小室さん報道の外国メディアの理解

小室圭さんと眞子さんの結婚問題は、欧米やアジアなど、世界の多くのメディアが取り上げていたようです。ネットで読むと、アメリカでは「日本社会は、皇室の恋愛に厳しい」、つまり恋愛に開放的でないとか、恋愛の自由が遅れていると見、アジアの国では「親の借金の問題が結婚の妨害となっている」と見ているように観察しました。

 

それらの記事を書く人は、特派員などが伝える報道を基に書くので、伝える特派員の理解次第なのかも知れませんが、日本国民が問題視している要点を、正しく掴んで理解している物はないようです。多くの日本人が問題視したのは、親の「借金」ではありません。小室さん親子も借金と言っていないし、元婚約者も貸金と言っていません。法的にも返済を要求できる「借金」でないことは、多くの人が知っています。

 

それでも眞子様の結婚相手としてふさわしくないと心配したのは、「借金ではない(支援)からこそ、返さなければならない」という道義に欠けることです。

 

小室さんの母親は、息子の教育費を助けてくださいと、再三メールで元婚約者に援助を要求し、その都度支援を受けていたのは事実のようです。その息子が皇室と縁組をするほど立派に成人したのを知った元婚約者は、生活困窮を理由に、支援した額を返してほしいと要求しました。ここで「返す」という言葉を使ったのが、事をややこしくしているのかも知れません。

 

問題はその後の小室さん親子の態度にあります。困窮時に世話になった人が、今は困窮しているから「お金を返してほしい」と言った時点で、拒否できる立場になく、拒否する理由もありません。「借金でないから」と主張していましたが、借金でないからこそ「恩」があります。恩を無視して、法的解釈だけで、(借りたのではない)自分の(母の)名誉を守るために「返さない」という主張は、日本社会では異様に感じました。

 

日本はブッダの仏教の国ではありませんが、今でも武士道の名残としてブッダの教えが生きています。プッタタートのサイトにある「仏教徒の文化」に「何でも収拾するために、譲る側、許す側になり」とあるように、事を収めるために犠牲になることを尊び、そういう行動をする人を称賛します。だから損をしても、結果として名誉を維持できます。

 

西洋や仏教の教えのないアジアの国では「自分が損することを選ぶ」考えを理解できないのだと思います。仏教文化のない国は物質文化で、物質主義なら「損をすることは不名誉で、不道徳」と理解します。日本人でも自分の事になれば、多くの人は日本の文化的な名誉より、損得を重視してしまい、ごく少ない、気高い心の人だけが、仏教的、日本文化的な名誉を維持するために、自分の利益を犠牲にできます。

 

だからこそ、損得だけを規準に行動する人は、皇族の結婚相手としてふさわしくないのではないかと、国民の多くは、親心のような思いで心配したのだと思います。誹謗中傷をした人もいたかも知れませんが、極一部の人と信じます。

 

外国メディア、あるいは外国人に理解できないこの問題の、外国での報道の様子をネットで読んで、そうした国々に理解できない物(本当の仏教文化)がまだ日本にあることに、安堵しました。日本人が外国人のように「借金を返せば問題はない」、あるいは「借金ではないので、返す必要はない」「小室さんに問題はない」と見るようになったら、江戸時代から続いてきた、日本の高い精神文化は終わります。