いつでも夢中になれる自分で満足できる仕事があること

先日美容院で美容師さんと雑談をしていたら、コシノジュンコの話が出て、それからココ・シャネルの話になると、彼女が「幸福だったどうかは分かりませんけどね」と言いました。多分何度も恋愛をして、その度に夢が破れたことについて言っていたのだと思います。私はシャネルの仕事を思って、「私は幸せな人生だったと思います」と言いました。

 

それで家へ戻ってから、幸せって何だろうと考えてしまいました。ココ・シャネルの場合、次々に恋をして、どの恋人とも結婚に至らなかったので、その意味では不幸だったかも知れません。しかし結婚すれば幸福になると決まっている訳でもなく、結婚後に不幸な生活を余儀なくされる人生もあります。結婚で幸福になる人と、結婚で不幸になる人の割合は同じくらいではないかと推測します。

 

私がココ・シャネルの人生を幸福な人生だったと感じるのは、「いつでも夢中になれる、自分で満足できる仕事があった」ことです。それは男性の人生で、女性は仕事でなく愛だと反論する人がいるかもしれません。だからその「仕事」という言葉は、職業や公的な仕事だけでなく、家事でも、夫や妻や子供や家族に尽くすことでも、趣味でも何でも、「日常的に継続してすること」という意味にします。

 

そうすれば結婚を幸福と感じる人でも、仕事として家庭生活の中の義務を果たし、あるいは夫や妻や子供に奉仕することでも、それに満足していれば「満足する仕事がある」と言います。しかし夫婦や家族ですごす楽しい時間を幸福と捉える場合、それは壊れやすい幸福で、永続しません。

 

私は、幸福は他者から受け取るものでなく、自ら(幸福の)原因を作り出すことでなければならないと思います。愛されることや、大切にされることも幸福に違いはありませんが、そればかりを求めていれば、借金してして楽しむ生活のように、いつ不幸のどん底に落ちるかも知れません。しかし他者を愛して大切にすることに満足して、その結果、報いとして愛され大切にされるなら、受け取った利子で生活するように安心です。

 

満足できる仕事があれば、貧困や難しい人間関係、侮辱、屈辱、病苦なども、大した問題ではないと思うことができます。満足できる仕事があることは、使えるお金がたくさんあること、健康、円満な人間関係などに関わる楽しい種類の幸福に比べて、はるかに深い満足だからです。

 

一昔前、働く女性が輝いて見えたのは、お金のためでなく、仕事のための仕事、満足できる仕事があり、その仕事に満足していたからだと思います。お金のためだけに働いていれば、人が羨むような仕事でも、決して輝いて見えないと思います。

 

私はプッタタートの本に出会ってから、収入になる仕事を辞め、翻訳三昧の人生を選択し、仕事の時間を妨害する旅行や食べ歩きやショッピング、映画などを極力犠牲にして、内職をするようにわずかな時間を惜しんで、ダンマの本の翻訳の仕事をしてきました。人生を楽しむタイプの人から見れば地獄のような、何の面白みもない退屈な日々ですが、それを天命と感じてからは、これ以上の幸福、これ以上の楽しさは考えられません。

 

仏教では幸福について語らず、苦がないことを幸福と見なします。私は、日常的に継続してする仕事がなければ苦と感じますが、恋愛至上主義的な人は愛がなければ、享楽主義の人は楽しくなければ空しく感じ、苦と感じるでしょう。

しかし広い意味では、恋愛も享楽も、煩悩の低い心の感覚ではあっても、「いつでも夢中になれる、自分で満足できる仕事」という言葉に含めることができるかもしれません。

丸木美術館で本当の芸術を見た記憶

被団協がノーベル平和賞を受賞しました。それで、四十年以上前に子供を連れて見に行ったことがある、埼玉県東松山市にある「丸木美術館」を思い出しました。丸木位里、俊夫妻が、原爆投下数日後の広島市内の情景を全身全霊で描いた絵が、数多く展示されていました。

 

広島長崎の話を、テレビで体験者から聞くことは何度もありましたが、その絵を見た時、本当に「百聞は一見にしかず」だと実感しました。話す人は千も万も、それ以上に溢れるイメージを限られた言葉で表現し、聞く人は、聞く人自身の想像力で推測するので、同じイメージが伝わっているか頼りない物があります。しかし絵画、特に実際に原爆の惨状を自身で目の当たりにし、瞼に焼き付けた画家が渾身の力で描いた絵は、見る人の魂に訴え、心を揺さぶり、それから何日も、何か月も心に残り、きっかけがあれば、今でもその感動が蘇ります。

 

今は美しい髪と皮膚に覆われた人も、知らぬ間に空から何かが落ちて来れば、一瞬であのような姿になる。死人も、まだ死にきれない人も、あの一瞬前までは、自分と同じ、若さに奢れた人だったかもしれないと、死随観・不浄観もできます。現代では見ることも想像することもできない、世界の真実の姿が描かれています。

 

訳し終えたけれどまだ文字化けしてしまい、まだ読んでいただけない「ブッディカチャリヤダンマ」の中で、プッタタート師が「芸術とは、見た人の心にある煩悩の考えを一時忘れさせる物。だから価値がある」と話しています。丸木美術館の絵は、私の場合、他の美術館より何十倍も、何百倍も長い時間、煩悩の考えを忘れさせ、思い出す度に煩悩を忘れ、深い考えに誘いました。

 

思い出してネットで検索して見たら、建物の老朽と絵画の傷みで、存続の危機とありました。このたくさんの絵が消滅してしまったら、世界は、再び現わすことができない大きな財産を失うような気がします。

 

 

 

伝統を破壊した「冥王星山羊座時代」終わる

2008年11月末から山羊座にあった冥王星が、今年の11月20日に水瓶座に移動し、山羊座に滞在した時代が終わります。

 

誕生日の「太陽が○○座にある人は、これこれこういう性格で」というのは、どなたも聞いたことがあると思います。同じようにいろんな惑星がいろんな星座にある時、それぞれ意味があり、その惑星がその星座にある間に生まれた人と、その間の世界は、その影響を受け取ると考えられます。

 

土星より近い星は何千年も前から研究されていますが、冥王星は発見されて間もなく、軌道をまだ一周していないので、人や世界にどんな影響があるか、まだよく分かっていません。だからいろんな読み方があって興味深いです。

 

冥王星は死と再生、破壊と創生の星であり、それが山羊座にあれば、山羊座が象徴する物を破壊、創生します。山羊座にはいろんな意味がありますが、私は冥王星山羊座時代を、伝統の破壊と読んでいます。

 

長い間支持されて伝統となっていた価値観がひっくり返され、あらゆるものが「前代未聞、あり得ない」形になりました。

 

毎日観ているテレビも、プロの歌手、プロの俳優、古典落語、漫才は消え、そうではない歌手が歌を歌い、人気があるだけの人がドラマを演じ、芸ではないお笑い、タレントのお喋りのような場面が、何の番組にも挿入され、本題の話題の流れを妨害し、噺家さんは笑点で見るだけ、漫才師もコンビで見ることがありません。だからテレビを見ている限り、プロの人の顔を見ません。伝統的なプロは今、水面下で息をひそめています。

 

そして時代が求めていないからでしょうか。一度聴いたら忘れないような良イメロディーも,さすが!と感心してしまう良い歌詞も、ハッとするような良いアレンジもありません。

 

料理は、伝統では基本である作り方がありますが、今は一時代前なら眉をひそめたような、びっくりするアレンジが溢れています。唐揚げにマヨネーズとチーズ、トンカツにカレーとチーズなど、幾つものソースや調味料を重ねてふんだんに使い、それでソースや調味料以外の何の味がするのか、食べて見ないと想像できませんが、食べる気にもなりません。

 

そして好きな物は腹いっぱい、食べられるだけ食べ、お代わり自由、大盛無料、大食いメニューなどがあり、現代人は必要を超えて美味しさを追求し、煩悩を満たすだけの生き物になってしまったのかと思うほどです。そして味への陶酔の著しさを表す、食レポなどという言葉もできました。テレビではどの番組でも食べ物の話があり、食べ物も、美味しさだけの話で、他の角度は全くありません。

 

言葉はいつでも時代と共に変化し、乱れて、それが次第に定着して行くものですが、この二十年間は目を覆いたくなるほどです。テレビに出ている芸能人で、自身を「俺」と呼ぶ人が非常に多いです。俺は最高に下品な言葉で、親の前、目上の人の前、知らない人の前で使うことはあり得ない言葉ですが、先輩との会話で「俺」を使っている人がたくさんいます。つまり一人称の使い分けができません。

 

俺だけでなく、会話に使う言葉は、俺という主語にふさわしい、下品で乱暴な言葉ばかりで、女性も例外ではありません。NHKの連続ドラマの主題歌に「知らねえけど」という言葉が出てきて、げんなりしました。反対に上品という言葉は、死語、あるいは何の価値も興味もない物になりました。

 

この時代には言語の乱れだけでなく、マナーや礼儀作法もすっかり社会から姿を消しました。男性も女性も、ガサツな雰囲気の人ばかりが目立ち、かつてはたくさんいた上品な人、美しい作法の人は、ほとんど表面に現れません。

 

使い分けと言えば、最近では「ご飯」のことを「米」という人が多いです。若い人もたぶん、言葉を覚えた時には「ごはん」と教えられたと思いますが、つい最近になって、流行の「米」という言葉に変えたのでしょう。ご飯は炊いた米で、米は生の、まだ炊いていない状態の生米です。若い人だけかと思っていたら、料理番組で教えている中年の人が、ご飯のことを「米」と言っているのには、びっくりしました。

 

最近はもういなくなりましたが、流行に敏感な人たちが、寝起きのように乱したヘアースタイルをしていました。若い人ばかりでなく、中年を過ぎた人まで若ぶって真似ている人を見ました。

 

プロがいない時代と言えば、スーパーで買う野菜も、最近は成長しすぎて固くて食べられない小松菜やオクラ、インゲンなどに、時々遭遇します。作り手は、食べられるか食べられないか見て分かるので、食べられない物が売られていることはありませんでしたが、最近の農家はプロでなくなったのか、過熟であると知っていても出荷してしまうのか、どちらかでしょう。

 

最近の犯罪もプロでなく、闇バイトなど素人を雇った形態が増えています。また、かつて老人の犯罪者はいませんでしたが、今、刑務所は介護施設のようだと聞きます。このような状態も、伝統の破壊と言えないでしょうか。

 

政界を見ると、冥王星山羊座に入り始めた平成20年以降の総理大臣は、麻生太郎鳩山由紀夫菅直人野田佳彦安部晋三、菅偉義、岸田文雄石破茂で、この中には、いろんな意味で伝統破りの、かつてはあり得なかったような人がいなかったでしょうか。あるいはプロでない政治家たちだったでしょうか。海外では、トランプ大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、韓国ではパックネ大統領、ムンジェイン大統領、など、その国の歴史の中で、伝統破りな面がなかったでしょうか。

 

世界の王室も、秋篠宮真子様、イギリスのヘンリー王子、ノルウェー皇太子の結婚など、古い伝統を破った、新しい形の結婚でした。

 

長々と例を書きましたが、あと一か月余で伝統破戒の時代が終わり、新しい冥王星水瓶座時代が始まります。どんな時代になるか、興味深いです。

飛行機や新幹線の運行の乱れ

最近多いものに、飛行機や新幹線の運行の乱れがあります。通勤に使う電車が人身事故や信号故障などで遅れるのは日常茶飯事ですが、新幹線や飛行機はあまり聞きませんでした。天候不良等で数間遅れることは、当然発生していたと思いますが、特定の便だけで、ニュースになるほど大規模ではありませんでした。

 

今年は地震や豪雨などで、多くの便が欠航し、新幹線では車内や駅でたくさんの人が待たされているのを、テレビの報道で見ました。それも度々でした。いつも同じ線、同じ時間でなく、巻き込まれる人も同じではないと推測しますが、遭遇した人は焦燥と疲労で大変だっただろうと思います。通勤電車は出勤や帰宅が多少遅れるだけですが、新幹線や飛行機は、仕事関連の人だけでなく、観光、行楽の人たちも多いので、せっかくの楽しみが台無しになってしまいます。

 

私の家族も、昔は時々通勤電車が止まって、電車内や駅で数十分、あるいは一時間以上待たされ、帰宅が遅れることが度々ありました。そしてその時期を過ぎて別の時代になると、ほとんどそうしたことに遭遇しなくなりました。

 

その家族の行動をよく観察して見ると、しょっちゅう電車の乱れに遭遇した時代には、会社が終わった後、友達とお茶を飲んだり、お喋りをしたりして、定時より帰宅が遅れる日がよくあり、終業後に会社の友達とおしゃべりすることが無くなると、通勤電車はいつも時間どうりで、運行の乱れに遭遇することはなくなりました。

 

「寄り道」と「通勤電車の遅れ」、この二つの行動に関連があるらしいということは間もなく感じたのですが、なぜ関連があるのか、熟慮したことはありませんでした。それで二つの出来事の要旨、あるいはその行為の意図を見て見ました。仕事帰りに同僚とお喋りをして帰宅が遅れる時、その心にはたぶん、「今日のその後の日課は狂ってしまっても仕方がない」という思いがあります。家へ帰っても食事をしてお風呂に入って寝るだけ。多少ずれ込んでも構わない。私自身もそう考えて、突然の予定変更をした経験があるからです。

 

お喋りや飲み会は楽しいから。こんな機会は今しかないかも知れないから。誘われたから。自分自身にいろんな言い訳をして、「成り行き次第で予定変更をし」て、楽しみを優先します。だからそのカンマの報いは、「突然の予定変更を余儀なくされる」のではないでしょうか。

 

昔は通勤をしている人たちだけが遭遇する出来事でしたが、今は飛行機や新幹線を使う人たちも、「突然の予定変更」を余儀なくされるカンマがあるのかも知れません。冬季に予想外の大雪で道路が渋滞し、車が動けなくなって何時間も車内に閉じ込められる人たちがいますが、あれも公共交通機関を利用しない人たちの、同じ類のカンマの結果と見えます。

更新失敗!

プッタタート師の新しい本「ブッディカチャリヤダンマ」の翻訳が終わりました。最後の更新は昨年の12月なので、十か月振りです。五十代六十代には、年に、薄い本なら三冊、分厚い本でも二冊くらいは翻訳できましたが、ここ数年は、年に一冊が精一杯です。

 

毎食後、一時間くらい眠らなければならず、特に体調の悪い時は二時間くらい眠るので、まとまって仕事をする時間がないからです。それでも、少しずつでも毎日続けていれば、最後には終わり、やっと更新に漕ぎつけました。しかしアップロードして見ると画面が文字化けしてしまい、読むことができません。どこが間違っているのか確認中ですが、良く分かりません。

 

こんなことはしょっちゅうです。PCは買ったばかりなのに調子が悪く、購入した会社に修理を依頼したくても、体調が今一安定しないので、まだ頼める状態にありません。今回も、九月の初めにアップロードしようとしましたが上手くできず、しばらく放っておいたら、アップロードはできましたが、文字化けしました。

 

長いことお待たせしていますが、そんな訳で、もうしばらくお待ちください。

 

ここ十年くらいの世界の異常

熊本の豪雨で玉ネギが品薄になり、北海道が多雨でジャガイモが品薄になり、それ以降、今でもそれらは品薄で高値傾向が続いています。それからコロナ渦には輸入食品が減り、国内の加工食品の何種類もが品薄になり、コロナが治まっても、一度不足した食品の量は元には戻っていないように見えます。

 

鶏肉は、時々鳥インフルエンザが発生して供給が減り、海水温の上昇が原因なのか、何年も前からイカ、サバ、サンマ、イワシなどが店頭から姿を消しました。そして今度は主食の米不足です。

 

一昔前までは肉でも野菜でも、スーパーの売り場には山積みされ、欲しいだけ手に入り、また幾らでも買える値段でした。今もそれらの食べ物はスーパーにあることはありますが、たくさんではなく、そうかと言って逼迫するほどでもありません。また「無い」と言われる食品もある所にはあり、探せば手に入ります。

 

食品不足の原因の多くは猛暑や暖冬などにあるようですが、これは人の力では解決できないように見えます。解決できなければこの傾向はまだまだ続き、益々ひどくなるようです。

 

 

食べ物の問題だけでなく、最近は地震と台風、ゲリラ雷雨の発生、竜巻、洪水などによる被害が、年に何度もあり、数えきれないほどの家が倒壊や浸水して住めない状態になり、家財を失い、自動車や仕事の道具や機械を失っています。昔は数年に一度くらいしかなかった災害が、今は一年に数え切れないほど何度も、日本各地で頻繁に起きています。

 

直接の被災者は家や店舗、工場などの建物、備品家財等を失い、消費者は被災した人が関わっていた産業の産物が高騰して被害を受けます。

 

そしてコロナウィルスが蔓延した時は、行動の自由が制限され、特に旅行や観劇、外食やイベントなどは制限を受け、病院やクリニックの受診や、治療、手術にも不自由があったと報道で読みました。(しかし家族や部下を強く支配する中国などと比較すると、国から制限される自由の種類も程度も僅かです)。

 

コロナウィルスが下火になって、いざ、海外旅行が解禁になったら、今度は著しい円安で都合が悪く、国内の観光地は何処へ行ってもインバウンドでごった返していて、ゆっくり楽しめる状態ではなくなってしまいました。

 

このように不自由で快適でない状況が次から次へと発生し、その都度対処を強いられ、静かで幸福な日常生活が送れなくなってしまいました。今後日本はどうなってしまうのでしょう。報道で見る海外(主に先進国)の様子も同じようで、この世界は、地球は、これからどうなってしまうのか心配になります。

 

つまり、今の状態がどんどん加速していくのか、あるいはこれは一時的な現象で、また普通の状態、多少はマシな状態に戻るのでしょうか。

 

 

私は、世界がこのように変化したのは、世界の人が同じ種類の報いを受け取るカンマを作っているからではないかと見ます。結果として経済的な損失を受け取るカンマ、結果として食べ物に関して不自由を受け取るカンマ、行動の自由、特に娯楽や楽しみを制限されるカンマなどです。

 

電力や原材料の値上がりで倒産、あるいは廃業する美容室、飲食店、洋菓子屋なども多いと聞きます。事業の縮小で解雇されて貧困に陥る人も少なくないようです。これらは直接収入を断たれる一部の人が受け取る結果で、すべての人は物価高という経済的な苦を受け取っています。

 

最近世界の人々が余儀なくされている状況は、戦時中に当時の人が受け取った苦と同じに見えます。食料の不足、住居や職場の喪失、家業の衰退、失業、家財の消失、行動の制限、娯楽や楽しみの制限など、要旨はほぼ同じです。

 

一人の人のカンマは、その人が結果を受け取るだけですが、世間の多くの人が同じ意味の小さなカンマを作って、たくさん溜めこめば、何時か、同じカンマの結果を受け取らなければならなくなります。それが昔から何十年かに一度、何百年かに一度起こった災害、あるいは戦争であるように思います。

 

戦後、世界を巻き込むような大きな戦争はありませんが、世界の人は戦前と同じ、あるいは戦前以上に戒のない生活、慎みのない生活をしています。だから結果が出る一定水準までカンマが溜まれば、あるいは結果を出す時に至れば、報いを受け取らなければなりません。

 

今の人は殺生をするカンマを作る機会が、戦前の人に比べて非常に減ったので、先進国では戦争をする(戦死する)必要がなくなり、八十年間、世界大戦は起きていません。

 

しかし住居や財産を奪われる結果、食べ物に困難する結果、自由を制限させる結果などは、カンマが満杯になった時受け取らなければなりません。だから世界の多数の人にそれらの報いを受け取らせるために、豪雨や洪水や竜巻が起き、農産物を不作にし、それらに関わる産業に打撃を与え、食料を不足させ、失業や貧困を生じさせる、そのために気候変動が起きていると見ることができます。

 

つまり豪雨や温暖化、災害などは人間に困苦である報いを受け取らせる縁と見えます。人が普通に暮らして一定の歳月が流れれば、積もり積もったいろんなカンマの報いをまとめて受け取らなければならない時が来る、それが大地震や戦争ではないでしょうか。

 

 

別の角度から見ると、人が別の世界へ引っ越す時は、銀行の預金を解約し、借金を全額返済しなければならないように、人は晩年になると、まだ報いが現れていない善いカンマ、悪いカンマの報いが次々に現れます。晩年になって貧困になるのも、詐欺や窃盗の被害に遭うのも、認知症になって自分さえ分からなくなるのも、あるいは子や孫に囲まれて楽しく過ごすのも、親子の確執がのも、過去のカンマの結果です。

 

団塊世代の人が高齢になり、多くの人が「晩年」に入っています。今スーパーマーケットに行っても何処に行っても、出会うのは、長年溜めた小さなカンマの纏まった結果を受け取らなければならない年齢に差し掛かった人たちばかりです。その、小さなカンマの纏まった結果が、最近の「戦争のない戦時下」のような状況に見えます。つまり住居や財産を奪われる結果、食べ物に困難する結果、自由を制限させる等の結果を受け取っている昨今の、穏やかな幸福がない時代です

 

今地球上にある多くの問題、猛暑も、豪雨や洪水も、気候温暖化も、人は被害者で、気候や天災など、縁である物を原因と見ていれば、どんなに科学的な英知をもってしても解決の道はありません。しかしそれらは同じ要旨のカンマを作った地球人一人一人に、同じ要旨の結果をもたらす縁であり、本当の原因は一人一人の行動(カンマ)にあると見れば、簡単ではありませんが、少しずつでも解決できる希望がなくはありません

初物食い

先日、家族が初物のトウモロコシを買って来て食べていました。私は間食をしないので、おやつは一人分だけ買ってきます。半分以上食べた頃、「お母さんも少しなら食べられる?」と訊いてきました。体調が良い日には味見くらいすることもあるからです。

 

「昔は。初物は七十五日長生きすると言って、老人に初物を勧めたものだよ」と言うと、「それなら後で少しだけでも食べる?」と、先端部分をラップで包んで冷蔵してくれました。物質的に初物に長生きの効果があるなら、先端部分でも食べ残しでも効果があるかも知れません。しかしこの言葉の趣旨は、初物を食べた老人が長生きするのでなく、初物を老人に勧めた人が、初物を進めることで老人を尊重するので、勧める度に七十五日くらい長生きする徳があるという話のように思えます。

 

二度目三度目ではだめで、初物でなければならないのは、まだ珍しいうちでなければな価値が下がるからでしょう。これは老人を尊重することを習慣にさせる、昔の人の方便に見えます。何でも珍しい物が手に入ったら先ず老人に老人に勧めれば、それは正しい見解による行動なので、勧める人の振る舞いは美しく、まぎれもない善行で、若い家族が善行をしていれば、家は先々安泰です。

 

老人に内証で初物や珍しい物を食べてしまうような家族なら、それは誤った見解による振る舞いで、若い家族に誤った見解があれば、家門の将来が危ぶまれます。だから家族に善行をさせるために、正しい見解を持たせる方便である諺を創ったのではないでしょうか。

 

しかし「初物を老人に食べさせれば、食べさせた人が長生きする」と言えば、自分が長生きしたいために孝行の振りをする偽善になってしまうので、「食べた人が長生きする」と言ったのではないでしょうか。もしかしたら、いち早く初物を食べる後ろめたさを誤魔化すために、誰かが言い出した言い訳かもしれません。

 

私が結婚して持った家庭は核家族だったので、この諺のように、老人に初物を勧める光景を子供に見せて教える機会がありませんでした。だからその面の徳を積む機会もありませんでした。団塊世代の人は親世代に比べて老人を尊重しなくなった分だけ、正しい見解が少なくなり、正しい見解が少なくなった分だけ、短命になっているように見えます。