幸運を期待しない説法

「阿羅漢の足跡を追って」の序章に、次のような文章があります。

ブッダは五欲が完璧な王位を捨て、世界の先生の地位に就かれました。説法から見返りや報酬を望まれるなら、王位を捨てず、その地位に就きます。その時のことについて述べたパーリでは、ブッダ、あるいはダンマを説いた弟子に献上品があったと暗示するものは(後世の解説書以外の)どこにもありません。当時の説法は説法者の義務で、その場で教えるか、アドバイスしなければなりません」。

 「今はそのようでなくなり、主催者の招聘なしに説法をしたがる人はあまりいません。金品を渡さなければならない習慣があるので、説法は聴きたい金持ちの義務になりました。あるいは何かちょっと儀式をし、あるいは名声に関わり、説法者を探して徳を積む価値がある説法をしなければなりません。自分の住まいに呼ぶこともあり、住んでいる寺ですることもあります。本当は阿羅漢の後を追うブッダの弟子は志願して、あるいは機会を探して、ブッダのように説法をすべきです。そうすれば相応しいです」。

 「相応部のラーバサッカーラ相応では、思いがけない幸運(貰い物)の話をたくさん話されています。見本として述べれば、「比丘のみなさん。思いがけない幸運と供物が、まだ学ばなければならない、まだ阿羅漢果に到達していない比丘に触れれば、当然その人にとって危険です。比丘のみなさん。このように学びなさい」。これだけでも、思いがけない幸運とダンマは離れているべきと見ることができます」。

 「思いがけない幸運(貰い物)がある所にダンマはなく、ダンマがある所には幸運はありません。思いがけない幸運(貰い物)はダンマを追い払い、ダンマは逃げます。だから教祖の教えを思いがけない幸運のために教えてはならない、あるいは説いてはならないということです」。

 「彼らが献上するので「信仰を祝って」と言い訳して受け取るのは、十分理由のある言い訳ではありません。最高の真実は、「受け取らないことこそ、信仰者と本当のタンマにとって喜びであるべき」です。支援のために 寄進するなら、説法に関って寄進するべきではありません。それは憂鬱になり、受け継がれる罪である伝統になります」。

 

日本では招聘して説法をしていただく習慣はありませんが、入場料を取る、会費を集めるという形で、あるいは瞑想会など他の行事とセットで料金を取る場合が多いようです。タイでもどこの国でも、阿羅漢の後を追う人から説法を聞けなければ、職業である僧から説法を聞くしかありません。そのような時、プッタタート師は次のように忠告しています。

「私たちのような普通の凡夫、あるいは私たちより貪りと怒りが厚い人から聞いても、プラタム(ブッダの教え)への敬意で聞くべきです。凡夫から説法を聞いて聖向聖果に到達した人の例は、たくさんあり、聞けば当然智慧を得るからです」。

 

しかし私は、私たちのような凡夫、あるいは私たちより貪りと怒りが厚い人から聞く時は、「説法者は私たちと同じ凡夫、あるいは私たちより貪・瞋が多いこともある」と判断できる智慧がなければならないと思います。黄衣を着ている人は全員正しい教えを知っていると信じ込まない方が良いです。

 

出家をしても資格試験のような物がある訳ではないので、そのダンマの知識が正しいかどうか保証はありません。その人が信じている教えが正しいかどうか計る物は、その人自身の言葉や態度に現れている静かさ(サマーディ)や品性なので、智慧のある人が良く観察すれば見えますが、(サマーディが)普通の人には難しいです。

 

カーラーマ経の十の項目で熟慮して、その教えは、本当にブッダがそのように教えているか、それを実践したら本当に苦が減るか、冷静に、いろんな角度から繰り返し熟慮して見るべきです。その教えを実践すれば、本当に滅苦ができそうだと思ったら実践して見て、少し苦が減ったら本気で実践して、本当に苦が消滅したら、つまり初等の聖人になったら、その時話者を信じれば良いと思います。

 

「阿羅漢の後を追って」の中に「ダンマを教えとし、人物を教えにしない」という言葉がありますが、凡夫ほどダンマより人物を重要と見て、人物に夢中になります。タイでは人気のあるアーチャンには熱中するファンが多く、人気歌手やスポーツ選手に逆上せ上がるように一人のアーチャンに熱狂し、支援者の多いアーチャンは、集めた資金で豪勢な建物を建てます。

 

しかしそのアーチャンが亡くなってしばらくすると、熱中できる別のアーチャンを見つけて、熱狂的に支援してしまうようです。それらの人は、誰でも良いから熱中できる人物が欲しいだけのように見えます。だから「ダンマを教えとし、人物を教えにしない」ことは、非常に重要と感じます。

 

もう一つ、一般人でも出家でも、「この人はいい加減なことを言う」と観察して見たら、その人の話は、注意して聞く方が良いです。常日頃から真実でないこと、いい加減なことを言わないよう注意していなければ、話すことの真偽に関して迂闊である習性の報いで、真実である知識や情報が、その人に入って来ないことがあるからです。

 

自分自身も、誰かに知識や情報を提供する時、それは真実か、事実か確認する努力をし、自分が考えたことなら考えたと、思うなら思うと、聞いたのなら聞いたと、本で読んだのなら読んだと明らかにし、「自分が話すことは全部、確定的真実」と聞こえるような話し方をしないように注意しています。本当のブッダの教えを知るためには、自分もブッダの教えを聞くにふさわしい人物にならなければ、相応しくない人の耳には入って来ないからです。