いつか恋する君のために

「花は咲く」という東北地震の復興支援曲があります。「花は、花は、花は咲く。いつか生まれる君のために。花は、花は、花は咲く、私は何を残しただろう」というリフレインの最後は、「花は、花は、花は咲く。いつか恋する君のために」で終わっています。

子か孫か不特定の人かは知りませんが、いつか生まれてくる人のために、何かを残したい、あるいは残さなければという気持ちはいいですが、その「いつか生まれる君」の人生の目的のように、あるいは最高の幸福のように「恋する」という言葉が使われています。私はこの歌を聞くたびに、「物質(肉体)主義に傾きすぎた現代」というプッタタート師の言葉を思い出します。

私の子供の頃は、ほとんどの女の子の夢は「お嫁さん」でした。しかしお嫁さんになることと、恋をすることはまったく違います。「お嫁さん」は結婚の代名詞で、結婚は家を維持することであり、お嫁さんはその片翼を担う人です。「お嫁さん」や「結婚」という言葉には、ほとんど性的なイメージはありませんでした。しかし「恋」の先には必ずしも結婚がある必要はなく、「恋する」ことで目的は叶います。現代の「恋」は精神的に愛し合うことではなく、性的に楽しむことです。

自分の夢を託す「君」が生まれて来ても、その「君」の生きる目的が「恋」とは、今の社会に仏教的な物の見方は微塵も残っていないことが分かります。仏教は、「恋は性欲による満足を求める行動」と見て、「楽しいこと、幸福なこと」と見ません。恋は愛欲そのものであり、煩悩の産物であり、心を焼き炙るもの、突き刺すものであり、そしてあらゆる苦の原因と見ます。

「人は恋をするために生きる」という見方は間違った見解と知ってください。今は幼児から老人まで異性に時めく気持ちがあり、それを当然と見ています。しかし仏教の見方で物事を見ていない時、その時その人の心を支配しているのは煩悩であり、心にあるのは邪見です。心に邪見があれば、考えることも、発言も、することも、生活も、努力も、注意することも、集中することも、すべてが間違ったものになり、すべてが悪循環になります。今の世界に展開している多くの出来事のように。

独身の人なら伴侶を求める気持ちがあるのは当然ですが、それが人生の目的では情けないです。生殖を目的に生きて終わるただの動物と変わりません。生殖をしないで生殖の代価(欲情。快楽)だけ受け取るのですから、自然相手の詐欺師で、その点では動物以下です。

人間なら、伴侶と力を合わせて目指す、人間にしかない人生の目的がほしいと思います。まして結婚に繋がらないと分かっている恋愛感情を求めるなら、飲んでいる時だけ楽しくて、真実はアバーヤムッガ(破滅の原因)でしかない飲酒と同じで、呑んでいる間中、恋している間中、多種多様な悪の意業を作るので、後で必ず苦の実を刈り取らなければなりません。

ブッダの言葉を訳していたら、次のような経の一部がありました。

ある人がブッダに会いに行き、顔色が悪いとブッダに言われたので、「可愛いわが子が亡くなって、普通の顔でいられません」と答えたので、ブッダが「悲しみは愛するものから生じる」と言われると、「そんなことはありません。愛するものからは喜びが生まれるんです」と言って去り、去りながらブッダの弟子達に同じことを言い、ブッダと同じ返事を受けとって満足できず、最後に門の外にいた男に自分の考えを言うと、「そうだよ。愛するものからは喜びが生まれるに決まってるさ」と言われて満足した(要旨であって、そのままではありません)という話です。

この経の例のように、現代は「恋からは喜びが生れる」と見て恋を求める人ばかりです。恋からは苦が生じると見えるので恋を避けたがる人などどこにもいません。社会の大多数の人に正しい見解があった時代の文学や浄瑠璃には、「口説いてくる人は災厄をもたらす人」という見方がしばしば見られます。

多くの人に真実を知ってもらえるとは思いません。しかし少数でも「恋は心を苦にするもの」と見える人がこの日本いて、「いつか恋する君」ではなく、「いつも涅槃に近づく君」、あるいは「つねに人間として向上する君」のために「私は何を残しただろう」と考える人が、この先何十年、何百年も、絶えずに存在してほしいと願わずにはいられません。