仏教用語の総入れ替え

今日は私が考える「タンマを読んで理解できない理由」を書いてみます。

まず初めに、「タンマを理解できる」という意味ですが、知識として理解でき、理論として説明できることではなく、すべてが「そうだ、そのとおりだ」と納得でき、罪を恐れる気持ち、悪を恥じる気持ちが生じ、ブッダの教えに対して全幅の信頼(信仰)が生じ、それ以外の教えに興味を失い、ブッダが説いた道を邁進する努力をする決意をしないではいられない心境になることを、私はここで「タンマを理解する」ことの意味とします。本当に理解すれば、当然そのような心境になるからです。

ターン・プッタタートの講義録を読むと、毎回のように、初めにタイトルの説明をし、タイトルに使った語句や関連語句の定義を説明しています。ブッダヴァチャナを読むと、ブッダは、自分が発見した真理を普通の言葉で説いたので、一つ一つ、たとえば貪りとはどういうことか、恨みとはどういうことかと、タンマで意図する意味、タンマの分類や規定を説明しています。なぜなら、普通の言葉で普通に話せば、普通の話、世俗の話しかできません。すべての用語をブッダの規定や分類で定義しなければ、ロークッタラの話にならないからです。

熟慮して見ると、この手間を惜しんで省けば、あるいは軽んじて見過ごせば、正しい理解は望めないくらい、これは「正しい理解」にとって非常に重要に見えます。なぜなら人は言葉を組み合わせて考え、理解するので、話し手と聞き手の言葉の定義が一致していなければ、正しい理解は望めないばかりか、反対に混乱が増し、その人独自の間違った理解を生じさせるからです。

たとえば「東京は・・・」という話をしても、話し手が東京都をイメージして話し、聞く人が二十三区をイメージして聞けば、話は混乱し、聞く人は話す人が伝えたい内容を理解できません。だから「東京二十三区は」とか、「東京都全体」はと、範囲を明確にすれば、それによる混乱は生じません。

タンマの話(この場合は、ブッダの言葉を正確に伝えているもの、つまり正しく理解して実践すれば涅槃に至るタンマ、例えばプッタタート比丘の説くタンマ、あるいはプッタタート師の訳によるブッダヴァチャナ)をする時に使われている仏教用語を、従来の(大乗の)仏教用語の解釈で理解すれば、意味するところが微妙に違うのもあり、あるいはまったく別物の場合もあるので、正しい理解は困難です。

以前にも触れましたが、例えばルーパという言葉を、漢訳では「色」と訳していますが、正しくは「形」で、通常は人の体のことを言っています(英語では corpreality )。
色即是空というのは、形、つまり体は空であり、実体がないので、自分のもの、自分、自分の実体と捉えることはできない、という意味です。形を色と捉えると、意味が曖昧です。ブッダは「なぜ形と言うかは、崩壊する性質があるので、形と言う」と言っています。この文は、色では成立しません。だから色即是空という言葉をイメージして理解できる人がいないのだと思います。

四大種の「土」は、漢訳では「地」と訳されています。辞書を引くと、「土」にも「地」にも「土。地」という説明があるので、まったく同じ意味のようです。物質的には同じ物でも、感覚としては、土は地より意味が狭く、一握りでも土ですが、一握りでは地とは呼びません。地は意味が広く、大地、土地、地面など、ある程度の広がりのある(足の下にある)地球の部分を言うと思います。

「地・水・火・風」は、大乗が見ている世界がすべて外部の自然であることから、外部の大自然をイメージした言葉のようです。ブッダが規定した四大種は、五蘊をすべての世界と呼んでいることから、五蘊の形=体、特に自分の体を構成する四つの要素です。土または地とは、例えば軟膏やクリームを作る時、複数の薬剤をまとめる基剤のようなもの、体積のある要素のことなので、地よりは土の方がイメージしやすいです。だから私は従来の「地」ではなく「土」という訳語を当てています。

八正道の「サンマーサマーディ」は、漢訳では「正定」と訳されています。しかし、サマーディと定も、地と土のように意味している状態は同じですが、表している範囲が違います。サマーディは、仕事でも遊びでも、大人も子供も修行者も、心が一つの感情に専心しているすべての状態を現す一般の言葉ですが、定とは、初禅から四禅までの形禅定だけで、無形禅定以上は、定(ジャーナ)ではなくサマーディ、またはサマーパティです。

三学の戒・定・慧は、原語の意味は、戒・心・智慧です。定という言葉は、定を重んじる人によって、必要以上に多用されているように見えます。

慈・悲・喜・捨は、パーリ語も漢語も、他人を幸福にしたいと願うこと、他人の苦を除いてやりたいと願うこと、他人の幸福を喜ぶこと、動じないことと、それぞれの意味は同じです。しかし、ブッダが言ったのは四梵住で、四梵住は実践の結果として到達する境地ですが、大乗では四無量心と呼んで、大きな修行の柱です。

これは今思いついたほんの一例です。私はほとんどすべての用語が、このように違うと見ています。

日本語には、たくさんの仏教用語が混じっていますが、すべては大乗の言葉の意味で、ブッダの言葉のように緻密な規定がありません。大乗は世俗諦なので、涅槃を目指す話ではないので、国語として通用している意味だけで十分だからでしょう。しかし涅槃を目指すタンマを学ぶ時、厳格に規定された言葉で語られた話を、大乗の不鮮明な意味で解釈すれば、正しい理解は不可能です。

何度も書いているように、タイでもビルマでもスリランカでも、中国台湾、チベットや日本などでも、一般に使われている仏教用語は、普通の人が普通に使っているのを見ても分かるように、本当に滅苦ができる話をするブッダの定義ではありません。すべての用語をその類の解釈で読めば、深遠な話ほど意味が理解できません。話の内容と、語句の定義の種類が違うからです。

世俗諦の話には世俗の定義の言葉で、ローグッタラの話は、ローグッタラの意味の定義を使わなければなりません。プッタタート師がヒト語タンマ語と分けているように、同じ語句でも意味するものが全く違うからです。

しかしプッタタート比丘の話を読まれる人のほとんどは、用語の意味の規定に気づかず、従来の用語の智識、つまり「私の理解による仏教用語」でブッダの教えを知ろうとしています。ブッダの教えは、古今東西の誰の教えとも違うので、まったく別世界の話なので、話されている言葉も、世間で話されている一般語とは違う厳密な規定(言葉の定義)があるに違いないと考えて、注意深く言葉の定義に注目する人が、いるでしょうか。

あるいは、ブッダもプッタタート比丘も、しばしば言葉の規定について説明しているので、それを読んで、「これは重要だ」として記憶する努力をする人がいるでしょうか。その部分を注意深く読んで理解して、古い知識を改めて、新たに記憶しなければ、その後の講義を読んでも徒労に近いと言うものです。

疑や戒禁取などのサンヨージャナ(結)を捨てる前の段階で、従来の仏教用語で使われている意味はブッダの教えではないものとしてすべて放棄し、どんなに簡単そうに見える言葉でも、ブッダが規定した意味にすべて入れ替える慎重さが求められます。なぜならブッダの教えと従来の(お釈迦様や仏陀の)教えは、まったく別の体系なので、ブッダの弟子が、お釈迦様の言葉を使うことはあり得ないからです。

あるいは先の二つのサンヨージャナを捨てた場合は、自然にそうしているはずです。また、古い(仏教の)言葉や古い(仏教用語の)感覚を捨てることで、同時に疑や戒禁取は無くなっていきます。

ブッダが規定した言葉ではない、世間一般で使われている意味をそのまま信じているなら、それは古い(本物でない)知識への間違った信頼、広い意味で戒禁取=本当の道でないものを本当の道と執着すること=と言えると思います。

ブッダの規定した言葉の意味に関心を持たず、従来の仏教用語の意味、つまり古い知識を使ってブッダの教えを読むのは、世俗の部屋に座って、窓を開けてローグッタラ(脱世間)の木の実に手を伸ばしているようなものだと思います。

ブッダの教え」と「仏教と呼ばれている宗教」の教えが全く別物であることが、まだ良く理解できないから、ブッダの教えを読むのに、仏教と呼ばれる宗教の用語の智識で理解できると考えているのです。従来の言葉の定義を使っていれば、どんな論理をを熟慮しても、足はローギヤ(世間)に立っているので、ローギヤの域から出られません。

仏教用語の意味を、すべてブッダが規定したように入れ替える努力を続ければ、その度に二つの世界を繋ぐ窓が広がり、それだけで、いつか気づいた時にはローグッタラの世界にいるかも、つまり聖人になっているかもしれません。