カンマより怖い随眠

随眠という言葉を聞いたことがあると思います。煩悩の一種で、普段は本性の中で眠っていて、時々起きて来て働くと言われています。プッタタート師は「怒りを倉庫に閉じ込める」という話の中で、次のように話しています。

 

『一度怒ると怒りの随眠、パティカーヌサヤという美しい名前の捨て難い物を作ります。一度怒ると、一度パティカーヌサヤが増え、しょっちゅう怒れば、怒る癖が増えるという意味です。その癖をアヌサヤ(随眠)と言い、漏れる用意ができます。アーサヴァ(漏)と言います。一度怒ればそれで終わりと理解しないでください。それは非常に愚かです。怒る度に怒りの随眠が増え、怒る癖はどんどん濃くなるので、益々怒りっぽくなります。

 だから怒らないように注意すれば、煩悩に餌をやらないで餓死させるのと同じなので、それが一番良いです。よく怒れば、あるいは毎日毎日、しょっちゅう理由もなく簡単に怒るのを放置していれば、抜き取れないほど厚くなり、抜き取るのが難しくなるので、「怒りは怒る習性を作り、自分に困難をもたらす」と、怒りを恐れます。

 この機会に話してしまうと、愛や何やらの話も同じで、一度すると、ラーガーヌサヤ(貪随眠)という随眠が増え、あるいは一度愚かになると、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)と呼ぶ愚かさの随眠が増えます。だからアヌサヤ(随眠)と呼ぶ物は自分を困難にする物で、自分は怒りたくなくても、それが電光のように怒ってしまい、自分は愛したくなくても、それが電光のように愛してしまいます。これは随眠と呼ぶ物のせいです』。

 

私は前々から、人は若い時には怒りっぽかった人でも、歳を取るにつれて丸くなる人と、歳を取る毎に酷くなる人がいるのを観察して、なぜこのように二種類に分かれるのか不思議に思っていました。上記の文章を読んで、「それは随眠を増やした人と、増やさない努力をした人の違いではないか」と思うに至りました。

 

怒りっぽい習性をそのままにして、日ごろ怒り散らしていれば、その度に随眠が増えて大きくなり、ある時、自分では怒りたくなくても、随眠が突然漏れて怒ってしまう、自分で支配できない巨大な物に成長してしまいます。そうなると、怒る理由は必要なくなり、何かちょっと切掛けがあれば、それだけで怒りの随眠が怒らせます。それが、年寄りの怒り性だと思います。

 

貪随眠も同じで、欲しい、欲しい、あるいは自分の財産や所有物を失いたくないと、ケチな考えをする度、行動をする度に貪随眠が増え、何十年もすると抜き取れないほど随眠が増え、年を取ったころにはコントロール不能の段階まで随眠が成長し、盗みたくなくても、一瞬で万引きをしてしまうのではないでしょうか。高齢者で、生活に不自由していないのに、少額の万引きをする老人がいると報道で聞きますが、それは増えすぎた随眠のせいではないかと思います。

 

生活に不自由していないのに万引きをすると、孤独や寂しさが原因と言う専門家がいますが、それなら、もっと良い他人との関り方はたくさんあり、敢えて犯罪を選ばないと思います。

 

有名な元女子マラソン選手で、病的な万引きで何度も警察に捕まり、何度止めようと決意しても、更生期間中に万引きをしてしまう人の生活を、テレビで見たことがあります。野菜の皮など、普通は捨てる部分も捨てずに利用するような地道な生活でした。「そのような人がなぜ」と、その時は解せませんでしたが、随眠の話を読んで、納得がいきました。

 

彼女は物を大切にする倹約家ですが、正しい見解の倹約でなく、誤った見解の倹約、つまり「ケチ」によるものなので、倹約をする度に「自分の財産を減らしたくない」「自分の所有物がもったいない」という貪随眠を増やし、コントロール不能の規模まで大きくなってしまったのではないかと思いました。

 

嘘をつくのが習性になっている人、詭弁を弄すのが習性になっている人は、繰り返す度に随眠が増え、随眠が一定の水準に達すと、本人は嘘を言いたくなくても、詭弁を言いたくなくても、自然に口から出てしまう状態になっているのではないかと見えるような人(政治家など)が時々います。

 

カンマは必ず結果があり、意図に比例して何百倍、何万倍にもなる所が恐ろしいです。しかし日常生活の行動のほとんどは、気づかずに繰り返している習性で行い、考えて決意してする行動も、熟慮してする行動も、結局は習性で考えて決意するので、ほとんどすべての行動、ほとんどすべてのカンマは随眠と関わっていると見えます。

 

そして繰り返すことで増やされた随眠は、ある日突然、コントロール不能になる点で、カンマより恐ろしいと感じます。人は「無くて七癖」と言います。自分の習性が恐ろしい随眠モンスターを育てないよう、サティで心を管理する習性をつけるよう、心したいと思います。