チッタとヴィンニャーナ

前回心の構造について触れたついでに、もう少し心について書いてみたいと思います。ブッダは、動物(人)は名(ナーマ。抽象)と形(ルーパ)、心と体で成立していると見ます。心の部分を受・想・行・識の四つに分け、それに体である形(ルーパ)を足すと五蘊になると規定しています。

一般に「体と心」と言う場合の心は、実は二層になっています。一番分かりやすい西洋の言葉で言うと、mind とspirits の二種類で、マインドは体にと直結している心の部分で、感覚、記憶、注意集中、意思決定、情動、気分、自覚などです。マインドと体は同時に変化し、同時に上下します。スピリッツは体と関わらない独立した心で、マインドより高い道徳や宗教、思想などの部分です。

日本語では、spirits を精神と言い、mind を神(シン)と言います。パーリ語ではmindはチッタ、spirits はヴィンニャーナです。

mindの部分を指す日本語はあいまいで、調べて見ると、「①mind=精、②spirits=神」と言ったり、「①心理、②神気」と言ったりしていますが、それらの言葉の意味するものの境界が同じでなく、二つの物を明らかに区別できる言葉でないようです。

貝原益軒は養生訓で『調息の法、呼吸をととのへ、静かにすれば、 息ようやく微かなり。かくの如くすれば神気定まる』と言っています。アーナーパーナサティの第一部、身随観では、呼吸を整えて心(チッタ)を静めるように、「息と並行して定まる、あるいは静まる」のはspirits ではなく mindです。

日本語には使い慣れた良い言葉がなく、使われている言葉も定義が確定していないので、私は「神(シン)」と「精神」という言葉が、分かりやすくて一番良いと思います。広辞苑の「神」の意味には、「身体に宿っている心」とあり、体との関係がはっきりしています。神経は神が走る道、失神は一時的に心を失うことと、他の言葉との関連を見ても納得できます。精という字は混じり気がない、白くする、気力があるなどという意味なので、精神は混じり気のない神、力のある神です。

 

五蘊の形は身体で、受・想・行・識は心ですが、受は感じる部分、想は記憶し思い出す部分、行は考える部分の心で、この三つがチッタ、マインド、あるいは神と見えます。最後の識はパーリ語でヴィンニャーナと言い、ヴィンニャーナは、仏教用語では「識」と訳しますが、一般には「精神、魂」と訳すので、これがスピリッツ、精神の部分である心です。このように五蘊を見ると、心は二層になっていることが分かります。

感覚、記憶、知識、注意集中、意思決定、情動、気分、自覚などの範囲である、受・想・行であるマインド、あるいは神は高等動物にもありますが、道徳や宗教、思想などの範囲である、スピリッツ、あるいは精神と呼べる部分は人にしかありません。

カンマターナ(業処。あるいは瞑想)はマインド、神の部分の訓練です。色んな物を見て、聞いて、嗅ぎ、味わい、触れる度に、この部分の心(神)は休みなく変動し上下するので、安定しませんが、外部のどんな情報を受け取っても動じなくさせる訓練が、各種の瞑想です。しかしどんなに訓練しても、どんなに習熟しても、想受滅に至らない限り、努力で生じさせたサマーディが失われれば、心はもとどおり、不安定に戻ります。

 

だからブッダの方法は、四念処も、アーナーパーナサティも、心の訓練から初めて(身随観=体)、少しずつ智慧の部分に移動し(受随観、心随観=神の部分である心)、最後には智慧だけ(法随観=智慧、精神)にし、いつまでも体の影響を受けるマインド、神の段階の訓練に留まっていません。

 

精神の部分を育てるには、精神的体験と呼ばれる熟慮、あるいはヴィパッサナーをして、ただの体験を、何があっても消えない、変わらない智慧にすることだと思います。「もう懲りた」「こう悟った」と言える状態にして心に銘じれば、それが精神の部分の知識にすることです。精神の部分の知識を智慧と言い、これがその人の、宗教面から見た価値だと思います。

 

瞑想家の多くの人が、瞑想だけで解脱するとか、瞑想で悟れると発言しているのを聞きます。しかし神(チッタ、あるいはマインド)の力だけでは、心を支配している間だけの仮の解脱、一時的な涅槃はできても、本当の涅槃、完璧な解脱はできません。

薬物などを止めるには、初めは意思や気力や集中力などで自らを禁止しても、それだけでは本当に止めることはできず、何かの機会に再発する可能性があります。しかし「如意足のメカニズム」に書いたように、智慧や知識の部分(宗教や道徳である精神の部分)の力は神を支配できるので、薬物の魅力と、身体的、社会的、道徳的、宗教的な観点の害について、とことん学んで本当の恐ろしさを知れば、智慧の力でマインド、神を支配することができ、「二度と戻らない」というところに至ると思います。わずかでも、完全に止められる人もいるようですから。

同じように、心から無明を追放するには、神(チッタ、マインド)の話であるサマーディだけでなく、精神の話であるブッダの教えを学んで、自然の真実を漏らさず知り、如意足には如意足の四つが必要なように、涅槃に至るには何が必要か、涅槃に至らせる物を生じさせるにはどうするか、その過程を熟知して、初めから順に実践していけば、いつか阿羅漢に到達するはずです。

 

だから仏教は智慧の宗教と呼ばれます。神と呼ぶ心(チッタ、あるいはマインド)の力で解脱できると信じるのは、仏教の見解でなく、ヨギーなどの見解のように見えます。