仏教では、自分が手本とすべき物を持つべきと言います。いつでも手本にする物があれば、何につけても迷わず、心の拠り所にすることができます。ダンマは最高の拠り所ですが、すべてを記憶し、すべての場面で思い出すのは難しいので、ダンマに沿っている(正しい見解の類の)自分の心にぴったりした言葉や歌は、記憶しやすく、思い出すのに都合が良いです。
最近、西条八十の「海の歌」という詩を見つけました。
大いなる 船くつがえす
かくれたる 力はあれど
あどけなし 磯のさざ波
白砂に 小蟹と遊ぶ
満ち潮の 満ちて誇らず
引き潮の わかれ嘆かず
塵あくた のせて濁らず
青き水脈(みお) つねに新し
おおらかに すべてを呑みて
おおらかに すべてを濯い
とこしえに かがやける海
ああわれら生きん 海の心に
大海(わだつみ)の 広き心に
昭和三十年に作られた、古関裕而作曲、伊藤久男歌唱の「三越ホームソング」の歌詞です。
「大いなる船くつがえす、かくれたる力はあれど」は無力無能でなく、偉大な力はあってもひけらかさず、「小蟹と遊ぶ」は繊細な優しさがあり、「満ち潮の満ちて誇らず」は慢がなく、「わかれ嘆かず」は執着や痴がなく、「塵芥のせて濁らず、青き水脈、つねに新し」は、世界の汚れに触れても汚れない例えに、ブッダが好く使われている蓮華と同じです。「おおらかにすべてを呑みて」はタターター(真如)で、「すべてを濯い」は、貪りや憂いなど、常に心の汚れを濯ぐサティ、四念処で、「とこしえに輝ける海」は涅槃です。
歌われている海は阿羅漢の心であり、武士の精神、日本人の理想だと思います。今日は偶々伊藤久男の命日でした。人の一生は短く、残された仕事は永遠なので、何かにつけて昔の人の作品に触れることは、良い事と思い、世俗の話ですが、この歌について書いて見ました。
詩はこのように美しく、意味は深く、曲も壮麗で気高く、このような歌が国歌なら、すべての人に好まれ、誰もが気持ち良く歌えるような気がします。
もう一つ、昔の童謡の「村の鍛冶屋」(作者不明)は、確か小学校低学年の音楽の教科書にあり、子供の頃に歌った歌で、思い出す度に、懶惰と闘う日常生活の手本としたいと思います。こういう言葉は在家の心の宝です。
しばしも休まず槌打つ響き
飛び散る火花や走る湯玉
フイゴの風さえ息をもつかず
仕事に精出す村の鍛冶屋
主は名高きいっこく者で
早起き早寝の病知らず
鉄より堅しと誇れる腕に
勝りて堅きは彼が心
刀は打たねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬、鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まず打ちて
日日に戦う懶惰の敵と
稼ぐに追いつく貧乏なくて
名物鍛冶屋は日ごとに繁盛
あたりに類なき仕事のほまれ
槌打つ響きに増して高し