翻訳雑感

(年頭に当たり、2012年6月にミクシィの「ダンマダーの日記」に書いた物を転載します。

 

プッタタート師が比丘のエリートコースを歩むのを止めて、自分で実践の道を切り拓く決意をしたのは、三蔵の翻訳の問題が直接の切っ掛けでした。パーリ語の試験をするアーチャン側の求める訳とターン・プッタタートの考えが一致しないので、そのまま勉強を続ける気持ちになれず、還俗をして俗人に戻るか、独学でパーリ語の勉強を続けるかという選択の中で、迷 わず、ブッダヴァチャナ(仏語)に基づいた実践法を探して実践する道を選びました。

 

インタビューによる自伝の中で、「他の人の翻訳のほとんどは好きでない。満足できない」と言い、 『翻訳するには私の好きな原則があります。聞いて意味がハッキリ分かること、聞き易いこと、そして 内容がパーリ語と一致して、読むと同時に、すぐに理解できることです』と言っています。

 

私は邦訳の経典をきちんと読んだことはありません。読みたいと思ったことはありましたが、プッタ タート比丘の言葉を借りれば、「翻訳が好きでない」ので、読む気になりませんでした。しかしネット で部分読みした限りでは、傲慢に聞こえるかもしれませんが、満足する訳文に出合ったことがありま せん。

聞いたこともない漢語と漢語を繋げるだけで、たぶん訳者も本当の意味を掴んでいないので はないかと思われる、意味が分からない文章も多いです。読めるものでも、「読んで意味が分 かる」だけで、読者の理解まで考慮している訳文はないように感じました。

 

日本の翻訳者は学者が多いので、読者に理解させることには関心がないのかと考えていました。し かしタイのように翻訳者全員が出家でも同じようです。

「なぜ彼らは読んで意味の分からない文章 に訳すのですか」という問に、プッタタート師は、『大昔から、現代語に訳すのを好みません。 重要な教え、あるいは重要な要旨はどうか、読者がもう一度熟慮して訳語の要旨を探さなければなりません。多分現代の話し言葉で書くこともできます。しかし市井の言葉を使うと神聖で有り難いも のと見なしません』と答えています。 学者や出家が訳すと、翻訳したものが難しい学問に見えるよう、神聖で有り難いものに見えるよう望むようです。

 

自分が訳したものの価値を誇示したいだけで、読者にその内容を理解させ、更に は実践してもらい、仏教の教えを広めたいブッダの遺志を継いだ意図はないようです。つい 最近タイ語から和訳された経に、中世のような文語訳がありました。こういうのは、どういう読者を想定して訳しているのか理解できません。自分がそういう文章を書ける、という能力に満足しているだけのように見えます。

 

私も、『聞いて意味がハッキリ分かること、聞き易いこと、内容がパーリ語と一致して、読むと同時に理解できること』というターン・プッタタートとまったく同じ原則があります。読むと同時に、つまりもう一度考え込まなくても理解できるには、日常会話レベルの平易な文章でなければならないので、極力漢語は避けます。漢語は、もう一度意味を解釈しなければならない言葉だからです。

 

 たとえば「夕食を摂った後入浴して就寝する」と言うより、「夕ご飯を食べた後お風呂に入って寝る」 と言った方が、意味がハッキリと分かります。前者は大人の文章で、後者は幼児でも分かる文 章です。大人なら前の文章でも意味は分かりますが、本当に理解するには、「就寝というのは寝 るってことだ」と、無意識にもう一度意味を砕かなければなりません。

 

「聞き易いこと」と同じと思いますが、私は自然な文章を心がけています。たとえば 『その時世尊は比丘たちに話しかけられた。 「比丘たちよ」 「師よ」』という文章があります。 「比丘たちよ」は良くても「師よ」はいけません。師は三人称に使う言葉で、二人称では「先生」 という言葉を使います。「よ」という接尾語は、文語の詩などを除いて、普通目下に使うもので、目上 には使わないのではないでしょうか。

 

奇妙な造語や、難解な漢語、不自然な言葉の使い方などが あると、そこで集中力が切れてしまいます。せっかくそれまで読むことで静まっていた心が、不自然 な語句に出合った瞬間乱れて、サマーディが失われます。読むサマーディが失われれば、考えが 浅くなるので、「自然」で「読み易い」文章でなければなりません。

 

 タイ語で「パッタナー トゥア エーン」という言葉が、自己開発と訳されているのがありました。私は、 この自己開発という日本語も意味が良く分かりません。パッタナーは「発展させる」や「開発する」と いう意味ですが、「自分を発展させる」という意味、つまり「自分を進歩向上させる」という意味だと理 解しています。二つは意味やイメージするものが大分違います。

 

ブッダ釈尊は別人なので、ブッダの訳語に釈尊、あるいはお釈迦様を使うのは間違いです。この ことは、何度も書いているので、詳しくは昔の日記をお読みください。中には、二つの名前を重ねて 使う人もいます。一つだけより荘厳に聞こえる効果があるのかもしれませんが、そんな感じの意図、 あるいは使っている人の煩悩を感じます。

 

 五蘊の最初の蘊であるルーパは「形」を意味しますが、従来の仏教では「色」と訳されています。本 当は「形・受・想・行・識」のところが、「色・受・想・行・識」と訳されています。ルーパという言葉の意 味は形ですが、内容的には身体を指しています。受以下の四蘊が心で、形は身体です。だから身 体より上の話であるアビダンマを、形而上学とも言います。 「色欲」「色情」「色事」などという言葉に使われる「色」は、ルーパの「身体」という意味で使われてい ます。だから色欲は「肉体の欲」、色情は「肉体に関わる情」、色事は「肉体の事」です。外処入(六 境)である形・声・臭・味・触・考えの形も、同じように色と訳されています。

 

ルーパを「形」でなく「色」と訳すのは、中国で始まったようです。慧能の「六祖壇経」の古い版にも、 「色」という語が使われていました。慧能は仏教を中国へ伝えた達磨大師から百年から二百年弱 しか経っていないので、最初から間違って訳されたのかもしれません。

 

 私はルーパを「形」と訳しています。昔からの訳語を変えると混乱すると忠告してくれる人がいますが、 古い知識への執着がなければ、「この訳者は色と訳さず、形と訳している」と感じるだけです。間違 を正すのに遅すぎることはなく、熟練者や大家に遠慮しなければならない話でなく、読者と訳者の信頼の問題、訳者の教祖への誠実の問題です。

 

従来の釈尊の教えとブッダの 教えには、同じ語句でも定義が違うものが多いので、従来とは違う新しい知識である象徴としても、「形と訳すことは良い」「意味が深い」と考えています。 ルーパという語に「色」という意味がないのに、他の人がみなそうしているという理由で色と 訳すような、いい加減なことはできません。「真実だけを言いなさい」という、「サンマーヴァーチャー =正語」に反してしまいます。

 

 私は、訳文は意味が伝わるだけでは不十分で、素人の仕事と考えます。明快に意味が掴めるこ とは基本で、その上文学作品なら感動が伝わること、実用文なら内容が明解に理解できること、説教なら、説教者の意図や心情まで読む人に正しく伝わり、確実に理解と実践の役に立たなければ ならないと考えます。だからブッダの言葉を伝えている経なら、ブッダが相手に理解させようとしている意図まで伝わるような訳なら、非常に良いと考えます。

 

しかしブッダは阿羅漢サンマーサンブッダですから、一般人と心の状態が違うので、ブッダのセリフ にどんな言葉を使うか、凡人が推測で語彙を選ぶのは難しいです。タイ仏教を知る前に本当のブッダの教えを知りたくて、書店の原始仏教コーナーで立ち読みした時、「バカ者め」というブッダのセリフ を見て、この訳者は「ブッダ」とはどんな心の人かを知らないと分かり、「ブッダ」とは何かを知らない人が、ブッダの教えを正しく訳せるはずがないと考え、その本に興味を失くしました。立ち読みした限りでは、どの本も、煩悩のある人の言葉を使っていて、満足する訳に出合えませんでした。

 

 私がこだわっているもう一つは、固有名詞の表記です。固有名詞は、当人や当地の人が名乗って いて、実際に使われている音を尊重すべきだと考えています。昔日本のマスコミは、韓国人の名前 を「リ ショウバン」とか「キン ダイチュウ」などと日本語読みで伝えていましたが、今は「イ ミョンバ ク」とか「パンギムン」など現地の発音で表記します。これは、日本語読みをしていた時代は、日本 国民に韓国朝鮮を下に見る気持ちがあったこと、そして韓国が経済的に発展した時、その感覚が薄れたことを表しています。

 

 つまり現地の音と違う読み方を押し通す心には無意識の傲慢さがあるので、私は使いたくありま せん。だから「プッタタート」をわざと「ブッダダーサ」と呼ぶ時、その心の中を見ると、微妙な高慢や、 自己顕示欲などが見えると思います。だから現地の人が呼んでいるように、プッタタートと呼んで欲 しいと思います。

 

タイの首都クルンテープバンコクと呼んでいるのは、バーンコーク(チャオプラヤー川の西岸の地域)に都があった時代の名残かもしれませんが、事実と一致しません。現地の人呼び方を無視する心には傲慢があるので、現地の呼び名を尊重する意味で、私はクルンテープと表 記しています。奇をてらうつもりはありません。

 

 プッタタート師が自伝の中で、「気に入った翻訳がなかった」という意味のことを言っているの を読んで、「私も、今までの翻訳家の訳は気に入らなかったのかもしれない」と気付きまし た。

ワールドカップで注目されている日本文化は仏教文化

ネットニュースを見ると、サッカーのワールドカップで、試合の内容だけでなく、選手や監督やサポーターなど、日本人、あるいは日本の文化が称賛されているようです。それらを読んで悪い気はしませんが、嬉しくも誇らしくも感じないのは、それも日本文化だからかも知れません。

 

外国人たちが称賛しているのは、仏教では「当たり前」のことです。正しいことですが、正しいことはできて当然、できなければ非難され、特に称賛することではありません。仏教が教える正しい行いはたくさんあり、仏教は完璧な滅苦のために完璧に正しい行動をするよう目指すので、一つだけできても、あるいは一部だけできても褒めません。そして褒められることを喜ぶのは煩悩の人で、正しい見解の人は、むしろ忠告を喜ぶからです。それは、次のブッダの言葉でも分かります。

 

『可愛がることで支援する利益を求める、可愛がる人である教祖が、すべての弟子にすべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。それはすべての木の根元、それはすべての廃屋。

比丘のみなさん。油断をしないで煩悩を燃やす努力をなさい。みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は』。

 

『アーナンダ。私は、土鍋屋がまだ(成形したばかりの)濡れている柔らかい土鍋を扱うように、あなたたちを大事にする努力はしません。アーナンダ、私は休まず叱ります。アーナンダ、私は休まず咎めます。本質である道果がある人は耐えられます』。


 『私たちは、常に叱ってくれ、常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」と見なければなりません』。

 

一つできたら褒め、二つできたらもっと褒める、異教の文化と違います。

 

経済誌記者の記事を紹介している「日本人サポーターのゴミ拾い、代表チームが試合後にロッカールームを清掃したことを称賛」という文章には、次のようにありました。

 

『世界のメディアに取り上げられるなど認められた数々の行い。続けて、「これらの日本人ファンの言葉にはリーダーシップが詰まっている。“リスペクト”という言葉は、日本人自身にも、対戦相手にも、他者やあらゆる人々に向けられている」と日本文化の美徳ついて触れている。 「選手たちは目の前の試合に勝つためにプレーしていると同時に、長い目で見た時のレガシーも残そうとしている」 「日本の真似をするのは難しい。しかし、日本が示した模範例に他のチームが続いてほしいと願うことは求めすぎだろうか? 他の国が何をしていたか関係なく、一緒に取り組んだことによって、自分自身のためだけではなく、全ての人たちをより良くすることを求めるのは」』

 

ゴミを拾い、部屋を整頓するのは僧の勤めの一つで、仏教文化として広く社会に浸透しています。西洋では、掃除は低い身分の人がすることで、身分の高い人はするべきではないと考え、お寺で比丘が時間のある時に庭を掃いていると、西洋人比丘が「そんな仕事は人を雇えば良い。なぜ比丘がするのか」と抗議すると、プッタタート師話していました。片付けや清掃は、仏教では人としての嗜みで、他の宗教では賤しい身分の人がすることです。

 

自分と他人を尊重するのは、「謙遜」という仏教の教えです。謙遜は、自分を相手より低く表明して、相手を尊重します。合掌や首を垂れる挨拶、持参したお土産を「詰まらない物」と言う、褒められても喜ばず、否定するなどは、謙遜を表す習慣です。

 

「目の前の試合に勝つためにプレーしていると同時に、長い目で見た時のレガシーも残そうとしている」と言うのは、勝負だけでなく、時間を超えて残る物を意識しているという意味で、それは「名を汚さない」ことのように聞こえます。そのような意味なら、それは仏教の「慚愧」という教え、恥と怖れを知ることです。

 

今まで、このような日本文化を褒める外国人はほとんどなく、これらの教えに由来する日本の伝統習慣を、卑屈とか、プライドがないと批判する人がたくさんいました。しかし今、ワールドカップで、世界中からこれらの文化を称賛する声が上がっているのは、不思議な感じがします。

 

米国の経済記者は「日本が示した模範例に他のチームが続いてほしいと願うことは求めすぎだろうか? 他の国が何をしていたか関係なく、一緒に取り組んだことによって、自分自身のためだけではなく、全ての人たちをより良くすることを求めるのは」と言っています。今一時の盛り上がりで日本を称賛している人たちの多くがこの人のように考えるなら、あまりに抽象的すぎる「日本文化」とだけ見ないで、それらの日本文化は本当は「ブッダ仏教文化」と知れば、ブッダの教えを学ぶことで体系的に学習でき、段階的に理解でき、実践すれば自分の身についた習慣や習性にできます。

 

日本文化と捉えて形だけを真似れば、一つ一つの行動を善行と捉え、褒められれば喜び、褒められなければ落胆し、嫌らしい行為になってしまうこともありますが、仏教文化と捉えて、なぜそのようにするかを知って行動すれば、より本物の、見て快い行動になるからです。

こんな本が欲しかった「アリヤシーラダンマ(聖人の道徳)」

半年ぶりに「アリヤシーラダンマ」を公開しました。今回は道徳の話です。

江戸時代にはブッダ仏教文化で完璧な道徳のある国だった日本も、幕末から西洋との関りができ、通訳として中国人が港町に住むようになり、西洋の物質文化を真似ると同時に西洋的なマナーが伝来し、そして第二次世界大戦後は、民主主義の影響で、古い道徳は次第に消滅しました。

 

民主主義の普及に比例して人々に道徳がなくなり、最初は教諭や警察官、公務員などの犯罪などから始まり、世間の人がびっくりしましたが、今では法曹界でも総理大臣や警視総監が不正や犯罪をしても驚かないくらい、すべての階層の人に道徳が無くなりました。

 

そういう状況を見て、ただ嘆かわしいとだけ感じていましたが、そのような状況がなぜ生じるか、すべての人が同じ社会で暮らしているのに、道徳がない人とまだある人の違いはどうして生じるのか、プッタタート師の話を聞くと良く理解できました。

 

すごく良い生活を望むこと、あるいはすること、あるいは美味しさ、楽しさを追求する生き方が、人を煩悩の奴隷にし、人は煩悩の言いなりになるので、煩悩の敵である道徳を嫌い、捨てます。師は、「美味しい物や、良い物を食べなければならないように変化させないでください。汚職をしなければならなくなります」と言っています。つまり美味しい味やすごく良い生活に酔うことが、道徳をなくす原因だと。これは目から鱗でした。

 

世界一味に執着する中華民族は、他の人たちより道徳がないと、世界の誰でも分かります。旅行者の誰もが、あるいは自国の人さえ「美味しい物がない」と認めるイギリスは、かつて紳士の国と呼ばれました。美味しい物がない国や地域で、道徳がない所はたくさんありますが、それは、カンマの報いとして美味しい物が得られない状況があり、世界中から何でも集めることができたけれど、美味しい物に興味がなかったイギリスと状況が違います。

 

江戸幕府や社会も、一部の商人は別として、十分な収入と蓄えがあっても、丁度良い生活、慎ましい生活を好んでいたから、高い道徳と発展があったと理解できます。師の話は、いつでも新しい発見がありますが、今回も期待を裏切りませんでした。

 

自分の子どもに「他人の迷惑にならない範囲で、自分の好きなことをしなさい」としか教えられない人たちを見ると、昔の人のように国や民族を背負う必要はないけれど、自分の好きなことだけをするよう教えていれば、日本の文化は数十年で地に落ちると憂えていました。しかし自分は自分として、どうすれば善いか知りませんでした。このアリヤシーラダンマの話には、「子どもはこのように育てると良いです、自分はこのように目指せば良いです」と言える具体的な項目があるので、これからはこれらについて考え、熟慮し、自分で実行することができ、人にも勧められます。

 

大人も同じで、自分を内面的に高めたいと思っても、五戒や八戒、十善などの他に、どのように目指せば良いか分かりませんが、人間として、滅苦を目指す人間として、日常的に何をどう心掛けるべきか、非常に具体的になので、これに沿って自分を教育することができます。既に同じ系統で努力している人は、どれだけ身についているか、自分で成績表を作って見ることもできます。

 

聖人の道徳「アリヤシーラダンマ」は、このような話が聞きたかった、このような本が読みたかったと思える一冊でした。

安倍さんとトランプさんは両班(リャンバン)だった?

連日のニュースや関連番組を観ていると、自民党の多数の人と、自民党から分れた党の一部の国会議員が、旧統一教会と関係がある訳が見えてきました。毎度のことですが過去生の話で、目で見える根拠はありませんが、目に見えない物を見る目で見ると、面白い物が見えてきました。

 

韓国の歴史ドラマをご覧になった方は場面を思い浮かべることができると思います。私は「チャングムの誓い」と「イ・サン」を見ましたが、当時の(朝鮮の)官僚は老論派と少論派に分かれていて、二つの派のボスである官僚は、一人でも多くの官僚を自分の派に取り入れるために、多くの時間と知恵と財産を使って朝廷内での権力を目指し、権力を握れば、私利私欲を欲しいままにする以外に、その先の目標は無いように見えました。官僚のほとんどは両班と呼ばれる貴族階層です。

 

国王なら良い国にする、あるいは自分の望む統治を実現する努力をしますが、官僚は朝廷で権力を持つ以上に大きな目標は無いように見えました。だから二つのドラマに出て来る大物官僚、あるいは党派の長は、手にした権力で自分と、自分の家族、親族の物質的、金銭的利益の追求に尽力します。また嫁いだ娘も、婚家の発展と同じくらい、あるいはそれ以上に生家の発展のために尽くします。

 

現代の日本人から見るとやりたい放題で、却ってコミカルに、強調のし過ぎに見えました。しかし安倍晋三元総理大臣の桜を見る会や森掛問題などを見ると、あるいは人を「敵か味方か」で見る見方は、本当に韓国歴史ドラマの中の大物官僚とよく似ていました。安倍元総理は外交が得意でしたが、韓国歴史ドラマの中の党派の長も、夜は妓生(芸妓)のいる店でいろんな人物と酒宴をし、党派の権力の拡大を図っていました。

 

統一教会と関連がある議員の数が驚くほど多いのは、すっと昔の過去生で朝鮮王朝の官僚であったことがある人が、今日本人に生まれていることが多いのではないかと感じました。安倍さんは朝鮮の朝廷を牛耳っていた大物官僚か何かで、文鮮明は国王か大学者などの大人物で、誰でも「従わなければならない」と感じる関係だったのではないでしょうか。

 

トランプさんが大統領選で当選した時、まだ大統領に就任する前に、待ちきれずに安倍さんが私邸に駈けつけています。二人並んで写真に納まる時、安倍さんの顔が紅潮していて、外交でなく、安倍さんにとって私的な、心からの喜びなのかもしれないと感じたことがあります。

 

政敵に弱みを突かれた時、直接論点について説明しないで、相手が嘘を言っていると言い、子どもの屁理屈のようなことを本気で言って逃げようとする二人の思考の仕方、論理、論法はよく似ています。そして他の政治家ではあまり聞いたことがありません。初めは変わった人だと感じましたが、この二人と同じような思考や論法は、政治的な問題やスポーツの審判など話の、国や国民反応を見ると、現代の韓国社会にもまだあるように感じます。

 

武士、あるいは過去世で何代も武士だったことがある人は、妻となる女性に、家政を取り仕切る才能のある人を求めますが、両班、あるいは過去世で何代も両班だった人は、妻になる女性に「自分にとって可愛い」ことを重要視するように見えます。安部さんもトランプさんも、好みの女性のタイプが似ています。

 

私は、現生で外国へ行く機会のある人は、過去世で生きたことがある国へ行く機会が必ずあると見ていますが、安部さんもトランプさんも朝鮮半島へ行ったことがあります。

 

今の政府や国会に、筋の通ったサムライらしさを感じさせる人がほとんどいなくなったように感じるのは、かつて朝鮮の朝廷の官僚だった人が、日韓併合などの後から日本に生まれて来るようになり、国会の多数を占めるようになったからかも知れません。

幸運を期待しない説法

「阿羅漢の足跡を追って」の序章に、次のような文章があります。

ブッダは五欲が完璧な王位を捨て、世界の先生の地位に就かれました。説法から見返りや報酬を望まれるなら、王位を捨てず、その地位に就きます。その時のことについて述べたパーリでは、ブッダ、あるいはダンマを説いた弟子に献上品があったと暗示するものは(後世の解説書以外の)どこにもありません。当時の説法は説法者の義務で、その場で教えるか、アドバイスしなければなりません」。

 「今はそのようでなくなり、主催者の招聘なしに説法をしたがる人はあまりいません。金品を渡さなければならない習慣があるので、説法は聴きたい金持ちの義務になりました。あるいは何かちょっと儀式をし、あるいは名声に関わり、説法者を探して徳を積む価値がある説法をしなければなりません。自分の住まいに呼ぶこともあり、住んでいる寺ですることもあります。本当は阿羅漢の後を追うブッダの弟子は志願して、あるいは機会を探して、ブッダのように説法をすべきです。そうすれば相応しいです」。

 「相応部のラーバサッカーラ相応では、思いがけない幸運(貰い物)の話をたくさん話されています。見本として述べれば、「比丘のみなさん。思いがけない幸運と供物が、まだ学ばなければならない、まだ阿羅漢果に到達していない比丘に触れれば、当然その人にとって危険です。比丘のみなさん。このように学びなさい」。これだけでも、思いがけない幸運とダンマは離れているべきと見ることができます」。

 「思いがけない幸運(貰い物)がある所にダンマはなく、ダンマがある所には幸運はありません。思いがけない幸運(貰い物)はダンマを追い払い、ダンマは逃げます。だから教祖の教えを思いがけない幸運のために教えてはならない、あるいは説いてはならないということです」。

 「彼らが献上するので「信仰を祝って」と言い訳して受け取るのは、十分理由のある言い訳ではありません。最高の真実は、「受け取らないことこそ、信仰者と本当のタンマにとって喜びであるべき」です。支援のために 寄進するなら、説法に関って寄進するべきではありません。それは憂鬱になり、受け継がれる罪である伝統になります」。

 

日本では招聘して説法をしていただく習慣はありませんが、入場料を取る、会費を集めるという形で、あるいは瞑想会など他の行事とセットで料金を取る場合が多いようです。タイでもどこの国でも、阿羅漢の後を追う人から説法を聞けなければ、職業である僧から説法を聞くしかありません。そのような時、プッタタート師は次のように忠告しています。

「私たちのような普通の凡夫、あるいは私たちより貪りと怒りが厚い人から聞いても、プラタム(ブッダの教え)への敬意で聞くべきです。凡夫から説法を聞いて聖向聖果に到達した人の例は、たくさんあり、聞けば当然智慧を得るからです」。

 

しかし私は、私たちのような凡夫、あるいは私たちより貪りと怒りが厚い人から聞く時は、「説法者は私たちと同じ凡夫、あるいは私たちより貪・瞋が多いこともある」と判断できる智慧がなければならないと思います。黄衣を着ている人は全員正しい教えを知っていると信じ込まない方が良いです。

 

出家をしても資格試験のような物がある訳ではないので、そのダンマの知識が正しいかどうか保証はありません。その人が信じている教えが正しいかどうか計る物は、その人自身の言葉や態度に現れている静かさ(サマーディ)や品性なので、智慧のある人が良く観察すれば見えますが、(サマーディが)普通の人には難しいです。

 

カーラーマ経の十の項目で熟慮して、その教えは、本当にブッダがそのように教えているか、それを実践したら本当に苦が減るか、冷静に、いろんな角度から繰り返し熟慮して見るべきです。その教えを実践すれば、本当に滅苦ができそうだと思ったら実践して見て、少し苦が減ったら本気で実践して、本当に苦が消滅したら、つまり初等の聖人になったら、その時話者を信じれば良いと思います。

 

「阿羅漢の後を追って」の中に「ダンマを教えとし、人物を教えにしない」という言葉がありますが、凡夫ほどダンマより人物を重要と見て、人物に夢中になります。タイでは人気のあるアーチャンには熱中するファンが多く、人気歌手やスポーツ選手に逆上せ上がるように一人のアーチャンに熱狂し、支援者の多いアーチャンは、集めた資金で豪勢な建物を建てます。

 

しかしそのアーチャンが亡くなってしばらくすると、熱中できる別のアーチャンを見つけて、熱狂的に支援してしまうようです。それらの人は、誰でも良いから熱中できる人物が欲しいだけのように見えます。だから「ダンマを教えとし、人物を教えにしない」ことは、非常に重要と感じます。

 

もう一つ、一般人でも出家でも、「この人はいい加減なことを言う」と観察して見たら、その人の話は、注意して聞く方が良いです。常日頃から真実でないこと、いい加減なことを言わないよう注意していなければ、話すことの真偽に関して迂闊である習性の報いで、真実である知識や情報が、その人に入って来ないことがあるからです。

 

自分自身も、誰かに知識や情報を提供する時、それは真実か、事実か確認する努力をし、自分が考えたことなら考えたと、思うなら思うと、聞いたのなら聞いたと、本で読んだのなら読んだと明らかにし、「自分が話すことは全部、確定的真実」と聞こえるような話し方をしないように注意しています。本当のブッダの教えを知るためには、自分もブッダの教えを聞くにふさわしい人物にならなければ、相応しくない人の耳には入って来ないからです。

 

 

カルト教団に入ってしまう業

統一教会が話題になっているので、どういう人がそのような教団に入るのか、カルト団体の餌食になる原因であるカンマは何かを知りたいと思いました。山上容疑者の母親の生年月日が分かるはずもないので、会員、あるいは会員であったことがあるとネットで公表されている有名人や芸能人のホロスコープを、知れるだけ調べて見ました。

 

桜田淳子飯星景子音無美紀子仲正昌樹金沢大学教授に共通するのは、水星と海王星の凶座相(90度、180度)でした。他にはこの座相がなくても、水星が魚座にある人が何人かいました。魚座の守護星は海王星なので、水星が魚座にあれば、水星と海王星が0度(合)と同じ意味になります。0度は凶座相の意味も、吉座相の意味もあります。

 

竹内結子藤岡弘は二つの星が150度離れていて、これも凶の意味があります。いずれにしても、知性や言葉、情報を表す水星と、信仰・欺瞞・曖昧さ・陶酔・魅惑などを表す海王星が何らかの角度や関係がある場合がほとんどと分かりました。

 

テキストにあるこの二つの星が作る座相の説明は、「正体不明の不安や恐怖に悩まされ、注意力散漫で、自分の意見がまとまりにくい。嘘や作り話が多く、陰謀を企てる傾向があり、これが身を滅ぼす危険がある」とあります。占星学のテキストを読むと、二つの惑星、あるいは観測点が作る座相は、それがある人の習性と、その習性の結果が示されているので、カンマの面からも関心があります。

 

「これらの人たちは、この座相があるから旧統一教会に入っている。入っていた」と言うのではなく、「こういう団体の被害に遭うのは、これらの座相が表示する習性、つまり嘘や作り話という口業、陰謀という意業・口業・身業と関連があるように見える」と言えると思います。

 

口で言う嘘や作り話などの口業、あるいは不正語は、言う人は、話している時楽しく、大した実害も与えていないと思うかもしれません。しかし殺生や窃盗に比べると、不正語の頻度は非常に多く、飲酒や不邪淫よりはるかに多いです。例えば一つ嘘を言うと、その嘘を隠すために幾つもの嘘を言わなければならなくなり、結果は鼠算のように大きくなると思わなければなりません。

 

安倍元総理大臣を銃撃した山上容疑者の母親に、嘘や作り話、陰謀などのカンマがあったかどうかは知りません。しかしカルト教団に溺れたことの結果を見ると、それらのカンマの結果がどんなに家族を苦しめ破壊したか、想像するに難くありません。そのような宗教を信仰して、信仰に従って布施を実践しても、望んだ心の平和を実現できず、まだ寄付が足りないと焦燥している本人も、当然幸福ではないと推察します。

 

嘘や悪口、綺語などには、ほとんど重要な結果はないように見えますが、積もり積もれば取り返しのつかない重大な結果を招くと、不正語戒と、その戒がないことの結果について「自分のためにならない」と知ってほしいと思います。

統一教会が話題になっているので、どういう人がそのような教団に入るのか、カルト団体の餌食になる原因であるカンマは何かを知りたいと思いました。山上容疑者の母親の生年月日が分かるはずもないので、会員、あるいは会員であったことがあるとネットで公表されている有名人や芸能人のホロスコープを、知れるだけ調べて見ました。

 

桜田淳子飯星景子音無美紀子仲正昌樹金沢大学教授に共通するのは、水星と海王星の凶座相(90度、180度)でした。他にはこの座相がなくても、水星が魚座にある人が何人かいました。魚座の守護星は海王星なので、水星が魚座にあれば、水星と海王星が0度(合)と同じ意味になります。0度は凶座相の意味も、吉座相の意味もあります。

 

竹内結子藤岡弘は二つの星が150度離れていて、これも凶の意味があります。いずれにしても、知性を表す水星と、信仰・欺瞞・曖昧さ・陶酔・魅惑などを表す海王星が何らかの角度や関係がある場合がほとんどと分かりました。

 

テキストにあるこの二つの星が作る座相の説明は、「正体不明の不安や恐怖に悩まされ、注意力散漫で、自分の意見がまとまりにくい。嘘や作り話が多く、陰謀を企てる傾向があり、これが身を滅ぼす危険がある」とあります。占星学のテキストを読むと、二つの惑星、あるいは観測点が作る座相は、それがある人の習性と、その習性の結果が示されているので、カンマの面からも関心があります。

 

「これらの人たちは、この座相があるから旧統一教会に入っている。入っていた」と言うのではなく、「こういう団体の被害に遭うのは、これらの座相が表示する習性、つまり嘘や作り話という口業、陰謀という意業・口業・身業に原因があるように見える」と言えると思います。

 

口で言う嘘や作り話などの口業、あるいは不正語は、言う人は、話している時楽しく、大した実害も与えていないと思うかもしれません。しかし殺生や窃盗に比べると、不正語の頻度は非常に多く、飲酒や不邪淫よりはるかに多いです。例えば一つ嘘を言うと、その嘘を隠すために幾つもの嘘を言わなければならなくなり、結果は鼠算のように大きくなると思わなければなりません。

 

安倍元総理大臣を銃撃した山上容疑者の母親に、嘘や作り話、陰謀などのカンマがあったかどうかは知りません。しかしカルト教団に溺れたことの結果を見ると、それらのカンマの結果がどんなに家族を苦しめ破壊したか、想像するに難くありません。そのような宗教を信仰して、信仰に従って布施を実践しても、望んだ心の平和を実現できず、まだ寄付が足りないと焦燥している本人も、当然幸福ではないと推察します。

 

嘘や悪口、綺語などには、ほとんど重要な結果はないように見えますが、積もり積もれば取り返しのつかない重大な結果を招くと、不正語戒と、その戒がないことの結果について「自分のためにならない」と知ってほしいと思います。