自然死を許さない社会

昨日八月二日のプレジデントオンラインに「ピンピンコロリ(PPK)は最悪の死に方」という記事がありました。ピンピンコロリは「最悪な死に方」である…高齢者医療のプロが「PPKを目指してはいけない」と訴えるワケ 「理想的な逝き方」が根付く社会は息苦しい (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

しばらく前から、死ぬまで元気で動いていて、突然、一気に死ぬのが理想の死に方のように言われ、東京巣鴨のとげ抜き地蔵は、一時PPKを願う人の参詣で賑わいました。今も賑わっているかどうかは知りません。

 

しかし今、家で体調が急変した時。その記事は次のように述べています。

 

『その急変の瞬間を目撃、共有した人は100パーセント救急車を呼ぶなり、即座に救命救急処置を開始することになり、これらは通常避けられません。  逆に、現在の日本において、つい先ほどまで元気に話をしていた人の呼吸や心拍が急に止まっているのを確認したにもかかわらず、ベッドに寝かせたまま“平穏に看取る”という選択をした人は、なぜそのような対応をしたのか、なぜ救急車を呼ばなかったのか、厳しく問われるとともに、あらぬ疑いをかけられる危険性すらあるといえるでしょう』。

 

家で家族の急変を目撃した人は、百パーセント救急車を呼び、病院で蘇生処置を施され、付き添いの家族も追い払われた冷たい救急処置室で呼吸器に繋がれ、四肢に点滴やラ何やらの針を刺されて、その挙句に死亡し、それが現代有り得るPPKだと筆者は述べています。

 

この記事を読んで、現代は飛んでもない時代になったと思いました。家で、朝起きて来ないで、ベッドの中で死んでいた、あるいは床やソファーに座って、横になってテレビを見たまま死んでいたような場合も、それが「自然に起きた死」と警察が認めるまでには、非常に厄介な過程を通過しなければならないと、テレビの特集番組で見たことがあります。

 

つまり長患いで掛かり付けのクリニックや病院がある人は、後日掛かりつけ医に、その病気の関連死であることを証明してもらえますが、それ以外の人は、家で静かに死ぬことは、ほとんど望めない社会になってしまったようです。

 

私は日頃から家族に、「私に何かあっても、救急車は呼ばなくても良い。死ぬ時が来たら、そのまま静かに死を迎えたい」と言っていますが、もし家族がその通りにしたら、警察から厳しく取り調べられるかもしれません。そうなれば、死んでも家族に迷惑をかけることになります。大人しく病院へ運ばれ、これ以上どう処置しても生き返らないと言えるまで処置を受けた末に死ぬ方が、家族にとっては楽です。

 

自分がどのような死を迎えるかは選べませんが、病気になった時、どのような処置や治療を受けるか否かは、本人に選ぶ自由はあるはずです。それなのに、前述のような場面に遭遇した人は、百パーセント救急車を呼ばなければ社会から責められ、警察から疑われるために、病人の意思を知っていても、救急車を呼ばざるを得ない家族も気の毒です。助かれば通報者の手柄ですが、治療の甲斐もなく死んでしまえば、親の意思に逆らい、嫌がっていた病院で死なせたことを悔やむかも知れません。

 

「誰もが幸福に生きる権利がある」と謳っている基本的人権には、静かに自然死を迎える自由は無いのかも知れません。