妹を見舞う

妹から久々に電話があり、悪性リンパ腫を患っていて、医師から余命半年もないと言われ、入院中してしまうと会えないので、会えるうちに来てほしいと言うので、郷里の町まで会いに行ってきました。発病から二年近くが経ち、幾夜も眠れない夜を過ごし、泣けるだけ泣いていろんな心の問題を乗り越えた末なのか、まったく暗さはなく、実にあっけらかんとしていました。

 

妹の嫁ぎ先はカトリックなので、死を目前にしてどのようなことを考えているのか関心がありましたが、心の面では、何も普通の人と違いがあるようには見えませんでした。会っていない時間の経過などを話した後、「海外旅行に三十か国、四十五回行ったので、思い残すことはない」と言って、幾つか思い出話をしました。そのように自分で納得するしかないのかも知れませんが。

 

それを聞くと、十年前の夫の葬儀を想い出しました。家族葬の会食の席で、親戚が会話している声に耳を欹てると、夫の親戚側で一人、私の親戚側では妹が、その当時熱中していた海外旅行の自慢話に花を咲かせ、他の兄弟は黙って聞いていました。葬儀の前や火葬場で時間があったので話し飽きたのか、死者の思い出話をする人は一人もいませんでした。まだ熱い骨壺を前にした会食では、悪口でもいいから、死者を話題にしてほしいと思いました。

 

その後親戚で集まる機会がないので、法事でもすれば親戚が集まって話せると考えることもありましたが、結局、自慢したい人が自慢話をする機会になるだけと思うと、法事をする気持ちになれませんでした。

 

私はタイ旅行に夢中になっていた時代があるので良いですが、一度も海外旅行をしたことがない兄弟たちは、海外旅行の自慢話を聞いて、あまり気持ちは良くはないはずです。遠路足を運んでくれた人たちに不味い酒を飲ませて、申し訳ない気がしました。

 

それで「猿が耳を洗う」という三蔵にある話を思い出しました。以前にも書いたかも知れませんが、確信がないので、もう一度書きます。

 

ある森に猿の群れのボスである美しい白猿がいました。ある日人間に見つかってしまい、捕まえられて王様に献上されます。王は白猿に城の中で自由に暮らしてくれるよう言ったので、猿はあちらの木、こちらの木の上で、人間たちはどのような話をするのか、聞いて、観察していました。するとすべての人間が「俺は」「俺は」「俺の何々は」と自分の話ばかりするので、だんだん憂鬱になり、元気がなくなりました。王は白猿が衰弱していくのを見て、理由を聞くと気の毒に思って、白猿を以前住んでいた森に帰しました。

 

森に戻った白猿は、群れの猿たちから人間について聞かれ、「このように自分の自慢ばかりだった」と話して聞かせると、聞いていた猿の群れが一斉に川へ降りて行って、耳を洗い始めました。汚い話を聞いて、耳が汚れたと感じたから、という話です。

 

私も汚い物を見た気がして、耳を洗う猿の気持ちが理解できました。

 

妹が今までどのように暮らしていても、死を目前にしていて、キリスト教徒でもあるので、普通の仏教徒より教えがあるのではないかと勝手に想像していましたが、何の宗教もない人、食べて、遊ぶことだけに幸福を感じる(つまり精神的な世界がない)欲界動物から、指先一本も出ていないと見てがっかりしました。神様を信じる人は全員天国へ行けると言っても、教えを実践しない人は、どこの世界でも幸福に暮らせる道理がありません。「神様の国に行くのなら、神様の気に入られるよう善を積んで行く方が、天国で幸福に暮らせると思うよ」と言いたいと思いましたが、良い機会がありませんでした。

 

私が帰郷したことを知った兄夫婦が妹の家に顔を出しました。久しぶりに会う兄は宿痾の糖尿病が悪化して、十センチ先までしか見えないそうで、兄嫁に手を引かれて歩いていました。兄は若い時から親の批判してばかりいる人で、小さいながらも会社を経営していましたが、母の死後、自然消滅のように廃業していました。

 

何度か法話のプリントを渡して、正しい見解の人になってもらう努力はしましたが、甲斐はありませんでした。両親が亡くなり、親不孝のカンマの報いである衰退が始まってから、ダンマに出遭うことは望めないのかも知れませんしれません。

 

「善果が現われるまで、善人も悪人に見える。悪果が現われるまで、悪人も善人に見える」というブッダの言葉がありますが、悪果が現われないうちは、誰もが自分を善人と思い、反省や方向転換する機会もなく、自分の考えで突っ走ってしまいます。しかし悪果が現われた時には、既に遅すぎます。

 

昔の人は親の教えがあり、親の教えはほとんど道徳なので、親の教えを守っていれば普通に年を取り、老衰などで苦が少なく死ねましたが、戦後の文化の中で育った人は、道徳も慎みもなく煩悩のままに生きたので、これからどんな晩年、最期が待っているのか、思いやられます。

 

私の両親の何が間違っていたか考えると、親孝行を教えなかったことだと思います。子供に幸福な一生、人間らしい穏やかな生涯を送って欲しいと願うなら、まだ理屈を言わない幼児の時から、道徳や親孝行を教えなければならないと思いました。道徳があれば、破滅、衰退、心身の障害や、悪死、事故死、職場での事故死などは避けられるからです。

 

子に「親孝行をしなさい」と教えるのは、自分にいろいろして欲しいと言っているようで、催促がましくて積極的になれませんが、その変な遠慮が、親不幸な子に育てる縁になってしまいます。自分が親に孝行をして、その姿を子に見せるのが一番簡単で、最高に効果がありますが、既に親が亡くなっていれば、(自分の)親の恩を具体的に聞かせ、こうすれば良かった、ああすれば良かったと、孝行しなかった後悔の気持ちを話して聞かせるのも良いと思います。

 

子を持つすべての人たちに、「子に道徳を教えない親は、子を破滅させる人」と、忠告し続けたいと思います。「情けは人のためならず」、つまり「人に情けをかけるのは、むしろ自分のためになる」という意味の諺があります。私は新しく「孝行は親のためならず」、子のために、子が安全な生涯を送れるよう、子に孝行を教えなさいと言いたいです。