事実は人物の外にあり、心の中にはない

 ある人と仏教の状況についてやり取りをしている時、相手の人が「あなたが言っていることは事実ですか」と質問してきました。「それは事実です」と言うほど自信過剰ではないし、「事実ではありません」と言えば、五戒の不妄語に触れます。仏教の歴史や、各国の仏の状況など、誰がどう話せば事実と言えるのか、事実とはどういうものか、その人は知らないように見えした。

 

 事実とは、それを正しく把握し、言葉で表現できる人は誰もいない物のように見えます。例えば一組の男女がどこかで出会ってプロポーズしただけの話(双方にとって嬉しい事柄)でも、双方が話す事実が違うことは珍しくありません。それが離婚する話(不満な事柄)になると、ほとんど一致する部分がないほど、双方が捉えている事実には大きな喰い違いがあります。事実は一つであるはずなのに、煩悩がある人が自分の感覚で捉え、自分の言葉で表現する時、人それぞれに「正しさ」があるように、事実はそれぞれ違った物になるので、一致しないのは当たり前です。

 

 だからニュースでも刑事事件でも訴訟でも、人の外部にある物である事実を、正しく言葉で表現できる人は誰もいません。新聞やテレビのニュースでも、厳密に中立という立場はなく、できるだけ中立に近くなるよう努力をするだけで、取材をする人、原稿を書く人、その原稿を選ぶ人の主観による偏りがあり、「それが事実」「それは事実」と言うことはできません。

 

しかし世間には「新聞に書いてあることは事実」、「教科書にあることは事実」、「大学者が言うことは事実」「辞書にあることは事実」、「大勢の人の言うことが一致していることは事実」などと信じている人たちもいます。そういう人は、そのような所から得た情報や知識を「事実」あるいは「真実」と信じ、それを知れば、自分は事実を知ったと見なすのでしょう。

 

 いろいろ考えて見ると、事実は誰かの心の中にある物ではなく、人物と人物の間、人物(観察者)の外側にある物で、観察者は「自分が把握した事実」以上の事実を知ることはできないのではないかという結論に至りました。だから裁判官などは、複数の人が言う「事実」を聞いて、人の心の中にない、本当の成り行きや状況である事実を探し、小説家は複数の登場人物の視点で同じ出来事を観て、一つの真実を描くのだと思います。