如意足のメカニズム

何年も前、何週間も微熱が続き、動悸や息苦しさ、不眠、血圧の高下などの症状もあり、寝ていても辛い日々が続いた時、取り敢えずどこが悪いのか調べてもらおうと病院へ行きました。症状から疑えるだけの項目を詳細に検査しましたが、「どこと言って悪いところがない。むしろ年齢にしては良い数値ばかりだ」と言われて帰ってきました。すると一日付き添っていた家族が、「本当は病気じゃないんじゃないの? 病院にいる時は苦しそうに見えなかったし、元気そうだった」と言いました。

 

家で歩く時は、家具に掴りながら小さな歩幅でゆっくり歩き、イスに掛けるのは食事の時だけで、食べ終われば一秒も早くベッドに戻り、食事途中で横になることもありました。病院へ行く時のタクシーの中でも、できれば横になりたいほどでしたが、病院へ到着すると、そこは人目のある場所なので、できるだけ大股でゆっくり歩きました。家にいる時のように体を屈めた見っともない姿で歩くのは、体は多少楽でも、精神的な意味で受け入れがたく、非常に苦だからです。

 

テレビ番組で医師が「お年寄りは、診察している時は元気そうでに見えても、本当は重症なことがある」と、つまり「診察室では大変そうな様子が見えないが、それを信じると重症を見落とす虞がある」という趣旨の発言をしているのを聞いたことがあります。病院へ診察に行った日の家族の発言と、クリニックで診察している医師の発言が意味する物は何なのか、熟慮してみました。

 

最近の芸能人は、仕事中に絶命するのを理想とする人が何人もいて、亡くなる数日前まで撮影に参加し、あるいは舞台を勤める人がいます。中には病気を隠していて、報道で聞いた限りでは、周囲の人も、その人が亡くなるまで病気であることに気づいてない場合もあります。

 

美空ひばりは最後の数年間は病苦との戦いで、最後のTV番組の収録の時、プロデューサーに「この番組が最後になるかもしれないからね。私ねえ、見た目よりもうんと疲れているのよ。一曲終わる度にガクッとくるの」と話したそうです。立っているだけで精一杯の体で、歌い終わる度に舞台の袖で体を横たえ、目を瞑って喘ぐように休息しながら、不死鳥コンサートを成し遂げた時の舞台裏の様子を、ドキュメント番組で見たことがあります。あれほどの重態でも、精神力だけで非常に体力を消耗するコンサートを敢行できるものかと、不思議に思った記憶があります。

 

ブッダヴァチャナによるブッダの伝記を読むと、その時私が「精神力」と見た物は、実は「如意足」ではないかと気づきました。

如意足の如意とは「思いのまま」という意味で、足と言うのは、動物やテーブルのように四つあるので脚と呼びます。つまり「四項目の魔法」という意味です。

 

1.欲(チャンダ) それにを愛して満足すること
2.進(ヴィリヤ) その努力すること
3.心(チッタ)  本気で関心を持つこと
4.思惟(ヴィマンサー) それの道理をひたすら広く調査し熟考すること、の四項目です。

プッタタート比丘は、次のように説明しています。

『チャンダは、自分が「人間が得るべき最高に善い物」と信じる物として満足することで、この項目は、後のすべての項目が功徳を生じさせる、最初の気力になります。

ヴィリヤは努力で、成功するまで長く途切れることのない連続した行為を意味します。この言葉は、一部に勇敢という意味が含まれています。

チッタは自分の気持ちからそれを放り出さないで、いつでも心の中で、その目的をはっきりさせておくという意味です。この言葉には、サマーディという言葉の意味が十分に含まれています。

ヴィマンサーはその成功の原因と結果を、いつでもどんどん深く調べて熟慮することを意味します。この言葉は智慧という言葉の意味を十分に含んでいます。

この四つがある人は、人間にとって不可能でないことに成功します』。

 

死に近い芸能人を例にすると、舞台などを勤めることを「最高に良いことと信じて満足し(欲)」、そうする努力し(進)、途切れることなく決意を維持し(心)、医師やスタッフなどと相談して、最善の策を練っておく(思惟)ことで、人間にとって不可能でないことを成功させる如意足(魔法)になります。

 

老人の中に、病院で普段より元気に振る舞う人がいるのは、人前で見苦しい姿を曝さないことは「最高に良いことと信じて満足し」、「そうする努力をし」、「途切れることなくそのことにサマーディがあり」ます。そうすることの結果は、自分自身の沽券を維持するために不可欠と、熟慮とは言わないかもしれませんが、確信しているので、如意足の四つが揃います。

病院でシャキッとしていても、普段より苦しいということはありませんが、家に戻ると、病院にいた時のようにシャキッとできません。それは「満足」も「努力」も「本気」「原因と結果の熟慮」もないので、如意足(魔法)を維持する意味を感じないからだと思います。

 

ブッダは、自身の死をアーナンダに予告した後、「四如意足で一劫(世界が一回終わるまでの時間)でも生きられる」と言われています。二度、そのように言われ、二度とも、アーナンダが「死を遅らせてください」と言わなかったので、涅槃の直前になって「まだ涅槃なさらないでください」と懇願すると、ブッダは「もうできないと」と拒絶なさり、予言通り涅槃されました。

 

また同じ頃、ブッダは「サンカーラの変化による苦受を受け取り、如意足で凌いでいる」とアーナンダに話されています。 

意志の強い芸能人は一日、あるいはリハーサルなどを含めて数日維持することができ、一部の老人は、診察に行く数時間だけ維持できるので、ブッダのように本当の満足と、努力、完璧なサマーディと思惟である本物の四如意足があれば、本当に一劫でも生きられるのかもしれません。

 

もう一つ、別の角度で熟慮すると、プッタタート比丘は、ある話の中で「人には心と体があるが、心の部分は神(シン)と呼ぶ部分と、精神 と呼ぶ部分があり、一つではない。神は体と繋がっている心で、精神は、体がどんなに苦でも、少しも影響を受けずに維持できる」と話しています。

普通に心と呼ぶのは、実は神で、体が苦なら神も影響を受け、反対に恐怖や不安などで神が病めば、次第に体も不調を来たし、表裏のように深い関係です。しかし精神は、思想犯などはどんなに拷問を受けても転向しないように、体がどんなに苦でも、幸福でも揺らぐことはありません。

 

この見方は日本にも昔からありました。神経というのは、体に影響される心の部分である神が走る経路で、安神薬は、体でなく、神の部分を落ち着かせる薬と分かります。mental と spiritual という言葉があるので、西洋にも「心には二つの部分がある」という見方があったと思います。

 

精神と呼ぶ部分は体の影響を受けない、純粋に心だけの部分です。宗教や、宗教的な環境は、精神の部分を育てると考えます。そして強い精神は、体に支配される部分である神を管理できると思います。だから如意足のメカニズムは、精神による神と体の支配と見ることができます。

 

如意足という言葉を聞いたことがない庶民でも、(体やメンタルの話ではない「満足」と「努力」「サマーディ」「周到さ」は、精神の話)、強い精神の人は、死の直前など、ここぞという時に如意足を使うことができるようです。ブッダは、一部の人が使っている、あるいは自分自身も使う不思議な力をご覧になって、その心を分析して要素を探し出し、四如意足を規定されたのだと思います。

 

またブッダは「人が四如意足に励んでたくさんし、乗り物のようにし、敷台のように安定させて、すべてを良く訓練すれば、堅忍不抜になり始め、その人が望めば、一劫でも、一劫以上でも存在することができます」。

「比丘のみなさん。このように四如意足に励んでたくさんしたので、私はこのような神通のある人になり、いろんな軌跡を見せることができ、一人の人を大勢にすることができ、大勢を一人にし、隠れた場所を明らかな場所にし、明らかな場所を隠れた場所にし、空気の中を歩くように支障なく壁や塀を通り抜け、水に潜るように大地に潜って浮かび上がることもでき、地面を歩くように水面を歩くことができ、翼のある鳥のように結跏趺坐したまま空を行くことができ、掌で太陽を撫でることができ、梵天界まで体の威力を見せることができます」と言われています。3-3. (hahaue.com)

 

だからいつでもそのように如意足努力することで、どんどん心が堅忍不抜になり、最後には神足通まで習得できるかもしれません。

 

ブッダの言葉によるブッダの伝記には、「これが主な仕事としてチャンダに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」「これが主な仕事としてヴィリヤに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」「これが主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」「これが主な仕事としてヴィマンサーに依存したサマーディがあり、作る物が揃っている四如意足」というブッダの言葉があるので、同じ如意足のサマーディにも、「満足、努力、心、智慧」と、依存するものの違いによって四種類あることが分かります。