきだと思います。
 
何かの誤りでも、意図して別の訳語にした場合でも、テーラワーダ、あるいは南伝仏教で使う時は「如行」、あるいは「行ったような人」という意味のもっと良い訳語にするべきだと思います。でなければ滅苦に至る実践であるブッダの教えと一致しません。
 
そんな訳で、過去の大部分の作品の「如来」を「如行」に修正しました。慣れるまで違和感があるかもしれませんがお許しいただきたいと思います。パーリ語の翻訳の問題で先生と意見が合わず(従来の訳に疑問を感じ)、バンコクでのパーリ語の勉強を止めて帰郷し、自分で納得のいく翻訳をする決意をされ、スワンモーク寺を作られたプッタタート師なら支持してくださると信じます。

 追記: 最近スアンモーク・バンコクから、現在タイで使われている何種類ものパーリ語辞典を頂戴しました。それを見ると「タターガタ」は、「そのように行った人」という意味だそうです。