平等に暮らすのは苦

 ブッダは「四つの階級も同じで、カッティヤ(武士)もバラモン(司祭)もヴェッサ(商人)も、スドゥッタラ(労働者)も、出家して私が公開したタンマヴィナヤ(この場合は教団というような意味)に入れば、当然全員が自分の古い名前と家名を捨て、当然新たにサキヤプティヤ(釈迦族の子)のサマナと呼ばれます」と言われているので、「仏教は平等を説いている」と主張する人がいます。

 

しかしプッタタート師によると、ブッダは「平等に暮らすのは苦」と言われているそうです。ブッダの教団は、出家すれば、どの階級の人も平等にブッダの弟子になりますが、教団内には出家年数による序列があり、一日でも早く出家した人は、「先輩」として敬わなければなりません。同じ先輩でも、年数の多い人ほど敬わなければならない世界です。仏教では上下がないのではなく、上下に分ける基準が、当時の世間のように、生まれや身分でないだけです。

 

寺という言葉の語源である「テーラ(サンガの規定による長老)」は、新参比丘にとって尊敬しなければならない人ですが、それは出家して十年を経過した人で、年数を規準にしています。そして後輩が先輩に対して守らなければならない言葉遣いなども、ブッダは細かく規定しています。また社会や家庭内でも、年長者を尊重するよう教え、「親も子もない、先生も生徒もない、サマナもバラモンもいない、年寄も若者もない」という見解を、誤った見解と明言しています。

つまりすべての人の日常生活で、すべての人が平等に暮らすことなど、説かれていないということです。

 

だから大乗も含めた仏教文化の国では、長と老を敬う慣習があり、大勢の人が集まる場所では、相応しい席順を守らなければなりません。つまり上の者と下の者を区別して扱う文化と言うこともできます。それは社会的には、上下があることは秩序を生じさせ、それによって安定や平和が生じ、穏やかな幸福が維持でき、進歩発展が期待できます。個人的には、長老を尊重することは善のカンマで、行動した人の心を素直にし、苦を生じさせないからだと思います。

 

2010年8月5日のペルー コピアポ鉱山落盤事故の経過をWikipediaで読むと、地下に閉じ込められた三十三人の工夫が、10月13日に全員救出が完了するまでの二カ月を超える月日を、地下で安全に過ごすことができたのは、自然に、必要な役割分担ができ、全員がそれらの指示に従ったからと分かります。相応しい資質と責任がある現場監督がリーダーになり、適任者を見出して医療係、宗教係、精神科ケア係、外部との通信係などを決め、他の人はリーダーや係を信頼することで一致団結して、最初は食べ物も飲み水もない苦境を、大事なく乗り越えました。平等を主張し、全員平等に行動して右往左往していれば、全員が餓死、あるいは仲間内の争いで滅びたかもしれません。

 

ブッダはいろんな場面で「団結」を教え、(告げ口など)団結を破る行為を禁じ、非難しています。団結するには核である人、リーダーが不可欠です。だから団体には必ずリーダーや監督、オーケストラには指揮者、劇団には監督、建設現場にも監督、調理場には料理長など、指揮監督する人がいます。全員が同じ技量があったとしても、統率する人は必要で、技量に違いがあればなおのこと、上下の序列は必要になります。

 

何としても結果を出さなければならない仕事の現場では、元々平等に持ち合わせていない技量や資質の人が平等を主張したら、混乱と停滞だけで、一歩も進めません。端役を嫌って、誰もが主役をしたいと主張すれば、配役を決めることもできません。

 

最近、河野ワクチン担当大臣が「平等性」と言ったのが気になりました。全国にワクチンを割り振る時、感染者や感染率が高い大都市がある都道府県も、毎日の感染者が一桁、あるいは無い県も人口割で配るのは、大火事が拡大している県と、まだ火事がない県とを同じに、平等に消防車を配置するのと同じで、中学生にでもできる分配だと思います。

 

もし治療薬の不足が生じれば、「治療薬の平等性」と言って、重傷患者のいない県と、感染爆発している都府県と同じに配分するかもしれません。

 

平等は民主主義と同じで、自然の在り様を見たことがなく、自然の在り様を知らない人が、西洋人から聞いて「素晴らしい」と見て夢見る妄想です。平等に働いて平等の所得を得ることを夢見た共産主義は、半世紀もしないで崩壊しました。たとえ同じように働いても、人はみなカンマが(働く意図の種類と強さが)違うので、同じ結果を受け取ることはあり得ず、受け取る結果に差が生じなければならないので、時間の経過によって歪が大きくなり、経済主義としての共産主義は、自然の法則で崩壊しました。

 

通常の患者が待っている内科医の待合室に、呼吸困難を起こした人が運びこまれれば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。通常診療の患者が待っている産科医の待合室に、切迫流産の人が駆け込めば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。そのようなことはどこにでも普通にあり、誰も文句を言う人はいません。順番の平等性より、緊急性、必要性の優先を認めるからでしょう。

 

冒頭のブッダの言葉にあるように、人を平等に扱うことは世間にあまりない良いことですが、良い結果が生じる場合だけを周到に考えて使わないと、愚かになり、滑稽になります。平等は自然にない概念なので、何にでも使う物ではないように見えます。