現代の日本人にない感覚に「徳」という感覚があります。善いことをすると徳という貯金のようなものになって蓄えられ、自分が困った時に助けてくれるものです。徳は時に高い倍率の利息が加算されることもあります。幸運と呼ばれるものはすべて、本当は本人が過去に積んでおいた徳と言うことができます。だから窮地に陥った人が、助けてくれる徳がないという意味で「不徳の致すところ」と言います。
 
積んである徳が多い人は、預金がたくさんあるように安心で、積んである悪徳が多い人は、借金が多いように心配が多くなります。普通の徳は世俗的な生活を援け、バーラミー(波羅蜜)と呼ぶ高い徳は高度な問題、つまり涅槃に至る援けになるので、徳というものを知っている人は、無駄遣いを嫌い預金を好む人のように、できるだけ徳を積みたいと望みます。
 
テーラワーダ仏教の国では徳という感覚があるので、貧乏人も富裕者も、恵まれた人なれるように、望みが叶うように、誰もが徳を積みたがります。
 
因果の法則を知らない日本人は幸福を望んでも、幸福を生む原因が何かを知らないので、棚ぼたのような幸福を期待するばかりで、徳を積んで溜めておくことを知りません。だから困った状態に陥った時に引き出して使う預金、つまり徳がありません。
 
徳は、見返りを求めず他者のためにする行為から生じるので、徳を生じさせてくれる人がなければなりません。徳を生じさせる人を徳の田(あるいは福田)と言い、貴田、恩田、悲田の三種類があります。貴田はブッダや阿羅漢、聖人、仙人、修行者など人を精神的に導く人、心が闇である人の心を照らす人で、恩田は両親、恩師、その他の恩人で、悲田は貧者や被災者などの困窮者です。三種類の人に布施や奉仕をすると、貴田への布施や奉仕は非常に高い徳になり、恩田への布施や奉仕も高い徳になり、悲田への布施や支援はそれなりの徳になります。

カンマは意図にあるので、貴田である人に、みすぼらしい身なりをしているからと憐れみの意図で布施をすれば、相手が貴人でも悲田への布施にしかならず、あるいは貴人ではない人を貴人と誤解して敬意で布施しても、それは貴田への布施でなく、悲田への布施にしかなりません。
 
こういう知識がある社会では、仏教の布教活動はやり易く、説教者や講演者や仏教書の著者などには、徳を求めている人が進んで協力を申し出ます。支援をする側も受ける側も「一緒に徳を積む(タンブン ドゥアイアカン)」と考えるので、貸し借りと感じないので気の重さもありません。そして一緒に徳を積んだ人は、来世で再び逢えると信じられているので、仲良しや恋人同士、家族などで好んで一緒に布施をします。
 
普通のお寺はみんな、僧を支持する人たちが資本を出し合って土地を買い、あるいは布施された土地に、手作りのことも、業者に請け負わせる場合もありますが、支持者の資金や労力で建物を建てます。
 
人が「徳」という言葉を知っても知らなくても自然界に徳はあるので、徳という物を知って、大きなことを成したい人はたくさんの徳を、普通の幸福を求める人は適度に徳を積んでおくと、人生の危機を乗り越えることができます。一銭も貯金がない人が何かをしようとしても何もできないように、徳がなければ何もできません。
 
徳という感覚がなければ、あるのは「損得」の考えばかりで、運勢的にカンマの報いを受け取る時期が来れば窮地に追い込まれます。銀行預金の種類や金利ばかりでなく、徳の預金や利息の倍率について興味をもって考えて見ませんか。