タンマの実践は三本撚りの縄(補足)

ブッダの仏教の実践には智慧学が一番重要だということを、更に良く理解していただくために、もう一度同じ話題です。ターン・プッタタートは、仏教の実践だけでなく、「何をするにも戒・サマーディ・智慧が必であり、この三つは撚り合わさっているもので、別々にはできない」と言っています。

本当はどんな行動も同じですが、余り簡単なことでは例えにふさわしくないので、車や飛行機の運転を例にすると、これにも、戒とサマーディ(落ち着き又は集中力)と智慧が必要なことが分かると思います。教習所へ行くと、理論を勉強し技術を習います。これは智慧や知識の部分です。実際に運転をする時は、サマーディも必要です。注意力が散漫では運転できません。そして、適度なサマーディを生じさせ維持するためには、戒も必要です。

車の運転に戒が必要には見えませんが、動物や人を殺した後運転すれば、心が動揺して、必要なサマーディは期待できません。盗みをしても、他人の配偶者と密会しても、あるいは嘘をついても、心のサマーディは失われます。酒類を飲めば、物理的にサマーディが害されます。だから何をするにも、良い結果にするにはサマーディが必要で、サマーディを維持するためには戒が必要です。

サマーディがなければ、宛名一つ綺麗に書けません。サマーディがなければトーストも良く焼けません。サマーディがなければトイレットペーパーを切るような簡単なことも、きちんと出来ません。だから何をするにもサマーディは重要です。そしてサマーディを生じさせるためには、戒が必要です。

だからと言って、車の運転を習いに行ったら、サマーディの訓練から始めたらどうでしょう。飛行機の操縦を習いに行って、サマーディばかり何年も訓練されたらどうでしょう。オリンピックの体操やフィギアスケートには高いサマーディが求められますが、弟子入りして、サマーディの訓練ばかりさせられたらどうでしょう。

何の訓練でも、戒とサマーディはあるという前提で、最初から知識や技術を教えます。大人になった段階で、「人間として必要なサマーディと、そのサマーディを生じさせる戒はある」と見なします。言い換えれば、社会人に必要なことができるサマーディと、サマーディを生じさせる戒は、大人になるまでに家庭や学校で訓練されていなければなりません。

だから何かを習いに行っても、サマーディの訓練はしないし、戒も言い渡されません。柔道や剣道など、道という字がつくスポーツの「道」の部分は、「戒」であり、精神性を重視することで普通以上のサマーディをつけさせます。

しかし普通の物を習う時は、直接それまで知らなかった専門的な知識や技術を学びます。非常に精巧な技術なども、段階的に訓練すれば、それぞれの段階に必要なサマーディは自然に具わって行くので、サマーディの訓練だけをさせる職種、あるいは技能はないと思います。

飛行機の操縦は、車の運転より多くの知識を必要とします。車の運転は、バイクの運転より多くの知識が必要です。同じように、滅苦の実践には、四聖諦や八正道、縁起や五蘊や三相など、内面世界についてちょっと知識が必要です。しかし、多すぎると言うほど多くはないと考えます。

サマーディは、それらの知識を熟慮するために必要ですが、高度なことを考えれば考えるほどサマーディが深くなるという原則があるので、熟慮を始める前には、普通に戒のある生活、つまり「節度のある慎み深い生活」つまり、「世俗の喜びのない生活」をしていれば、普通のサマーディで十分だと思います。反対に、戒や節度のない暮らし、慎みのない生活、喜びを追求している生活をしていれば、普通のサマーディでさえ期待できません。

戒や慎みのある生活をしていれば、あとは使う知識次第で、何をしてもうまく行きます。サマーディしかしないで、戒と智慧を忘れているのが瞑想族で、知識ばかりで戒とサマーディを忘れているのが今の学習家です。戒ばかりで、智慧を忘れているためにサマーディも生じない人たちも、たまにいます。

ブッダの仏教の実践には、最初にサマーディにしようと考えるより、「サマーディを生じさせる生活」、つまり戒や慎みのある生活を心がけ、勉強は智慧の部分、「正しい見解」の部分を増やすこと(つまり自分の論理を捨て、自然の法則に合わせること)です。正しい見解で世界を見れば見るほど、熟慮すればするほど、サマーディは自然に深くなるからです。