仏教の天使

近々掲載予定の「イダッパッチャヤター(因果。縁生)」という本を読んで、仏教にも「デーヴァドゥータ=天使」という言葉があることを知りました。ブッダの仏教には神がいないのに、天使とは何だろうと読み進めて行くと、天使は「老・病・死」でした。老人・病人・死人は、不注意でないよう注意を喚起してくれる天からの使いだそうです。 

支部にある経では、人が死ぬと閻魔に捕まえられて尋問され、閻魔が「天使を知っているか」と質問し、愚かな人が知らないと答えると、次に「老いぼれた老人を見たことがあるか」と聞き、あると答えると、「自分が老人になると考えたことはあるか」と質問します。 

同じように病気と死についても質問し、愚かな人は、同じように「病人も死人も見たことはありますが、自分が病人や死人になると考えたことはありません」と答える外ありません。それで誤った見解で死を迎えたと分かるので、閻魔に捕らえられて銅鍋に放り込まれ、斧で切り刻まれ、刃物で薄切りにされるそうです。

老いも病も死も、自分には関係ないことに思えた若い頃は、私自身も自分が死ぬことは考えられても、老いたり、病んだりすることは考えられませんでした。すべての動物は殺された(捕食された)記憶があるので、死の恐怖は本能と言うくらい強くあります。しかし病気は、数日病んで回復する風邪くらいの経験はあっても、重病になることは想像できず、最も想像できないのが自分の老いでした。

祖母や両親の老死は見ているのに、皮膚や身体に現われた老いだけを見て、それ以上のものとは考えたことも、想像したこともありませんでした。 

生き物は人間として一度生きて死んだら、聖人以外は再び人間に戻るまで他の動物に生まれなければならないので、地獄の動物になれば、何百回も死を繰り返します。だからすべての生物が死を知っているのに、天敵に殺される生き物(それが地獄の生き物)は老いと病をほとんど知りません。自分に老いが訪れる前に、少しでも健康に陰りが見えた途端に、若くても、一瞬でも油断をした途端に、天敵に襲われて死んでしまうので、人間以外の動物に生まれた時は、老いも病も知る機会がないからです。

久しぶりに人間に生まれると、老いや病があるので、天使が注意を喚起してくれますが、現代は、老人や病人は施設に行き、死人も家で死なないので、折角天が遣わしてくれた天使を見る機会がありません。

最近次々に起こる天災や疫病は、新しい時代の天使かもしれません。今回のコロナウィルスは、病と死を見せてくれるので天使かもしれません。病が見え、死が見え、致死率が高いのは老人だけということで、老いも見えます。天使を見たら、人は注意深くなり、誤った見解でないよう、悪いカンマを作らないよう、決意を新たにしなければなりません。

同じ本に「罪を作って地獄へ行く人と、徳を積んで地獄へ行く人、そして罪を作って天国へ行く人と、徳を積んで天国へ行く人がいる」とあります。徳を積めば天国へ行き、罪を成せば地獄へ行くと、普段聞いているのと違います。ブッダは、徳を積んでも、罪を作っても、死ぬ時に正しい見解があれば天国へ行き、徳を積んでも罪を作っても、死ぬ時に正し見解がなければ地獄へ行くと認めているそうです。

人生の一時期に徳を積んでも死ぬ時に正しい見解がなければ地獄へ行き、一時期に罪を成しても、その後正しい見解になり、死ぬ時も正しい見解があれば、その人は天国へ行くということです。

だから大切なことは、常に心に正しい見解があることだと思います。老いでも、病でも、死でも、天使を見たら、今自分には正しい見解があるか、振り返ると良いです。悪いこと、失敗の原因などを他人のせいにしていたら、その時心には邪見があります。物が無くなった時、他人が使った、持って行ったと考えれば、その時心にあるのは邪見で、自分が仕舞い忘れたと考えれば、その時心にあるのは正しい見解です。

心に正しい見解があれば地獄に生まれることはないというのは、まだ生まれなければならない人間にとって希望です。心に正しい見解があれば、もちろん生きる上でも最高に安全で、最高に発展するので、老病死を見る度に、今心に正しい見解があるか、サティで思い出してチェックする機会にしたいです。