恩返しと恩送り

先日テレビを見ていたら、「いろんな人から恩を受けて来たので、恩返しでなく、これからは若い人たちに恩送りをしたいと思っています」と話している人(一般人)がいました。これは若い日の自分と同じ考えで、苦々しく感じました。

 

私自身も若い頃、多くの人の恩を受けて今の自分があるので、恩を受けた人に「恩返しをしたい」気持ちはありました。しかし、まだ若かった私は生活に精いっぱいで、恩のある人たちはお金持ちで、遠い故郷にいる人ばかりなので、詰まらない物品を贈ったところで失笑を買うだけと考え、それなら自分より後から来る人たちを援助しようと考えました。

 

恩を受けた人に恩を返せば、二人の間で完結してしまうけれど、恩を受けた人が、バケツリレーのように次々に人を助ければ、支援は永遠に続くので、大きな支援の輪になり、恩返しより社会にとって良いと考えていました。そして誰かを支援する時は、恩ある人の恩を思いました。

 

しかしブッダの仏教を学んで、その考えは完璧に誤っていたと知りました。自然の法則では、受けた恩は借りなのです。

 

お金持ちからお金を借りて、そのお金持ちは返してほしくて貸したのでなく、与えると決めて与えたのでも、自然の真実では精神面の借りができ、返さなければ、踏み倒しになります。他人の恩を踏み倒しておいて、他の人に貸し、「あなたへの恩を、こちらへ回させていただきます」と最初の恩人を思うなど、盗人猛々しい厚顔無恥な人間です。

 

私は「受けた恩は借り」と知らなかったので、自分の頭で考えて、そのような間違った考えをしていました。現世で、助けてくれる温情のある人に多数出会ったのは、たぶん過去世でも、小さな人助けしていたのだと思います。しかし、恩ある人に恩返しをして来なかったので、現世ではあまり発展しませんでした。

 

今では、恩を知ることは、非常に大切なこと分かります。ブッダが「恩知らずは破滅する」と言われているからです。恩は一種の借金、借金以上の借金で、踏み倒せば、世俗的にも、タンマの面でも、発展は期待できないと見えるからです。

 

団塊世代の私が子供の頃は、親も先生方も「忠孝」の考え方に自信を失っていたので、「孝・恩・忠」を口にする人はなく、教えられたことも、考えたこともありませんでした。大人たちは、そういった話題を避けているようにも見えました。生まれた時代を考えれば仕方なかったとは言え、老人になってから知ったのは、非常に不幸なことと思います。それは今でも変わりありませんが。

 

ブッダの教えを学んだ今なら、自分より偉大な人、世の成功者である恩人に恩を返すことは、無理して大きな金額の品物を贈って返すのではなく、近くへ行った時は、その度に敬意を表す品物(手土産)を持って顔を出し、いつでも恩に感じていると、言動で表すべきだったと分かります。

 

私は「尊敬も恩も、日頃心で思っていれば通じる」と、勝手に思い込んでいました。しかしブッダは「尊敬する人には敬意を表しなさい」と言われています。ということは、思っていても通じないということでしょう。

 

だからアジアには表敬という礼儀があり、友達の家へ行ったら、着いた時と、辞去する時、両親や祖父母に挨拶しなければなりません。有名人などは今でも、地方へ行くと、知事や市長などを表敬訪問します。子や孫にそのような昔式の礼儀を教えることは、子や孫の努力を実らせる肥料や日光になります。勉強だけさせて、勉強だけできる子になっても、恩を知らず、恩の返し方を知らなければ、親や、その子が望むような幸福な人にはなれません。

 

恩送り、つまり他人を支援することは良いことですが、恩返しの代わりにはなりません。恩は借なので、返せる状態になったら先に借りを返し、それから他人の支援をするべきです。いくら他人に貸しても、貸主に返さなければ、借金は消えないからです。

 

そして、恩を受けた金銭的価値だけを返しても、例えば百万円支援してもらって、後で百万円返しても、そこには恩が残ります。恩の部分は、繰り返し尊敬と感謝を、体と言葉と心で表す以外に、返しようがありません。