静かさ(平和)を愛す

 昨年末に公開した「アリヤシーラダンマ」という本の中の、「青少年に教えるべきこと」という話の中に、「静かさを愛させる」という項目がありました。聞いてもピンと来ないかも知れませんが、「波風を立てるのを嫌う」と言い換えれば、日本人に染みついている性質そのものなので、実感として分かると思います。家庭内、町内、国内が静かであることを愛し、つまり波風が立つのを嫌い、我慢できることは我慢します。そのような習性の人が、日本の穏やかな社会を作っています。

 

近代になると、何でも我慢してしまう習性を卑屈と蔑み、波風を立てても自己主張することを好む人たちが生まれ、増えてきました。

 

 ロシアとウクライナの紛争が始まって、間もなく一年になります。日本は遠く離れたアジアの国で、直接関わりはありませんが、ロシアは隣国で、嫌でも付き合わなければならない隣人と同じです。隣人の敵の味方をすれば、敵の味方は敵なので、ロシアの敵になります。

 

 仏教は、争い合うのはどちらも悪いと見て、どちらも罰す(喧嘩両成敗)規則があります。プッタタート師は「アリヤシーラダンマ」の講義で、「子供が兄弟喧嘩をしたら、どちらが正しいか聞く必要はない。どちらも静かさを愛さない点で同じだけ悪い」と言っています。どちらかの味方や応援をすることも、騒ぎを大きくする点で罪は同じです。

 

 子供の頃、兄弟喧嘩をして叱られて言い訳をすると、いつでも、誰であっても「言い訳は(言わなくても)いい」と言って、親は取り合いませんでした。たぶん江戸時代から代々続いているしつけでしょう。子供は理由を知りませんでしたが、親の厳然とした態度によって、自然にその規則が身に付きました。理由を説明して分からせれば、死ぬまで理解できないかも知れません。しかし、波風を立てないように暮らすことを知っていることは、知らない人と比べると、財産のように思います。

 

 だから子どもには厳しく、そして繰り返して教えることが重要だと思います。

 

 ブッダは「※最初に怒った人、つまり怒って叩いたり、暴言を吐いたりした人より、それに反応して怒り返した人の方が、最初に怒った人より悪い」と言われています。これは、普通の人には理解が難しいと思います。先に怒った人がいるから二番目の人が怒ったのであり、最初の人がいなければ二番目の人は怒らずに済んだのだから、凡夫には最初に怒った人の方が悪いように思えます。

 

 怒りは突然心に訪れる招かざる客で、凡夫では追い帰すことは難しいので、怒ってしまうのはどうしようもありません。しかし怒りの言葉や行動を受け取った人が受け流すこと、周りの人がどちらの味方もしないで静観することは、理性があればできます。そして、できれば自分にも他人にも、その場の平和にとっても非常に利益があるので、しなければならないことです。

 

  争っている人を、大勢の人がどちらか一方の味方をすれば、小さな争いは大きな争いになり、ますます収拾がつかなくなり、些細な出来事が切掛けで世界大戦にもなりかねません。だから初めに争った人より、後からどちらかの味方をする人の方が、はるかに重大な結果、凶悪な結果を生じさせます。

 

 国同士、民族同士の争いが起ると、西洋(キリスト教国)はすぐに「あっちが悪い。こっちは正しい」と言って応援をしますが、アジア諸国や中東諸国は態度を明らかにしない国が多いです。

 

 記憶違いでなければ、先月G7の準備のため参加国を歴訪する前の岸田さんが、「ウクライナとロシアの紛争に関して態度を明らかにしない国も、ウクライナを支援するよう促す」というような意味の発言をしていましたが、日本の総理がヨーロッパの紛争に強い関心を寄せ、深慮することなくヨーロッパの国に追随して一方の味方をし、しかもこの件では態度を保留にしているアジアの国々に、ヨーロッパ諸国のようにウクライナの味方をしなさいと促すのは、浅慮、あるいはアジアの文化、とりわけ仏教文化と反対です。

 

 日本が治安が良く、国中のどこでも騒動が少ないのは、多くの人が静かさを愛し、喧嘩をしている人を見てもどちらにも加担しないで、静観することを知っているからです。静観しないで、町中、国中の人が自分の好きな方に加勢すれば、町中、国中が、事ある毎に対立し合わなければならなくなります。

 

 家族でも地域でも団体でも、どこにでも、一人でも静かさ(波風がないこと。平和)を愛さない人がいると、つまり静かさより自分を愛す人がいると、もめごとが絶えず、何をするのも本当に大変です。

 

 「静かさを愛す」人、あるいは「波風が立つのを嫌う」人、あるいは争いごとを見ても、どちらか一方の味方をせず静観できる人は、本当に平和を愛す人、平和に貢献している人です。どこかに一対一の喧嘩があっても、誰も応援する人がいなければ、水を遣らない草が枯れるように、間もなく治まるからです。怒った人に怒り返さないこと、他人の争いごとの応援をしないことは、謗られるべき性質ではなく、仏教の教えの実践であり、平和な社会の実現に欠かせないものです。

 

 カンマの角度から見ても、日常的に怒りや不満を抑えて、その場の平和を尊重する意業は、その人に平和な環境を与えると推測します。そうでなければ、どんな業を積んだ人が平和を受け取れるでしょうか。

 

 どこかに争いごとがあると、理由を探してどちらか一方の味方をすることは、口では「平和のため」と言っても、今ここの平和を妨害し、世界を不安定にする行動です。静かさを愛すこと、波風を立てるのを嫌うことは、真に平和を愛す仏教徒の文化です。自分の子や孫に、是非とも「怒った人に怒り返してはいけない」「争っている人の味方をしてはいけない」と、静かさを愛すこと、波風を立てるのを嫌うことを教えてやってください。

 

 

※『暴言を吐くロクでもない人は、当然それを自分の勝利と見なす。 智者は忍耐を自分の勝利と見なす。 怒った人に怒り返すことは、初めに怒った人より悪い。 怒った人に怒り返さない人は、非常に困難な戦いに勝った人と呼ばれる。 そして双方、つまり自分と敵の双方の利益になる行動をする人でもある。 相手が怒ってしまったと知った人は、 誰でも双方、つまり自分と敵の利益を守るために、 理性で静まってしまいなさい。 当事者である賢くない族だけが、「この人は弱虫と考える」』