ある日突然、苦は消えた

タイの仏教の本を初めて読んだのは十数年前、チャヤサロー比丘の法話集でした。
 特に心に残ったのは、「心と心の中にあるものは別だということ。自分の心の中にあるものを見分けること。受蘊(感覚)か、想蘊(記憶)か、行蘊(考え)か、あるいは欲望か煩悩かを見分ける。受蘊ならば何の感情かを見分ける。見分けるだけでそれらは減っていく」という要旨でした。

 心の中にあるものを見分けるのは、すぐ習慣になりました。すると次第に無駄な考えが消え、その分だけ(タンマに関した)熟慮をしている時間が多くなりました。そして一年半以上たった頃、タンマタート著「初心者のための仏教」を読んでいる時、すべてを変えるような不思議な体験をしました。

 当時信頼関係は完全に破綻しているのに離婚に応じない夫を嫌い憎んでいました。顔を見るのも声を聞くのも、鳥肌が立つほど嫌悪していて、日常生活では可能な限り接触を避けていました。しかし冠婚葬祭の時は一日中行動を共にしなければならないので、非常に苦痛でした。親戚付き合いだけは仕方ないと思いましたが、夫が他人の仲人まで引き受けてくると、日頃抑えている怒りが爆発しました。

 ところが、夫からまた仲人を頼まれたと聞いたとき、いつもなら「何度言ったら分かるのよ。二度と引き受けないでと言っているでしょ」と怒りが噴出するのに、反射的に、「仕方ないか。夫にも断れない事情があるのだろう」と感じました。そして以前のように、自分は夫を嫌っていないことに気づきました。

 離婚を望んで二十年近く自分を縛りつけていた苦しみが消えて、心が自由になったのを感じました。離婚してもしなくても同じだと感じました。外的状況は何も変わってないのに、幸福を感じました。 非常に根深く激しい夫への憎しみが消えると、同じくらい深く強い喜びが心に広がっているのが見えました。

それまで嫌いだったもののことを考えても嫌いでなく、憎んでいたものも憎くなく、強く引かれていたもの(音楽や文学や映画など)にも関心がなく、世の中のすべてが「どうでもいい」ことに感じられ、またすべてが「ちょうど良く」「これでいい」、つまり多すぎず足りなくもない、と感じました。

「人生って何? 何のために生きるの?」を初めとする、いまで答の得られなかった人生や世の中に関する数々の疑問もすべて消えました。答が得られたからです。

 物質的、あるいは世俗的に何か良い事があったわけではないのに、それまでと何も変わっていないのに、心が変わっただけで無上の幸福感に包まれました。生きている喜びを感じ、生きてきたことに感謝を感じました。自分は最高に幸せだと思いました。

 すべてがちょうど良く、それ以上に欲しいものがないので、物質的欲望はもちろん、他人とお喋りしたい気持も無くなりました。他人と話したい欲求は、賞賛や共感や同情や楽しみなどを求める気持ちから生じるので、そうしたものを欲しがらなくなると、(求めなくても十分幸福だから)話したい気持も起こりません。

 あの人と話してみようかなと思うとき、心の中に、その人から賞賛や同意、共感などを求める気持が見えるので、そういう自分が馬鹿らしくなります。期待どおり求めているものが得られれば、癖になってもっと欲しくなるし、求めたものが得られなかったり、反対のものが返ってきたりすると、不満や落胆が生じるだけだからです。

 人と喋りたい欲望がなくなると、寂しさや人恋しさがなくなり、これは非常に生きることを楽にしました。

 すべてがどうでもいいことになると、死の恐怖も消え、死の恐怖が消えると、他のすべての恐怖も消えました。状況が悪化することへの恐怖や、つまらないことを恥ずかしいと思う感覚も消えました。どうでも良い事ばかりだからです、あらゆるものへのこだわりがなくなりました。

当時の私は、友達より周囲の誰よりも不幸だと考えていましたが、当時の苦の九十九、九パーセントが突然消滅したと感じた時から、この世界で一番幸福な人間だと思えるようになりました。

その時から、ただ何となく実践し続けただけでこのように私を変えた「タンマ」を、日本人が読んで理解し、そして実践して、「苦は本当に減らせる」と自分で確認していただけるようにすることが、私の努めと信じ、その確信に従って生きています。

(その後、チャヤサロー比丘が話していたのは、ターン・プッタタートの「煩悩に餌をやらないで餓死させて全滅させる」という手法、つまり四念処だと知りました。そして突然現れた幸福は四禅と呼ばれる状態だったことが分かりました)。