心を強靭にする四如意足

大相撲春場所の十四日目に、それまで一敗を守ってきた尊富士がその日勝てば、新入幕の優勝は百十年振りと言うので、久しぶりに相撲を見ました。しかしあっけなく負け、足の靭帯を損傷して歩けなくなり、病院へ救急搬送されました。「今日勝てば何年振りの」という前触れは時々耳にしますが、滅多にないから百十年もの時が経ったのだと、つまり今回も期待外れに終わったと思いました。

 

翌日、当然休場と思った尊富士が出てくると聞いて、まだ希望は残されているので見ていると、多少足を引きずってはいるものの、危なげない相撲で勝利し、百十年振りの優勝を果たしました。

 

会見の言葉で、尊富士の前日からの心の変化を読むことができるので、一部を引用します。

 

『その時は僕も諦めていたが、横綱が自分のところに来て「どうだ」って言って。「ちょっとこの状況じゃきついです。ちょっと歩けないですし」と答えたら。横綱自身の話を聞かせ、「お前ならやれる。記録はいいから、記憶に残せ。勝ち負けじゃない。最後まで出ることがいいんだよ。負けてもいいから。しょうがない。でもこのチャンスは戻って来ないよ。俺もそういう経験がある」横綱に言われた。

 

その瞬間に歩けるようになった。怖いぐらいに。さっきまで歩けなかったが、スイッチが入って第二の自分がいるみたいに、急に歩けるようになった』と話しています。

 

大怪我をした力士が、翌日、信じられないような力強い相撲で勝利し、優勝するのは、以前にもありました。私が観だけでも、膝の半月板を傷めた貴乃花(光司)、左肩を負傷して出場して優勝をした稀勢の里も同様の、あるいはそれ以上に奇跡的な勝利をしています。

 

初めて貴乃花が見せた奇跡を見た時は「信じられない」と感じましたが、今は、それらはブッダが「四如意足」と言われたダンマと分かります。

 

四如意足とは、欲・精進・心・思惟の四つで、パーリ語でイッディパーダと言い、奇跡を起こせるダンマです。

 

欲とは「そうする」ことを愛し望むことで、

精進はそれをするための継続した努力、

心は、そのことを集中して考え、

思惟は、成功の原因と結果を広く調査し熟考すること。

四つ揃えば、奇跡を現すことができます。

 

尊富士の言葉を引用すれば、照ノ富士に励まされて「出たい」欲が生じ、「ここで負けたら15日間みなさんが大阪場所に運んできた意味がないと思った」のは欲を生じさせた考えです。

 

「当日も本当に正直歩けないじゃないですか。実質痛いには変わらないので。でも自分で言った以上、土俵に恥ずかしい姿をあまり見せるものじゃないですけど、見せてもおかしくない状況の中で、俺は気持ちで絶対に負けたくなかったですし、ここまでやってきたことが意味がなくなる。逆に自分の中では出た方が今後の相撲人生に大きく変わってくると思ったので、もう気合いでやりました」この「気合」と言っているものが、ブッダの「如意足」というダンマです。

「本当にいろんなパターンとか、怪我しているので相撲の取り口を考えたが、やっぱり気持ちで負けたら見ている人も残念にと思いますし、(その日の」解説(者)が師匠だったので、変な相撲取ったら自分が師匠に言った「自分から出ます」と言ったのが、僕が嘘になってしまうので。これは負けてもいいから、記憶(に残る相撲を取る)だけで(いいからと言われた)」と言っています。これらは如意足の思惟、つまり熟考です。

 

そして当日、土俵の上で「努力」と「心(集中力)」がありました。

 

 初めての経験なのか、「怖いくらい」という言葉を何度も使っていました。怪我をしていて、激痛があるのに無理をして戦うのは怖いです。しかしその怖さを乗り越えれば、確実に犠牲にしたもの以上の結果があります。成功の原因と結果について熟考済みだからです。そして物質的結果より大きいのは、若者の弱い心が、少しずつ強くなり、次第に、何があっても動じない強い心の人になれることです。

 

仏教では、このような如意足を日常生活で使えば、心が強くなると言います。「今日はだるいから仕事を休もうか」「少し体調が悪いから、予定を変更しようか」などと迷った時、それが職務か、他の何らかの義務なら、その義務を愛し、義務を行いたいと欲し、出て行くことの意義や結果について熟考し、努力と集中力でやり遂げることができます。

 

昔の人には、まったくと言っていいくらい心の病気がなかったのは、今の人より精神が強靭だったからです。昔の人の精神が強靭だったのは、現代人のように便利な生活でなかったので、水汲みを休めば水が飲めず、飯炊きを休めばご飯が食べられないので、余程のことでもない限り、仕事を休むことができなかったからではないでしょうか。

 

私は、祖母や父が床に伏せているのを見たことがありません。友達は祖母さんが寝ているのを見たことがなかったが、お祖母さんは「今日は元気」と感じる日は一日もなかったと述懐したと話してくれました。

 

昔の人も生身の体を持っていたので、時には、あるいはしょっちゅう体調が悪いことはあったでしょう。しかし「気力」で何十年間も、一日も休まず自分の職責を果たし、休まないことを誇りに、弱音を吐くことを恥と思っていたようです。

 

物質的な発展が限界に近付けば、精神的な衰えが始まります。日本でも、社会にいろんな事故や事件、災害がある度に、精神面のケアを必要とする場面が多くなりました。このように軟弱になってしまった心を、どうすれば強靭に鍛えることができるか、折に触れ考えていました。そして尊富士の千秋楽を見て、日常生活で如意足を使えば、心を強靭に訓練できると気づきました。

 

今の人の心が弱くなったのは、日常生活で我慢することが無くなったからかも知れません。団塊世代である私たちの親はまだ頑固親父が多く、我慢することばかりだったので、自分の子供にはそんな思いをさせたくないと、優しすぎる、理解のありすぎる親になったことが、子供と自分自身の心を弱くしたのかもしれません。

 

よく「心を鍛えるには、自分の心に勝つ練習をする」と言われます。この場合の「自分の心」とは煩悩で、煩悩の言い成りにならないことを自分に勝つと言います。煩悩の言い成りにならないと同時に、弱音を吐かない、自分の弱腰を叱る、お腹が空いても騒がない、多少の不満で騒ぎ立てないなど、自分を甘やかさないことは、確実に心を強靭にすると思います。そして心が強くなれば、その分だけ苦が減ります。