人の上に立つ人

ブッダは四聖諦の話で、「自分を尊敬し、自分を聞き従うべき人と見ている人には、四聖諦を教えることで救いなさい」と言われているそうです。プッタタート師のどの話にあったか思い出せないのですが、道を教えるには、教えられる人から信頼されていなければならないと言っているその言葉は、強く心に残っています。

 

他人に教えると質問者より上にいるように感じるので、教える力のある人の多くは教えるのが好きです。しかし教える人と教えられる人の間に「尊敬」、あるいは「聞き従うべき人と見る」関係がなければ、非行グループに校長先生が諭しても効果がないように、その「教えること」は結果を期待できません。

 

プッタタート師によれば、ブッダはまた「実践について教えるなら、自分でその教えを実践して結果を出している項目だけにしなさい」という趣旨のことを言われているそうです。これは実際に実践して、ブッダが言われているとおりの結果がでたことだけを教えれば、教えが歪む虞がないからだと思います。しかし自分で実践して結果を見ていれば、教える人として信頼を損ねる心配はありません。

 

子の教育に関わる言葉で「背中で教える」というのがあります。これは、実践する姿を見せて手本になりさいという意味で、共通する物があります。言葉だけで教えて叱れば、反論できない幼な子でも、内心で「偉そうに」という反感が生じ、大きな子や大人なら猶更です。親が実践する姿を子に見せて、その結果を受け取っている姿も見せれば、子は親を見倣って良い習性にすることができます。だから本当に教育の結果を望むなら、親も教師も、言葉で教えるより、自分の背中で教える方が良いです。

 

「教える」話だけでなく、協力を求める、あるいは何らかのリーダーシップを振るう時も同じだと思います。リーダーと集団の間、国の指導者と国民の間に尊敬や「聞き従うべき人」と見なす気持ちがなければ、言葉だけで協力を求めること、あるいは従わせることは困難です。

 

コロナ禍で、若い人たちが自粛要請に従わないのは、首相が自民党幹部や利害のある報道関係者以外のほとんどの人に批判され、国民の多くが批判している人に、尊敬を感じないからだと思います。人の上に立つ人に、自分が世間の手本になる決意、常に自らの襟を正す態度がなくて、人気や人望は得られません。

 

人望のある人になるには、学歴や知識、あるいは財産や年収などより、人間的な誠実さが求められます。誠実であるためは、嘘や二枚舌を使わない言葉に関わる戒が不可欠です。五戒の不妄語、あるいは十善の不妄語(嘘)、不両舌(告げ口)、不悪)、不綺語(饒舌。一定しない発言など)を遵守しなければ、他にどんな徳行があっても、誰にも信頼されないと思います。

 

ブッダは「不妄語戒がないことの一番軽い報いは、誰にも信頼されなくなること」と言われています。「信なくば立たず」という言葉もあります。

私が観察したところでは、嘘を言えば嘘を言われ、いい加減なことを言えば、いい加減な話を聞かなければならないので、不綺語戒を守らない人は、正しい知識や情報が入って来なくなり、正しい情報を聞いても、綺語のカンマによって「正しい」と信じることができないように見えます。

 

嘘、あるいは事実でないこと、事実である確証がないこと、出任せ、言い逃れを言わないことは、人間同士の信頼にとって非常に重要です。これらは武士の世界では当たり前ですが、今の政界に武士の魂を持った人は探すのが難しいということでしょうか。