戦争に巻き込まれないために

日本の戦争が終わって七十年以上になりますが、その間何十年も米ソの戦争の危機が続き、その構図が崩れたと思ったら北朝鮮アメリカの戦争の兆しが現れ、戦争になればロシアや中国も参戦し、日本はアメリカと共に戦えるよう憲法を変え、世界を二分する大戦になりかねません。
 
二度と戦争はしたくないと考える庶民は、戦争体験を話したり、絵画に描いたり、小説や映画などで戦争の悲惨を訴えて、感覚的に「戦争反対」の気持ちを忘れないようにする努力をします。そのような行動や努力が無駄だとは思いませんが、しかし戦争の本当の原因は別の所にあり、国中の人がそうした行動に賛同し、支持しても、個々人のカンマの問題として、国民の多くが戦時の苦しい生活を余儀なくされるカンマを作っていれば、カンマの報いをもたらす縁として戦争が起こります。
 
反対に多くの国民が、戦闘に行かなければならなくさせるカンマ、戦時中の苦しい生活を余儀なくさせるカンマを作らなければ、国同士のいがみ合いは、いつまでたってもいがみ合いのままで、戦争には発展しません。
 
そのような観点で今の社会を見ると、幾つも憂慮される現象が見られます。一つは食べることに関してで、食べ放題やデカ盛りブームで見える必要以上に、煩悩が満足するまで食べること。キャラ弁や創作料理などに見られる食べ物の遊び化、またB級グルメなどは、三食以外の時間にも食べられれば食べるなど食に関して慎みのない放漫な状況が、もうしばらく続いています。
 
着る物が必要をはるかに超えて、煩悩を喜ばせる状態であることは例を挙げる必要はないと思います。今老若男女を問わず「片付けられない人」の住まいの「ゴミ屋敷化」も社会現象になっているのは、不要な衣服や持ち物が多すぎることの現れであり、一般庶民も程度こそ違い、まだ管理できる範囲内にあるだけで、同じような傾向にある人も少なくないと思います。
 
太平洋戦争の戦時下のような生活を余儀なくされた原因であるカンマは何かを考えると、衣食の欠乏は贅沢の類、衣食を無駄にすることなどで、言論統制などは、他人に自由にものを言わせない行動?などで、すべてにおいて自由を制限されたのは、一般庶民の場合は、子や孫などの家族に、身勝手に権力を行使したことの結果でしょうか。
 
日本には国民全体が戦時下の生活を余儀なくされ、戦禍に見舞われた人たちも全国に散在した時代は戦国時代以来なので、それぞれが数百年間に積んできたカンマが累積した結果、あのような時代が現れたのかもしれません。元禄時代や大正時代は庶民が栄華に陶酔した時代と言われていますが、現在と比較して見るのは簡単ではありません。
 
現代の人のお金の使い方を見ると、悲惨な報いを受けなければならない時は、今までより短い間隔で現れるような気がします。過去は今より高い道徳があり、今より良い伝統習慣があり、現在のように慎みがなく身勝手な時代はなかったように見えるからです。今の人たちはあまり権力を行使しないので、権力による締め付けは少ないかもしれませんが、現在のように慎みのない放漫な生活を続ければ、国民のほとんどが衣食住に困窮する時代が来るのは、そう遠くないかもしれません。
 
しかし受け取るカンマの結果が生活の困窮だけなら、今の日本の各地にあるような災害だけで戦争である必要はなく、戦争になるには生活の困窮以外に、いろんな意味で著しく自由を束縛される原因であるカンマがなければなりません。
 
カンマとカンマの報いの関連は見るのは難しいですが、いずれにしても国民が巻き込まれるような戦争の原因は、政治や経済などではなく、本当は私たち国民の一人一人の行動にあると見るべきです。政治や経済は、戦争を引き起こす縁であるだけです。