人恋しさは克服できる

人と触れ合いたい欲求は命の生存には関りはありませんが、現代人にとってほとんど本能に近いように見えます。家族が月の半分くらい家で仕事をするようになり、仕事に集中できない長い時間、だらだらと話し掛けて来るので、仕事だけでなく、内面を見つめる時間まで妨害されて、閉口します。

 

出勤しなければ人とお喋りする機会がないので、喋りたい要求は同居人である私に向けられます。昨年コロナで緊急事態宣言が出ている間は、(テレワークの)勤め人も、(オンライン授業の)学生も、家にいる主婦も老人も、誰もが人と会えない寂しさを訴えていました。それは経済的な心配がある人の経済の問題と同じくらい大きな、経済的問題がない人の心の問題のように見えます。

 

私はお喋りが好きなタイプではありませんが、それでも仏教(ブッダダンマ)を知る前は、少数ながらお喋りをする友人がいました。近くで定期的に会って、何でも卑近な話題で話せる友人と、二か月に一度集まる読書会の仲間が数人いて、読書会の後は居酒屋などで雑談を楽しみました。その当時は、それらの友人と会ってお喋りすることは、人生の楽しみの一つでした。

 

そしてごく偶に、急に、訳もなく人恋しさを感じて、昔の友人などに電話すると(当時は固定電話だけだったので)、そういう時に限って電話に出ず、仕方なく別の友人に掛けると、その人も出ないとか、出てもゆっくり話せない事情があるなど、ますます寂しさが募るだけ、のような時がありました。話せる相手が見つからなければ満足が得られない「人恋しさ」は非常に厄介でした。

 

喋ることに喜びを感じ、喋れないと寂しくなる病のある現代人にとって、非常に厄介な問題である人恋しさは、タイの仏教の本を読むと、すぐに簡単に解決しました。理解も実践も難しくないので、コロナ禍で人恋しさと闘っている方は、是非試して見てください。

 

チャヤサロー比丘の「如何に実践するか」という話の中に、次のような部分があります

『人が何かを話す前、何かをする前に当然意図があります。話す、あるいは行動するには、必ず後押しする考えがあります。しかし普段は自分の意図に気付かなかったり、見過ごしたりしがちです。しかしサティがあり、自分自身を見つめることに習熟している人は、行為と意図の隙間を広げて見ることができます。この隙間こそ自分を守り、自分自身に責任を持つものです。

 

 ここにサティがあればサンパチャンヤ(自覚)が追い駈けてきて、何が善で何が不善か見えます。そして不善を遠ざけ、まだ生じていない不善を未然に防ぎ、善を生じさせ、生じた善を成長させることもできます。それは行為と意図の間にサティがあるからです』。

 

この本は、私が初めて読んだタイの仏教の本で、その時十分な意味は理解できなくても、幾つも良い言葉があり、そしてそれらはすぐ実践でき、自分なりの理解で実践すると明らかな結果が見えました。そのことが、ブッダブッダダンマの帰依を生じさせ、後にプッタタート比丘に出会う道を開いてくれた本です。今紹介した部分もその一つです。

 

つまり話したり行動したりする時は、その行動をさせる意図があるので、「話したい」、あるいは「行動したい」と思った瞬間に、実際に話す前、行動する前に「その行為と意図の隙間を広げて見ます」。例えば誰かに会いたいと思った時、なぜ会いたいのか意図を探ると、お喋りをしたいと分かりました。なぜ喋りたいのか、あるいは何の話題で喋りたいのか意図を探ると、新しい知識を得ること、自分にない観点を知ることができる利益もありますが、ほとんどは同意や共感に満足したい気持ちや、称賛などを得る喜びを求めているのが分かります。

 

現代人にとって良い友達とは、傾向が似た考え方をし、容易に同意や共感が得られ、互いに尊敬し合っていて、名誉を傷つけられる心配のない人、つまり安心して楽しく話せる人たちです。話す意図で言えば、驚いてほしい時に驚き、心配してほしい時に心配し、共感してほしい時に共感し、称賛、尊敬など、自分が期待したとおりの反応をしてくれる人で、「苦しい時に助けてくれる友」は高望みです。

 

そう知ってから、誰かに会いたい思いが生じる度に、共感や同感、称賛などを求めている物欲しそうな自分が見え、相手に下心を見破られれば、その作戦は失敗と見なすように、自分の下心が見えると、他人と喋りたい思いは消えました。自分の幸福が他人の態度次第なら、安定した幸福は得られないし、その本にある「自分の心を管理する喜び」あるいは満足と比べると、お粗末すぎると感じたからです。

 

人と喋りたい思い、人恋しさ、寂しさが消えると、非常に生きるのが楽になりました。共感して盛り上がったり、称賛し合って喜んだりしないので、心の静かさが維持され、サマーディも長くなり、自分のすべきことに集中できるようになりました。今のようにたくさんのプッタタート比丘の本を翻訳ができたのは、喋りたい欲を克服したことの恩恵が大きいです。人と喋りたい、喋って、何らかの感情的満足を得たい願望は現代人の病気で、それを捨てられれば、人はもっと静かにでき、心の問題の多くは解決するように感じます。