車寅次郎は何が辛いのか

プッタタートプッタタート師が「ブッダダンマ」の中の「静かさはブッダダンマ」という話で、「ブッダは、静かさ以外に幸福はないと言われている。人(動物)は誰でも静かさを愛している。戦争も静かになるための足掻き」という趣旨の話をしています。これには納得しますし、人間の本質はそのように見えます。しかし日常生活ではそうでない人もいます。

 

家族に付き合って映画「男はつらいよ」を時々テレビで見るのですが、何度見ても寅が男であることの何が辛いのか、分かりません。毎回、平和に暮らしている虎屋に、寅次郎がふらりと戻って来て、その回のマドンナである女性に、勘違いの片思いをし、最終的に夢は破れて、虎屋の家族、妹さくらの家族、裏のタコ社長まで、寅次郎の感情の嵐に巻き込んで大騒乱があります。最後は寅次郎が家を飛び出して旅に出て、遠くの町から美辞麗句を書き連ねたハガキが届いて終わります。

 

片思いや失恋など、寅次郎の心の問題なのに、まったく感情を管理しないので、周囲の誰でも巻き込んで振り回し、自分だけが傷ついたように家を去ります。大騒ぎをしたことに後悔も反省もなく、寅次郎の心の中では清々しささえ感じているように見えます。そのタイプの人は、自分が起こした騒乱を愛しているからです。

 

 寅次郎が大騒ぎする前には、必ず憧れの人に対する恋愛感情があります。その女性に逆上せ上がって、あれこれ想い描いて楽しみ、夢想する期間があり、現実が怪しい雲行きになり始めた頃、あるいは失恋が明らかになった時に、最高度の幸福の目盛りまで揺れていた心は、最高の不幸の目盛りに揺り返し、怒って、泣いて、喚いて周囲の人の反応で自分の怒りが最高度に達すまで、周囲の人を激しく傷つけます。最高度に達せば、怒りは収まるからです。(この意味では、怒りも静かさのためと言うことができます)。

 

 もし寅次郎が家に戻って来た時、寅次郎の心を捉え女性が登場しなければ、トラの恋愛もなく、家中を引っ繰り返すような騒動もありません。しかし寅次郎には、美人好みとか、タイプの女性とかいうものはなく、丁度良い時に現れれば、ほとんど誰でも恋愛の対象にしてしまいます。

 

 寅次郎は架空の人物ですが、そのようなタイプの人は、世間にたくさんいます。そのタイプの人は、平和で退屈な日が続くと、自分の心を高揚させるためだけに恋(片思いでも可)をします。人を愛せば心がウキウキして幸福を感じ、現実以上の幸福を感じるために夢想に耽ります。つまり所持している現金以上に馬券を買ったと思い込むようなもので、夢が破れた時は、所持していた額より大きな痛手を被ります。

 

 幸福が突然消えれば、陶酔は怒りに変わり、家族や周囲の人を巻き込んで、怒りの頂点を求めなければならなくなるので、ほとんどは家族や部下に怒りをぶつけます。しかしこのタイプの人は、「自分が何のために恋をするのか。なぜ自分は関係ない人を傷つけてしまうのか。自分は、平和に暮らすこと、平穏に生活する退屈さに我慢ができず、波風を立てずにはいられない」と知りません。

 

 昭和の金子光晴という詩人は六歳で養子になり、養母は彼より十歳上の十六歳でしたが、怒ると焼け火箸を手などに押し付け、別の時には「ごめんね、熱かったかい」と猫撫で声を出すような人だったと書いていました。このような行為も、「平和に、我慢出来ないほど退屈を感じる」タイプで、苦しめることが後で詫びて可愛がる(つまり愛の)原因になるので、そのために幼子の身心を傷つけることを繰り返します。幼児を虐待する親の一つのタイプです。

 

 大人しくしている人たちを見ると、からかって楽しい気分になり、揶揄して怒らせて楽しむ人がいます。(寅次郎もからかうのが好きです)。それも、静かな物の静かさを破ることを幸福と感じるからかもしれません。他人を怒らせて揉めた後には、ことが治まった時、再び静かになる喜びがあるので、その味が繰り返させるのかも知れません。

 

占星学のテキストを読んだ時、「平穏な日常の連続を堪えがたく感じ、愛している人たちに喧嘩を売る人」がいるとは信じられませんでしたが、「男はつらいよ」を観ると、こういうことだと分かります。寅次郎が喧嘩をするのは虎屋の人たちですが、結婚している人は、しばらく平穏に暮らしていると、理由もなく突然相手に喧嘩を売っては、仲直りすることを繰り返します。

 

寅次郎が、平和に我慢できないほど退屈を感じる病気に気づいて治す努力をすれば、柴又には穏やかな日々が続き、寅次郎自身も波風の少ない、穏やかな人生を送れます。それが昭和らしさと言っても、一人の幼稚な男によって、侵略のように、爆撃のように、突然一家が平穏な日常を奪われる光景を観ると、「もっと大人になりませんか」と言いたくなります。