翻訳雑感

(年頭に当たり、2012年6月にミクシィの「ダンマダーの日記」に書いた物を転載します。

 

プッタタート師が比丘のエリートコースを歩むのを止めて、自分で実践の道を切り拓く決意をしたのは、三蔵の翻訳の問題が直接の切っ掛けでした。パーリ語の試験をするアーチャン側の求める訳とターン・プッタタートの考えが一致しないので、そのまま勉強を続ける気持ちになれず、還俗をして俗人に戻るか、独学でパーリ語の勉強を続けるかという選択の中で、迷 わず、ブッダヴァチャナ(仏語)に基づいた実践法を探して実践する道を選びました。

 

インタビューによる自伝の中で、「他の人の翻訳のほとんどは好きでない。満足できない」と言い、 『翻訳するには私の好きな原則があります。聞いて意味がハッキリ分かること、聞き易いこと、そして 内容がパーリ語と一致して、読むと同時に、すぐに理解できることです』と言っています。

 

私は邦訳の経典をきちんと読んだことはありません。読みたいと思ったことはありましたが、プッタ タート比丘の言葉を借りれば、「翻訳が好きでない」ので、読む気になりませんでした。しかしネット で部分読みした限りでは、傲慢に聞こえるかもしれませんが、満足する訳文に出合ったことがありま せん。

聞いたこともない漢語と漢語を繋げるだけで、たぶん訳者も本当の意味を掴んでいないので はないかと思われる、意味が分からない文章も多いです。読めるものでも、「読んで意味が分 かる」だけで、読者の理解まで考慮している訳文はないように感じました。

 

日本の翻訳者は学者が多いので、読者に理解させることには関心がないのかと考えていました。し かしタイのように翻訳者全員が出家でも同じようです。

「なぜ彼らは読んで意味の分からない文章 に訳すのですか」という問に、プッタタート師は、『大昔から、現代語に訳すのを好みません。 重要な教え、あるいは重要な要旨はどうか、読者がもう一度熟慮して訳語の要旨を探さなければなりません。多分現代の話し言葉で書くこともできます。しかし市井の言葉を使うと神聖で有り難いも のと見なしません』と答えています。 学者や出家が訳すと、翻訳したものが難しい学問に見えるよう、神聖で有り難いものに見えるよう望むようです。

 

自分が訳したものの価値を誇示したいだけで、読者にその内容を理解させ、更に は実践してもらい、仏教の教えを広めたいブッダの遺志を継いだ意図はないようです。つい 最近タイ語から和訳された経に、中世のような文語訳がありました。こういうのは、どういう読者を想定して訳しているのか理解できません。自分がそういう文章を書ける、という能力に満足しているだけのように見えます。

 

私も、『聞いて意味がハッキリ分かること、聞き易いこと、内容がパーリ語と一致して、読むと同時に理解できること』というターン・プッタタートとまったく同じ原則があります。読むと同時に、つまりもう一度考え込まなくても理解できるには、日常会話レベルの平易な文章でなければならないので、極力漢語は避けます。漢語は、もう一度意味を解釈しなければならない言葉だからです。

 

 たとえば「夕食を摂った後入浴して就寝する」と言うより、「夕ご飯を食べた後お風呂に入って寝る」 と言った方が、意味がハッキリと分かります。前者は大人の文章で、後者は幼児でも分かる文 章です。大人なら前の文章でも意味は分かりますが、本当に理解するには、「就寝というのは寝 るってことだ」と、無意識にもう一度意味を砕かなければなりません。

 

「聞き易いこと」と同じと思いますが、私は自然な文章を心がけています。たとえば 『その時世尊は比丘たちに話しかけられた。 「比丘たちよ」 「師よ」』という文章があります。 「比丘たちよ」は良くても「師よ」はいけません。師は三人称に使う言葉で、二人称では「先生」 という言葉を使います。「よ」という接尾語は、文語の詩などを除いて、普通目下に使うもので、目上 には使わないのではないでしょうか。

 

奇妙な造語や、難解な漢語、不自然な言葉の使い方などが あると、そこで集中力が切れてしまいます。せっかくそれまで読むことで静まっていた心が、不自然 な語句に出合った瞬間乱れて、サマーディが失われます。読むサマーディが失われれば、考えが 浅くなるので、「自然」で「読み易い」文章でなければなりません。

 

 タイ語で「パッタナー トゥア エーン」という言葉が、自己開発と訳されているのがありました。私は、 この自己開発という日本語も意味が良く分かりません。パッタナーは「発展させる」や「開発する」と いう意味ですが、「自分を発展させる」という意味、つまり「自分を進歩向上させる」という意味だと理 解しています。二つは意味やイメージするものが大分違います。

 

ブッダ釈尊は別人なので、ブッダの訳語に釈尊、あるいはお釈迦様を使うのは間違いです。この ことは、何度も書いているので、詳しくは昔の日記をお読みください。中には、二つの名前を重ねて 使う人もいます。一つだけより荘厳に聞こえる効果があるのかもしれませんが、そんな感じの意図、 あるいは使っている人の煩悩を感じます。

 

 五蘊の最初の蘊であるルーパは「形」を意味しますが、従来の仏教では「色」と訳されています。本 当は「形・受・想・行・識」のところが、「色・受・想・行・識」と訳されています。ルーパという言葉の意 味は形ですが、内容的には身体を指しています。受以下の四蘊が心で、形は身体です。だから身 体より上の話であるアビダンマを、形而上学とも言います。 「色欲」「色情」「色事」などという言葉に使われる「色」は、ルーパの「身体」という意味で使われてい ます。だから色欲は「肉体の欲」、色情は「肉体に関わる情」、色事は「肉体の事」です。外処入(六 境)である形・声・臭・味・触・考えの形も、同じように色と訳されています。

 

ルーパを「形」でなく「色」と訳すのは、中国で始まったようです。慧能の「六祖壇経」の古い版にも、 「色」という語が使われていました。慧能は仏教を中国へ伝えた達磨大師から百年から二百年弱 しか経っていないので、最初から間違って訳されたのかもしれません。

 

 私はルーパを「形」と訳しています。昔からの訳語を変えると混乱すると忠告してくれる人がいますが、 古い知識への執着がなければ、「この訳者は色と訳さず、形と訳している」と感じるだけです。間違 を正すのに遅すぎることはなく、熟練者や大家に遠慮しなければならない話でなく、読者と訳者の信頼の問題、訳者の教祖への誠実の問題です。

 

従来の釈尊の教えとブッダの 教えには、同じ語句でも定義が違うものが多いので、従来とは違う新しい知識である象徴としても、「形と訳すことは良い」「意味が深い」と考えています。 ルーパという語に「色」という意味がないのに、他の人がみなそうしているという理由で色と 訳すような、いい加減なことはできません。「真実だけを言いなさい」という、「サンマーヴァーチャー =正語」に反してしまいます。

 

 私は、訳文は意味が伝わるだけでは不十分で、素人の仕事と考えます。明快に意味が掴めるこ とは基本で、その上文学作品なら感動が伝わること、実用文なら内容が明解に理解できること、説教なら、説教者の意図や心情まで読む人に正しく伝わり、確実に理解と実践の役に立たなければ ならないと考えます。だからブッダの言葉を伝えている経なら、ブッダが相手に理解させようとしている意図まで伝わるような訳なら、非常に良いと考えます。

 

しかしブッダは阿羅漢サンマーサンブッダですから、一般人と心の状態が違うので、ブッダのセリフ にどんな言葉を使うか、凡人が推測で語彙を選ぶのは難しいです。タイ仏教を知る前に本当のブッダの教えを知りたくて、書店の原始仏教コーナーで立ち読みした時、「バカ者め」というブッダのセリフ を見て、この訳者は「ブッダ」とはどんな心の人かを知らないと分かり、「ブッダ」とは何かを知らない人が、ブッダの教えを正しく訳せるはずがないと考え、その本に興味を失くしました。立ち読みした限りでは、どの本も、煩悩のある人の言葉を使っていて、満足する訳に出合えませんでした。

 

 私がこだわっているもう一つは、固有名詞の表記です。固有名詞は、当人や当地の人が名乗って いて、実際に使われている音を尊重すべきだと考えています。昔日本のマスコミは、韓国人の名前 を「リ ショウバン」とか「キン ダイチュウ」などと日本語読みで伝えていましたが、今は「イ ミョンバ ク」とか「パンギムン」など現地の発音で表記します。これは、日本語読みをしていた時代は、日本 国民に韓国朝鮮を下に見る気持ちがあったこと、そして韓国が経済的に発展した時、その感覚が薄れたことを表しています。

 

 つまり現地の音と違う読み方を押し通す心には無意識の傲慢さがあるので、私は使いたくありま せん。だから「プッタタート」をわざと「ブッダダーサ」と呼ぶ時、その心の中を見ると、微妙な高慢や、 自己顕示欲などが見えると思います。だから現地の人が呼んでいるように、プッタタートと呼んで欲 しいと思います。

 

タイの首都クルンテープバンコクと呼んでいるのは、バーンコーク(チャオプラヤー川の西岸の地域)に都があった時代の名残かもしれませんが、事実と一致しません。現地の人呼び方を無視する心には傲慢があるので、現地の呼び名を尊重する意味で、私はクルンテープと表 記しています。奇をてらうつもりはありません。

 

 プッタタート師が自伝の中で、「気に入った翻訳がなかった」という意味のことを言っているの を読んで、「私も、今までの翻訳家の訳は気に入らなかったのかもしれない」と気付きまし た。