こんな本が欲しかった「アリヤシーラダンマ(聖人の道徳)」

半年ぶりに「アリヤシーラダンマ」を公開しました。今回は道徳の話です。

江戸時代にはブッダ仏教文化で完璧な道徳のある国だった日本も、幕末から西洋との関りができ、通訳として中国人が港町に住むようになり、西洋の物質文化を真似ると同時に西洋的なマナーが伝来し、そして第二次世界大戦後は、民主主義の影響で、古い道徳は次第に消滅しました。

 

民主主義の普及に比例して人々に道徳がなくなり、最初は教諭や警察官、公務員などの犯罪などから始まり、世間の人がびっくりしましたが、今では法曹界でも総理大臣や警視総監が不正や犯罪をしても驚かないくらい、すべての階層の人に道徳が無くなりました。

 

そういう状況を見て、ただ嘆かわしいとだけ感じていましたが、そのような状況がなぜ生じるか、すべての人が同じ社会で暮らしているのに、道徳がない人とまだある人の違いはどうして生じるのか、プッタタート師の話を聞くと良く理解できました。

 

すごく良い生活を望むこと、あるいはすること、あるいは美味しさ、楽しさを追求する生き方が、人を煩悩の奴隷にし、人は煩悩の言いなりになるので、煩悩の敵である道徳を嫌い、捨てます。師は、「美味しい物や、良い物を食べなければならないように変化させないでください。汚職をしなければならなくなります」と言っています。つまり美味しい味やすごく良い生活に酔うことが、道徳をなくす原因だと。これは目から鱗でした。

 

世界一味に執着する中華民族は、他の人たちより道徳がないと、世界の誰でも分かります。旅行者の誰もが、あるいは自国の人さえ「美味しい物がない」と認めるイギリスは、かつて紳士の国と呼ばれました。美味しい物がない国や地域で、道徳がない所はたくさんありますが、それは、カンマの報いとして美味しい物が得られない状況があり、世界中から何でも集めることができたけれど、美味しい物に興味がなかったイギリスと状況が違います。

 

江戸幕府や社会も、一部の商人は別として、十分な収入と蓄えがあっても、丁度良い生活、慎ましい生活を好んでいたから、高い道徳と発展があったと理解できます。師の話は、いつでも新しい発見がありますが、今回も期待を裏切りませんでした。

 

自分の子どもに「他人の迷惑にならない範囲で、自分の好きなことをしなさい」としか教えられない人たちを見ると、昔の人のように国や民族を背負う必要はないけれど、自分の好きなことだけをするよう教えていれば、日本の文化は数十年で地に落ちると憂えていました。しかし自分は自分として、どうすれば善いか知りませんでした。このアリヤシーラダンマの話には、「子どもはこのように育てると良いです、自分はこのように目指せば良いです」と言える具体的な項目があるので、これからはこれらについて考え、熟慮し、自分で実行することができ、人にも勧められます。

 

大人も同じで、自分を内面的に高めたいと思っても、五戒や八戒、十善などの他に、どのように目指せば良いか分かりませんが、人間として、滅苦を目指す人間として、日常的に何をどう心掛けるべきか、非常に具体的になので、これに沿って自分を教育することができます。既に同じ系統で努力している人は、どれだけ身についているか、自分で成績表を作って見ることもできます。

 

聖人の道徳「アリヤシーラダンマ」は、このような話が聞きたかった、このような本が読みたかったと思える一冊でした。