タンマの実践は三本撚りの縄

ブッダの教えの目的は滅苦、すべての苦から脱すことです。何か素晴らしいものを得るのではなく、望ましくないものを捨てて本来の在り様(自然物質である体と心)に戻ることです。

「完璧な滅苦の方法」を発見したのはブッダだけなので、同じように完璧な滅苦を目指すには、すべてブッダの言葉でなければできません。ブッダの経を直接学んで実践した人の教えを試してみるか、自分で直接パーリ語経典(ブッダヴァチャナ)を学ぶか、二つの方法があります。

自分だけの方法、あるいは自己流で実践している人の教え、あるいは誰かが開発した方法では滅苦はできません。ブッダの門下のように見える人でも、自己流の方法を考案し説いている人がたくさんいます。滅苦の方法は、「ブッダ以外に知る人はいない」「厳密にブッダの系統以外にはない」と知ることが初めです。これはやがて「疑」を捨てる原因や縁になります。

ブッダが説いた滅苦の教えで、最重要なのは四聖諦です。苦の状態(苦諦)と、苦の原因(集諦)と、苦を滅した状態(滅諦)と、滅苦の道(道諦)が示されています。だからこの道諦を実践すれば、苦を滅すことができます。道諦は八正道とも言います。

ブッダは、涅槃の寸前に懐疑を質しに来た異教の人に、「八つの道(つまり八正道)のある教義には、阿羅漢がいる。八つの道のない教義には、阿羅漢はいない」と言っています。この言葉から、完璧な滅苦(阿羅漢になる)をするためには、八つの正しさがなければならないと言うことが分かります。

四聖諦と八正道は、ブッダが大悟した後、滅苦の教えは非常に難しいので、人間に教えようか教えまいか悩んだ末、人類の利益のために広めようと決意した初めての説教、初転法輪の中の経でもあります。そのことからも仏教で最も重要な原則であることが分かります。

初めは厳密にブッダにこだわらなくても良いのではないかという人がいますが、たとえば大工仕事など、小学校の工作で作る木箱のように簡単なレベルでも、構造はどんなに簡単でも、簡単なのは構造だけで、原理原則は厳格でなければならないのと同じです。初めから厳格な原則で、簡単な構造を勉強すれは、次第に難しいレベルへ発展して行きます。しかしいい加減な方法では、先へ進むことはおろか、簡単な構造の物も完成しません。

八正道を内容で見ると、智慧(正見・正志)と戒(正語・正業・正命)とサマーディ(正念・正定・正精進)の三種類に分けられます。これを三学と言います。この三つが揃っていれば、滅苦の実践になります。どれか一つだけ、一種類だけの実践では、滅苦の実践にはなりません。

多くの人は、心を鎮める実践、あるいは揺らさない実践、つまりサマーディの部しか見ていません。だから生じてしまったものを止めることはできても、次々に生じるのを止めることはできません。だからサマーディの力による一瞬の滅苦でしかなく、しかも発生は際限なく続きます。ブッダが言っているように、「八つ」あるいは「三種類」を同時にすれば、発生したものをサマーディで止めながら、戒と智慧で生じること自体を抑えることができます。

「戒学」を八正道で言えば、正しい言葉、正しい行動、正しい職業です。これらの正しさとはどんなことかを、ブッダの言葉で学び、ブッダの言葉と一致させます。ターン・プッタタートはブッダヴァチャナだけを基本に説いているので、師のいろんな話を読んで学ぶことができます。最初は「初心者のための仏教」二部四章で簡単に意味を掌握できます。

「三昧学(定学)」である瞑想を八つの正しさに当てはめると、正しいサティと正しいサマーディになります。しかしブッダの「正しさ」と呼ぶには、自己流や、誰かの自己流ではなく、ブッダの言葉(ブッダヴァチャナ)に依拠していなければなりません。心の、こういう状態をこうと見なすという規定は、ほんの少し違えばブッダのものでなくなり、滅苦のできない類になります。どれも似通ったものだからです。だからブッダ以外の手法は、わずかな違いでも役に立たない、と見る方が無難だと思います。

八つの正しさの中で、つまり仏教の実践で最も重要なのは「正しい見解」つまり「智慧学」です。正しい見解があれば、自然に「正しい望み」「正しい言葉」「正しい行動」「正しい生活」と、次々に正しさが生じるからです。反対に、正しい見解がないのに他の正しさを維持しようとすれば、非常な努力を要するばかりでなく、努力を止めれば、休めば、元の黙阿弥です。

正しい知識が最も重要なのは、何をする場合でも同じです。たとえば車の運転をするには、運転に関したした知識が一番大切で、集中力は知識を十分に使えるようにし、戒は、十分な集中力を生じさせるものです。戒と集中力は、使う知識次第で何でも成功させますが、知識と組ませなければただの部品にすぎず、目的のある働きをしません。


「正しい見解」とはどういうものか、プッタタート師が特にそれを主題に説いている話は、公開している訳文にはありません。しかしすべての法話は正しい見解のためと言うこともできます。弟のタンマタート著「初心者のための仏教」二部四章には「正しい見解」という見出しがあり、そこでは善、誠実、正義と、苦に関した知識(聖諦)が説かれています。

初心者の正しい見解はそれで十分ですが、初心者レベルを脱すためには、「因果律(縁生)」と「三相」の理解が不可欠です。四聖諦と因果律と三相を、ブッダが言った意味で正しく理解して、何を見るにも、「原因があって結果がある」「すべては変化するので、自分のものではない」と見れば、「実践者として十分正しい見解」と言えます。

つまりどんな危機に遭遇しても、どんな状況に遭遇しても、あらゆるものを因果律と無常・苦・無我で見ることです。そのためには、今挙げた重要なタンマを、ブッダが言った意味で正しく理解する必要があります。「本当にそうだ」としみじみ実感するまで、深く追体験する必要があります。

因果律とは、「すべては原因と縁によって生じ、原因と縁によって変化し、原因と縁が終わった時消滅する」という自然の法則です。だから原因と縁によって生じたものを嫌悪(怒り。無渇愛)せず、原因と縁がないために生じないものを求め(欲。渇愛)ず、原因と縁によって生じる変化を恐れず、原因と縁が終わって消滅したものを惜しまない(執着)ことです。

因果律をよく理解すれば、正しい原因をつくるために、自然に「戒」つまり言葉と体の正しさが生じます。口業、身業よりも、意業の量と威力が大きいことを学んで熟慮して知れば、正しい原因を作るために、自然にサマーディを生じさせる気持ちが生じます。言い方を変えれば、俗人が好き勝手な生き方ができるのは、因果律を知らないからです。因果律を本当に知れば、勝手気ままな生き方、智慧に欠ける生き方は、怖くてできなくなります。

三相とは、「すべてのものは、それを作り出した原因と縁によって常に変化している(無常)ので、無常が見える目でそれらを見ると哀れを感じる(苦)。何物も変化の途中の一時の姿でしかないので、それらを「自分」「自分のもの」「自分の何か」と執着することはできない」という知識です。

ターン・プッタタートは日没まえに」の中で、正しい見解は、「タタター(真如)」や「タンマディタター」「タンマニヤムター」などの真実を見るのでも良いとあります。ごく簡単に言えば、すべては原因と縁によって「なるようになる」「なるようにしかならない」「他になりようがない」という真実を見ること、見えることです。それも正しい見解と言っています。

その部分で更に、「幸福をプラスと見ていれば、まだ愚かです」と続けています。幸福や不幸、損や徳、善や悪など、どちらかの価値を捉えていれば、正しい見解ではないということです。「損も得もない。幸福な自分も、善である自分もいない」と見れば、正しい見解です。

これらの知識を、自分の重要な出来事を素材にして熟慮し、いろんな出来事をこの観点で観察すれば、「智慧学(慧学)」の実践になります。実際に何かが自分に振り掛かって来た時、これらの知識で対処できれば、その時知識は智慧になります。いつでも安定してこれらの知識を使うことができれば、智慧があると言います。

戒とサマーディの実践は、朝起きてから夜寝るまで、起きている間中、いつでもします。戒とサマーディは見えやすいので簡単です。智慧学は目に見えないので、習慣のない人には初めは大変です。しかし最も重要な「智慧になる知識」を学んで熟慮し、自然の法則である真実を観察するために、もっとたくさんの時間を使うべきだと思います。智慧があれば、他の二つは自然に生じるからです。ブッ教は智慧(自然の真実を知る)の教えです。戒やサマーディの威力で抑えない点が、ヨギーなどと違う点です。

戒(体と言葉の正しさ)とサマーディ(心の正しさ)と智慧(正しい知識を使う)が全部揃えば、それがブッダの言う八つの正しさになり、初めて滅苦の実践、本当のブッダの仏教の実践になります。すべてブッダの教えが基本にあるので、ブッダのタンマの実践と言えます。

ブッダが「八つの道がある教義には阿羅漢がいる」と言っているように、「八つ」を揃って実践する心には、厳密さと努力に応じて、滅苦が現れます。

実践を始める前に、その方法ですれば正しい結果が現れるという理由があるかどうか、良く聞いて(勉強して知り)、その行動がどんな理由でどんな結果を生じるか良く理解して、何も疑問が無くなってから始めるよう、ブッダは言っています。よく分からない部分を、推測や信仰で埋めて出発すれば、ブッダの仏教ではなくなります。