アパーヤムッカと最近の世界

ブッダの仏教にはアパーヤムッカという言葉があります。富田竹次郎編の「タイ日辞典」には「破滅の原因」「悪趣への道」とあるので、日本の仏教には、一語で足りる簡略な訳語はないようです。だから、そのような概念は日本に入って来なかったのかも知れません。

 

破滅や悪趣への道は、飲酒、賭け事、女遊び、悪人との交際、あちこち見て歩く、怠けるなどがあります。飲酒や女遊びなどは説明不要と思いますが、悪友とは、ダンマでない方向の、俗悪な物を嗜むことに誘う人で、ダンマの話をしない友人(飲食や遊びの友)全般との交際です。あちこち見て歩くとは、芝居や音楽、歌、見世物、いろんな芸、現代なら映画やミュージカル、ライブ、ショッピング、テレビを見ること、家でも車内でも、どこでも音楽を聴く、映画などを見る、スポーツ観戦など、何でも見て聞いて楽しむことです。どれも今の世界のほとんどすべての人は、日常的にアパーヤムッカに親しんでいるように見えます。

 

世界のほとんどの人がアパーヤムッカと親しんで、アパーヤムッカ浸けになっていれば、そのカンマの結果を現生で一斉に現すために、世界にいろんな出来事が必要になります。昔は、破滅をもたらすために異常気象や大災害や戦争が、数十年から百年くらいに一度起こる必要が生じます。戦前に生まれた人は、全員が戦争を経験しました。それらの世代のほとんどが亡くなった今、戦争を知らない世代に、アパーヤムッカであるカンマの結果、あるいは他のすべての悪のカンマの結果をまとめて受け取る機会として、何かがなければなりません。

 

第二次世界大戦の後、大きな戦争は起っていないので、戦争に代わる、戦争と同じように多岐に渡って影響がある出来事として、コロナウィルスやウクライナ問題が起きているように見えます。この二つは、政治、経済、食糧、医療、教育、失業、経済格差、国家による自由の束縛、エネルギー問題など、あらゆる範囲に及び、世界中の誰も、何らかの形で影響を受けない人はいない状況です。

 

戦争になれば、直接戦争をしていなくても、何らかの形で自由が束縛され、物資は減って値上がりし、求めにくくなり、エネルギーも欠乏しがちになり、何かにつけて我慢を強いられる生活になります。直接戦っている国なら、直接命の危険、あるいは脅威に曝されますが、すべては国民のカンマ次第です。

 

日本の社会を見ると、1980年代から90年代に、アパーヤムッカの塊である海外旅行がブームになり、多くの人が悪のカンマを作りました。

 

スポーツ観戦を見ると、スポーツ観戦が、まだ相撲と野球だけだった頃はさほど騒がしくありませんでした。相撲の観戦は良い相撲が見たいのであり、良い相撲なら、誰が勝っても満足し、あまり贔屓をして、敵を憎みませんでした。Jリーグができた頃から観戦の仕方が熱狂的になり、贔屓のチームに執着して、敵であるチームを攻撃する形の応援になりました。その頃(アパーヤムッカと執着が強くなった頃)から異常気象が常態化したように観察します。

 

それからアパーヤムッカに入り浸ると、収入のすべてを自分と自分たちで使いたくなり、周囲の助けるべき人を助けないので(親戚づきあいが希薄になり、友達は表面だけになったので)、蓄えるべきでないお金を蓄えた結果、財産を失う形の被害が増え、地震や洪水、土砂崩れなどが多発し始め、最近は竜巻も発生するようになったと見ます。

 

アパーヤムッカはお金の無駄遣いに関わる行為ですが、それらを楽しむことで、どんどん身勝手が増え、身勝手になれば執着が増え、誤った見解の悪循環で、今日のように苦の多い生活になっていると見えます。

 

飲酒、夜遊び、女遊び、いろんな催しを見ることができなくなったコロナウィルスの流行は、アパーヤムッカに入り浸った生活への警鐘かも知れません。今は音楽に乗って踊るのが流行りのようですが、音楽を聴いたり、踊りを見たりするだけでも破滅や悪趣の入り口なのに、自分で演奏したり踊ったりすることは、どれほど破滅を加速するでしょうか。

 

現代人は、飲酒や夜の街を遊び歩くこと、芝居や音楽や踊り、映画やテレビを見ることは、昼と夜のように、仕事と休息のように生活に必要不可欠なものと見ています。以前に書いたように、江戸時代の上級武士は仏教が血の中にある人だったので、庶民がアパーヤムッカを嗜み過ぎると、幕府は贅沢禁止令を出し、質素な生活へ戻しました。だから江戸時代の人は破滅の門をくぐる機会がなく、静かで平和な時代がニ百五十年も続くことができたと思います。

 

飲酒や夜遊び、旅行やエンターテーメントなどを、ブッダは「破滅の原因」「悪趣の門」と言われていることを知り、社会全体として抑制する方向にならなければ、世界の破滅は近いと思います。