「極楽」は大乗、テーラワーダは「天国」

日本で生まれ育つと、生まれた時から日本仏教がしみ込んでいて、自分が知っている「仏教」が、本家本元の仏教とかけ離れた物と知ることができません。だからそれが普通で、普遍的と思っています。日本仏教の知識がほとんどなく、いきなりタイ仏教の本の翻訳を始めた時、何の疑念もなく、日本で使われている仏教用語を訳語として使いましたが、理解が進むうちに、ブッダが話された言葉の正しい訳語ではないと思い始め、次第に確信に変わっていきました。

   

それまで「色」と訳されていたルーパを「形」にし、「如来」と訳されていたタターガタを「如行」にし、四梵寿、四無量寿などを四梵住、四無量住など、本来の意味と違うと思う言葉や漢字を、それより良いと考える言葉や漢字に変えてきました。そして最近、「極楽」という言葉は、パーリにある「サワンカ」、あるいはタイ語の「サワン」の訳語と違うのではないかと気づきました。

 

極楽は(大乗、あるいは日本の)仏教で、善行をした人が、死後に行くと考えられている世界ですが、パーリ語の「サワンカ」は、ヒンドゥー教にも、キリスト教にも、どの宗教にも使うことができ、仏教だけでないので、「天国」という言葉の方が相応しいと感じます。

 

大乗の極楽は一度行けば、永遠に住むことができるといわれていますが、ブッダの仏教のサワン、あるいはサワンカはしばらくの間で、一定の時間が過ぎれば、また別の世界に移動しなければなりません。

 

そう思うに至って、自分は大乗の用語はブッダの仏教の言葉と同じではないと気づいて何年も経つのに、未だにそれに気づかずに「極楽」と訳していたことに、ちょっと驚きました。文化というものは空気のように人の心に染み込んで、それが日本だけ、あるいはある地域だけの物であることに気づけません。

 

日本人は仏教の教祖を釈迦、お釈迦様、釈尊と呼んでいますが、それは日本だけで、南伝仏教の人や世界の人が、仏教の教祖は釈迦と認めている訳ではありません。

 

南伝仏教には、律蔵、法蔵、論蔵から成る三蔵と呼ぶ聖典があり、大乗には一切経大蔵経と呼ぶ聖典があります。三蔵という名を知らずに、彼らが小乗と呼ぶ仏教の聖典である三蔵を「南伝大蔵経」と呼んでいる人が結構います。これを例えれば、聖書を「耶蘇大蔵経」と呼ぶようなもので、三蔵は大蔵経の元になっている聖典なので、それ以上です。

 

また「僧侶」という言葉、あるいは人も日本仏教独特のもので、南伝仏教の僧は「僧」あるいは「サンガ」であり、日本以外の大乗仏教も僧と呼んでいて、僧侶という言葉は聞いたことがありません。僧侶という呼び方は、江戸時代に国教になった時、住民を管理する役所の働きをするようになり、庶民の相談役である僧、あるいは幕府や大名の顧問である僧を、「僧侶」と呼ぶようになったのではないかと推測します。

   

それはともかく、「僧侶」と呼ばれる人は日本以外の宗教にいないのに、キリスト教の僧侶、タイの僧侶、ビルマの僧侶などと呼んでいるのを聞くと、そう呼んでいる人は、僧侶という言葉はすべての宗教共通と見ていることが分かります。

 

また、南伝仏教の出家や在家が仏像の前で額づく行為を、NHKの番組で「祈る」「祈り」という言葉で表現しているのを、何度も見たことがあります。これも、「人は自分にある考えでしか、他人を見ることができない」と感じます。庶民の中には、祈っている人もいるかもしれませんが、そしてそういう人たちも仏教徒と呼びますが、南伝仏教、あるいはブッダの仏教には「祈り」はありません。仏像に祈って何かをお願いするのでなく、自分がブッダの教えの実践者であること、ブッダの跡を追っていることを忘れないために、ブッダの像に象徴されている「知る人、目覚めた人、明るい人」であることに礼拝しています。

 

生家は臨済宗でしたが、家は仏壇を維持するだけで、だれも熱心でなく、自分は日本仏教に染まったことはないと考えていましたが、生まれながらに「日本仏教」という宗教の教団員なので、その文化による摺り込みのない目で見ることは、考えているよりはるかに難しいと感じました。