四念処についての詳細

ブッダは、八正道の正しいサティ(正念)は四念処と言われています。私は、四念処は正しいサマーディを生じさせる最も良い方法だと感じるので、四念処の仕方を説明するために、ブッダの言葉の、四念処に関わる部分を抜き出して見ました。
 
四念処をする時の注意事項

その比丘が当然静寂な住まいに住み、托鉢から戻った昼食以降は、結跏趺坐し、体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、彼は当然世界の喜びを捨て、喜びのない心があり、絶えず心の喜びを拭おうと待ち構えています。怒りを捨て、怒りのない心があり、すべての生き物を援けたいと望む心がある憐れみの人で、常に心の怒りを拭おうと待ち構えています。

惛沈睡眠(眠気と寂しさ)を捨て、惛沈睡眠のない心があり、心の明るさだけをめざし、サティと自覚があり、常に心の惛沈睡眠を拭う準備があります。掉挙悪作を捨て、散漫でなく内面が静まった心があり、常に心の掉挙悪作を拭おうと待ち構えています。疑法を捨て、疑法を越えてしまうことができ、すべての善を「これは何? これはどう?」と疑念で聞く必要がなく、常に心から疑法を拭おうと待ち構えています。

 その比丘が、心を憂鬱にし、智慧の力を衰えさせる五蓋を捨てれば、彼は普通に体の中の体が見える人であり、普通に受の中の受が見え・・・・・・、普通に心の中の心が見え、普通にダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。
 如来は当然、更に彼に、
「おいでなさい比丘。あなたは普通に体の中の体が見える人におなりなさい。しかし体があるヴィタカ(考え)をしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべての受の中の受が見える人におなりなさい。しかし受があるヴィタカをしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべての心の中の心が見える人におなりなさい。しかし心のあるヴィタカをしてはいけません。
 おいでなさい比丘。あなたは普通にすべてのダンマの中のダンマが見える人におなりなさい。しかしダンマのあるヴィタカをしてはいけません」とこのように忠告します。
 その比丘が、ヴィタカ・ヴィチャーラ(考えること)が静まることで、心の内面を明るくするものであり、単独に現れるダンマであるサマーディ(三昧)を生じさせ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
 (ブッダの言葉の至る所で述べられている三禅、四禅空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処についても述べられています)。
 
比丘。あなたがこのようにサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常に体の中の体が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めなさい。
 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んでヴィタカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
ピーティで経過するダンマにするべきで、
ピーティのないダンマにするべきで、
喜びと一緒に行くダンマにするべきで、
ウベカーと一緒に行くダンマにするべきです。

 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常にすべての受の中の受が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めなさい。
 比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んでヴィタカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
ピーティで経過するダンマにするべきで、
ピーティのないダンマにするべきで、
喜びと一緒に行くダンマにするべきで、
ウベカーと一緒に行くダンマにするべきです。
 (「心の中の心を見る」と「すべてのダンマの中のダンマを見る」場合も、同じように七段階で話されています)。
 
四念処で維持する方便

アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。比丘や比丘尼の誰でも、心が四念処で安定していれば、その比丘または比丘尼が期待できることは、今到達しているより更に偉大な美徳に到達することです。四念処とはどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は、平素から体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人なら、そのとき彼は体の中の体が見えています。体に生じてくる身体の感情がある焦燥でも、生じてくる心の委縮でも、心が外部に飛散するのでも、アーナンダ。その比丘は、心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておくべきです。彼が心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておけば当然歓喜が生じ、心に歓喜がある人は当然喜悦が生じ、心に喜悦がある人の体は当然静まり、体が静まった人は当然幸福を味わい、幸福のある人の心は当然安定します。

 その比丘は、当然「心を、何らかの自分の利益になるようにできた。それなら今私は、(喜びの基盤であるニミッタで維持されている心を)抜こう」と熟慮して見ます。だからその比丘は抜いた、つまりヴィタカをせず、ヴィチャーラをせず、「今私はヴィタカも無く、ヴィチャーラも無く、内面の幸福であるサティがある」と明らかに知ります。
 (受と心とダンマの場合も、同じように話されています)。
 アーナンダ。こういうのを、バーヴァナーは当然心を維持することによってあると言います。
 

四念処ができない人

人が平素から体の中の体が見えないのは、六つのダンマを捨てないからです。六つのダンマはどのようでしょうか。六つとは、仕事を喜ぶ人であること、無駄話を喜ぶ人であること、秘密を喜ぶ人であること、集団との交際を喜ぶ人であること、すべての根を慎まない人であること、消費する程度を知らない人であることです。比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てないから、人は普段から体の中の体が見えない人です。
 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれない人の場合も、すべて同じように話されています)。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体が見える人になれるのは、その人が六つのダンマを捨てるからです。六つはどのようでしょうか。六つとは、仕事を喜ぶ人であること、無駄話を喜ぶ人であること、秘密を喜ぶ人であること、集団との交際を喜ぶ人であること、すべての根を慎まない人であること、消費する程度を知らない人です。比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てることで、人は普段から体の中の体が見える人になります。
 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれる人の場合も、すべて同じように話されています)。
 

大念処経の意味のチッターヌパッサナー

(1)貪りのある心を「心に貪りがある」とハッキリと知り、
(2)貪りのない心を「心に貪りがない」とハッキリと知り、
(3)怒りのある心を「心に怒りがある」とハッキリと知り、
(4)歓喜のある心を「心に歓喜がある」とハッキリと知り、
(5)愚かさのある心を「心に愚かさがある」とハッキリと知り、
(6)愚かさのない心を「心に愚かさがない」とハッキリと知り、
(7)委縮した心を「委縮した心」とハッキリと知り、
(8)散漫な心を「散漫な心」とハッキリと知り、
(9)偉大さに達した心を「偉大さに達した心」とハッキリと知り、
(10)偉大さに達していない心を「偉大さに達していない心」とハッキリと知り、
(11)極めて良い別の心がある心を「心にもっと良い別の心がある」とハッキリと知り、
(12)極めて良い別の心がない心を「心にもっと良い別の心がない」とハッキリと知り、
(13)安定した心を「安定した心がある」とハッキリと知り、
(14)安定していない心を「心が安定していない」とハッキリと知り、
(15)解脱した心を「解脱した心がある」とハッキリと知り、
(16)解脱していない心を「心は解脱していない」とハッキリと知れば、
 このように、比丘は普通にすべての受の中の受を熟慮して見る人であり、受は内部の受もあり、外部の受もあり、内部と外部の受であることもあります。
 

ダンマーヌパッサナー

(1)当然、常に無常が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に無常が見える人になることを課題にして息を吐き、
(2)当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして息を吐き、当然心を喜ばすことを課題にして息を吐き、
(3)当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吐き、
(4)当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吐く時、比丘のみなさん。その時その比丘は、常に心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。
 
内部にあるカーマチャンダ(愛欲を貪ること)を「ある」とハッキリと知り、
 内部にないカーマチャンダ(愛欲を貪ること)を「ない」とハッキリと知り、
 まだ生じていない愛欲の貪りがどう生じたかをハッキリと知り、
 生じた愛欲の貪りをどう捨てたかをハッキリと知り、
 捨てた愛欲の貪りが二度と生じないのを、どう二度と生じないかハッキリと知り、
 (五蓋の場合、つまり瞋恚、惛沈睡眠、掉悔:興奮と後悔、疑法の場合も欲貪の場合と同じように話されています)。
 
 
初めに、チャヤサロー比丘の「いかに修行するか」「目を閉じて学ぶ」などで、心と心に生じるもの(受や想など)との違いを理解すると、やり易いです。
 
体の中の体を見るというのは、絶えず生じている今の呼吸を見るという意味で、
すべての受の中の受を見るというのは、喜びの受か、苦の受か、あるいは喜びでも苦でもない受かを見るという意味で、
すべての心の中の心を見るというのは、大念処経の意味で引用したように、心に貪りがあるかないか、怒り、愚かさ、歓喜等(16項)があるかないかを、ある、あるいは無いとハッキリと感じます。
すべてのダンマ中のダンマを見るというのは、上の例では、五蓋を見ていますが、すべてのダンマを見ることだと思います。
 
受の時もそうですが、喜びの受、苦の受、あるいは貪・瞋・痴などがあると見たら、すぐにそれを心から捨てる、あるいは止める、消す努力をします。これが、「煩悩を焼く努力があり、サティがあり、自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまう」という言葉だと思います。
 
これは、もちろん結跏趺坐してしても善いですが、絶えず四念処の中にいる習慣にするためには、むしろ生活の中で、電車の中や、歩いている時や、順番を待つ間、手持ち無沙汰な時など、いつでも心の中を見る習慣をつける方が断然良いです。座ってする習慣の人は、座っていな時間は観察できませんが、生活の中でできる人は、それだけのために座って時間を無駄にする必要はありません。時々座りたければ、当然座ってすることもできます。