「現世、来世」は世界ではない

プッタタート比丘のサイトを読んでいたら、「現世、来世」という言葉と、「後世」という言葉に、同じ「世」という文字を使っていて「おかしい」という考えが生じました。後世は後の世なので、意味として正しいですが、「現世、来世」は「この世界、未来の世界」という意味で、今生きている「この生」、次に生まれる「次の生」という意味ではありません。(ちなみに現世は「うつしよ」と読み、この世界のことです)。しかし今使われている「現世」の意味は、生きている間(今生)を意味し、「来世」は、次にどこかで生きる生を意味するので、文字と意味が一致しません。

 

元のパーリ語は「現在のジャーティ(現生)、次のジャーティ(来生)」と言い、「ジャーティ=生」という言葉を使っています。文字通り「現在の生、未来の生」です。パーリ語でもサンスクリット語でも、この「生」という言葉が、いつどこで「世」という文字になったのか知りませんが、何千年も前から使われているように見えます。

 

来生を次の世界と理解するので、ほとんどの人は、人が死んだ後に行く別の世界があり、死後はそこに生まれるとイメージします。前世は現世と違う世界で、来世も現世と違う世界で、宇宙には数えきれない世界があって、そこを巡っているように感じます。それは、事実でないので、聞いた人は信じる価値のない、バカらしい話と考えます。

前世も現世もこの地球で生き、来世も再びこの世界(地球)へ生まれ戻って来なければならず、ただ生物の種類と、生きる場所、生活する地球の一部分が同じとは限らないだけと知りません。

 

これは大した問題ではないように見えますが、世界の真実を知る上で、非常に大きな間違いがあります。

 

死んだ後「死後の世界」へ行くなら、極楽浄土や地獄の話になり、この世界で輪廻をする話ではありません。浄土思想の人たちが「現世、来世」という字を使い始めたのでしょうか。国語辞典には、「今生、来生」という言葉もあるので、初めは「生」という文字が使われていたということもあり得ます。

 

 日本語で「この世、あの世」と言えば、現世と来世を意味しますが、パーリ語、あるいはブッダの仏教では、この世はこの世界、有為である世界、無明の人の心の中に広がる世界のことを意味し、「あの世、あっちの世界、向こうの世界」と言えば、無為である涅槃を意味し、明の世界です。同じ「この世、あの世」でも、これほど意味するものが違います。

 

だから日本の仏教と違う教えを説明するには、ブッダが話された原語の意味を、できる限り正しく伝えなければなりません。似て非なる語句が至る所にある日本では、特に注意と配慮が必要不可欠と感じます。

 

テーラワーダの話を翻訳しながら、辞書にあるという理由だけで、ジャーティという言葉の訳として、よく考えもせず「世」という文字を使った自分自身のうかつさ、いい加減さに驚愕しました。そして「現世、来世」などの言葉が使われていると思われる講義の文字を、気づいただけ「世」から「生」に修正しました。

 

「ルーパ」を形でなく色と、「タターガタ」を如来と、「土」を「地」と、天国を極楽と、「お釈迦様」を「ブッダ」と変えたのは、小さな違いのようですが、ブッダが説かれた真実を理解することにおいて、決して小さな問題ではありません。言葉や文字が違えば、イメージするものが微妙に違い、真実を理解できないからです。

 

何年も前から、既存の仏教用語の間違いに気づいていながら、今もまだ、新しい仏教用語の間違いに気づいている自分自身に驚きました。しかし気づいたことを「遅い」と驚くより、気づいて修正する機会に巡り会えて良かったと喜ぶことにします。今は気づかない間違った訳語がまだあるなら、一つでも多く気づいて、正しくしたいと願っています。辞書にある言葉を尊重して使われる先生たちにはできない、荒業だからです。

 

新しい訳語を使うのは、好みの問題でなく、事実なので、多くの人々が新奇な訳語に慣れて、従来の訳語に対する我語取が薄れれば、あるいはパーリ語ブッダダンマを勉強する人が増えれば、遠くない将来、いずれ正しい訳語に替わると確信しています。