ワールドカップで注目されている日本文化は仏教文化

ネットニュースを見ると、サッカーのワールドカップで、試合の内容だけでなく、選手や監督やサポーターなど、日本人、あるいは日本の文化が称賛されているようです。それらを読んで悪い気はしませんが、嬉しくも誇らしくも感じないのは、それも日本文化だからかも知れません。

 

外国人たちが称賛しているのは、仏教では「当たり前」のことです。正しいことですが、正しいことはできて当然、できなければ非難され、特に称賛することではありません。仏教が教える正しい行いはたくさんあり、仏教は完璧な滅苦のために完璧に正しい行動をするよう目指すので、一つだけできても、あるいは一部だけできても褒めません。そして褒められることを喜ぶのは煩悩の人で、正しい見解の人は、むしろ忠告を喜ぶからです。それは、次のブッダの言葉でも分かります。

 

『可愛がることで支援する利益を求める、可愛がる人である教祖が、すべての弟子にすべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。それはすべての木の根元、それはすべての廃屋。

比丘のみなさん。油断をしないで煩悩を燃やす努力をなさい。みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は』。

 

『アーナンダ。私は、土鍋屋がまだ(成形したばかりの)濡れている柔らかい土鍋を扱うように、あなたたちを大事にする努力はしません。アーナンダ、私は休まず叱ります。アーナンダ、私は休まず咎めます。本質である道果がある人は耐えられます』。


 『私たちは、常に叱ってくれ、常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」と見なければなりません』。

 

一つできたら褒め、二つできたらもっと褒める、異教の文化と違います。

 

経済誌記者の記事を紹介している「日本人サポーターのゴミ拾い、代表チームが試合後にロッカールームを清掃したことを称賛」という文章には、次のようにありました。

 

『世界のメディアに取り上げられるなど認められた数々の行い。続けて、「これらの日本人ファンの言葉にはリーダーシップが詰まっている。“リスペクト”という言葉は、日本人自身にも、対戦相手にも、他者やあらゆる人々に向けられている」と日本文化の美徳ついて触れている。 「選手たちは目の前の試合に勝つためにプレーしていると同時に、長い目で見た時のレガシーも残そうとしている」 「日本の真似をするのは難しい。しかし、日本が示した模範例に他のチームが続いてほしいと願うことは求めすぎだろうか? 他の国が何をしていたか関係なく、一緒に取り組んだことによって、自分自身のためだけではなく、全ての人たちをより良くすることを求めるのは」』

 

ゴミを拾い、部屋を整頓するのは僧の勤めの一つで、仏教文化として広く社会に浸透しています。西洋では、掃除は低い身分の人がすることで、身分の高い人はするべきではないと考え、お寺で比丘が時間のある時に庭を掃いていると、西洋人比丘が「そんな仕事は人を雇えば良い。なぜ比丘がするのか」と抗議すると、プッタタート師話していました。片付けや清掃は、仏教では人としての嗜みで、他の宗教では賤しい身分の人がすることです。

 

自分と他人を尊重するのは、「謙遜」という仏教の教えです。謙遜は、自分を相手より低く表明して、相手を尊重します。合掌や首を垂れる挨拶、持参したお土産を「詰まらない物」と言う、褒められても喜ばず、否定するなどは、謙遜を表す習慣です。

 

「目の前の試合に勝つためにプレーしていると同時に、長い目で見た時のレガシーも残そうとしている」と言うのは、勝負だけでなく、時間を超えて残る物を意識しているという意味で、それは「名を汚さない」ことのように聞こえます。そのような意味なら、それは仏教の「慚愧」という教え、恥と怖れを知ることです。

 

今まで、このような日本文化を褒める外国人はほとんどなく、これらの教えに由来する日本の伝統習慣を、卑屈とか、プライドがないと批判する人がたくさんいました。しかし今、ワールドカップで、世界中からこれらの文化を称賛する声が上がっているのは、不思議な感じがします。

 

米国の経済記者は「日本が示した模範例に他のチームが続いてほしいと願うことは求めすぎだろうか? 他の国が何をしていたか関係なく、一緒に取り組んだことによって、自分自身のためだけではなく、全ての人たちをより良くすることを求めるのは」と言っています。今一時の盛り上がりで日本を称賛している人たちの多くがこの人のように考えるなら、あまりに抽象的すぎる「日本文化」とだけ見ないで、それらの日本文化は本当は「ブッダ仏教文化」と知れば、ブッダの教えを学ぶことで体系的に学習でき、段階的に理解でき、実践すれば自分の身についた習慣や習性にできます。

 

日本文化と捉えて形だけを真似れば、一つ一つの行動を善行と捉え、褒められれば喜び、褒められなければ落胆し、嫌らしい行為になってしまうこともありますが、仏教文化と捉えて、なぜそのようにするかを知って行動すれば、より本物の、見て快い行動になるからです。